57 今日はあまり優しくできそうにないが?
メイの背後に立つと、彼女の肩を掴んだ。そして背中にナイフの先を向けながら歩いた。彼女はすこしだって抵抗をしなかった。その素振りもない。廊下を進む途中、僕は自分の部屋に戻ることで頭を一杯にしていた。
しかし呆けている時間はなかった。見張りのために先行を進んでいたティムの悲鳴が聞こえたからだ。それは廊下を曲がったすぐ近くだった。彼はUターンをして、片方が破けた羽ですぐに戻ってきた。声は弱々しく、腹は平らになりかけていた。
「……大男が来た、兄弟。逃げるんだ」
僕は耳を澄ました。ティムの後ろ側ではコツコツと音が鳴っている。新品の革靴なのかもしれない。それは確実にやって来ている。
「根来か? 」
「そうだよ。俺はいいから、早く行きな」
僕は頷き、メイに早く歩けと催促した。彼女はその通りにしてくれた。もうティムを振り返ることはなかった。
僕は部屋の前まで急ぐと、すぐにドアを解錠した。しかしドアノブを捻っても、開くことはなかった。力を込めて引いたのだが、びくともしない。蝶番でも壊れてしまったのか、とたしかめようとして全てを理解した。視線をドアノブの少し上にやると、白熊のように大きな手があったのだ。指の一つ一つが頑丈な螺のようだった。僕は咄嗟にナイフを持ち直して、素早く後ろに突き出す。しかし目の前には違う部屋のドアがあるだけだ。思わず首をかしげたが、そのせいで余計に首の角度が曲がることになった。白熊の平手はそんなにヤワじゃない。僕は床に叩きつけられると、追撃を避けるためにナイフを構えた。
「そんな動きじゃ、俺には敵わんよ。ナイフを渡しな? それとも痛い目にあいたいか? 」
根来はそう言うと、目尻を逆立てた。もうお前の行き場所は決まっている、とでも言うように口元をへの字に下げていた。
「さあ、選べ。十秒待ってやる」
彼は太い腕を曲げて、胸の近くで拳をつくった。もう片方の手はナイフを貰おうと差し出していた。僕は佇まいを正すと、ゆっくりと立ち上がながら、メイの方に視線を向けた。彼女はドアに寄り掛かっているだけで、この成り行きを傍観していた。それと同じく、根来の視線がさっと動いた。
「どのみち」と根来は言った。「お前が何かを企んだところで、実行に移す前にはもう気絶してるよ。多数で挑めば、まだ勝ち目はあったかもしれんがね。俺はその女と違って、そう簡単に手玉に取れることはない」
僕は何も言わなかった。黙ったまま、彼を睨んだ。時間は過ぎるばかりで、このままでは他にも人が集まってしまう。すぐ近くに部屋があるのに、逃げ込めないなんて……。さっきのようにティムが助けてくれたら、と僕は思った。そして舌打ちをすると、一瞬だけ後ろを見た。ティムがいない。僕は再び振り向くと、ティムが根来の側に飛んでいることに気付いた。さっきと同じ手筈だぜ、と彼は言ったような気がした。だから、根来が鬱陶しそうにティムを手で払っている間に、僕はナイフを持っている腕をぴんと伸ばした。ナイフは彼の心臓を捉えていたのだが、想像したように貫くことはできなかった。僕は真横に吹っ飛んだのだ。曇る視界の隅で右拳が少しだけ見えた。頬がずきずきと痛む。床に視線を落とすと、真っ白な歯が一つ落ちていた。
「だから言わんこっちゃない」と彼は言った。「俺にはその手は通用せんよ」
彼は首をぽきぽきと鳴らした。小指から順番にゆっくり折り畳んで、とびきり固そうな拳を完成させた。それを使用すべきか、まだやめておくか、問いかけるように僕を睨み付けた。
「今日はあまり優しくできそうにないが? 」
僕はその目を反らし、代わりにティムを見た。彼は弱々しいながらも、一生懸命に抵抗していた。根来の視界に入るようにうろちょろ飛び回り、潰された片目で僕をずっと見つめていた。諦めないように僕に訴えかけているのだ。僕は頷き返すと、ナイフを向けた。しかし根来ではなく、メイに。彼女は抵抗することなく、両手を上げて、簡単に人質になった。彼女は武器を向けられたら、普段よりずっと大人しいのかもしれない。僕は彼女の首元に腕を回すと、ナイフをそっと当てた。根来はそれにため息をついて、メイを呆れたように見ていた。
「やっぱり見せ掛けだけか? 」と根来は言った。「普段からよく喚き立てる奴ほど、窮地に陥ると、弱腰になるもんだ」
「そうだよ」と彼女は平然と答えた。「だって、ナイフを向けられたら怖いじゃないか? 」
「なぜ、ナイフなんて持っていった? 利用されることがわかっていただろうに。ナイフに心得もないくせに」
「君も持っているじゃないか? あの場の全員が保身のためにナイフをこっそり懐に忍ばせていた。でも、誰が正当なる防衛のために殺せただろうか? 私ならできるだろうが、しかしバカなことをしたもんだよ」
根来は小さく舌打ちをした。そしてベルトを緩め、その間に挟んでいたナイフを掴んだ。
「……余計なことを言いやがって。お前は救いのチャンスを自ら逃したんだぞ? 」
「そんなもので救われるとは思えない」と彼女は言った。「それより、君もそいつで殺されるかもしれない。人を殺したこともない奴が武器を人に向けたら痛い目みるぜ。そうでなくたって、私みたいにバカな目に合うんだから」
「……やはり、お前は人を殺したことがあるんだな? 」
「ないと言えば嘘になる。あると言ったら誇張された表現になる」
僕は話に置いていかれることを案じて、急いで叫んだ。
「さあ、そいつを床に捨てるんだ! 」
根来は肩をすくめると、身を屈めながらナイフを置いた。そして次の瞬間、靴の先でナイフの切っ先を蹴り上げた。ナイフはくるくると回転して壁にぶつかり、床に乾いた音が鳴って落ちた。僕はぎょっとしたが、別にそれだけだった。しかしその隙に、彼は間合いを詰めて、僕に接近していた。気付いた頃にはもう鼻の先までいる。彼は拳を降り下ろして、僕の顎を狙っていた。僕はメイの首を切り落とそうと腕を少しだけ引いたが、早かったのは拳の方だ。僕は二歩ほどよろけると、ナイフを手離してしまったが、それでも彼女の襟元を離すことはなかった。彼女は好機だと思ったのか、僕の爪先を踵で踏んづけたのだが、それをなんとか堪えて、僕は力を込めて彼女を押さえた。そして根来の追撃に、僕も拳で応じた。
「止まれ! 」と僕は言った。「でないと、僕は彼女を殴るぞ? 」
「そいつは駆け引きにならんな? 」
根来は躊躇することなく、ぐっと腰を捻ると、僕の顎の下から殴り上げた。僕も宣告通りメイの頬を叩いたが、行動を鈍らせるという意味では役に立たなかった。根来に対しても、メイに対してもだ。
僕は殴られながら、意識が遠退くのを感じた。メイを掴んでいた腕をついつい離してしまった。一瞬だけだが、彼女を解放してしまった。そして彼女はもがいていた腕で、ついに渾身のパンチで殴った。血がわっと飛び散り、僕の顔に付着する。
それと同時に根来の呻き声が聞こえた。
そして彼もそれに呼応するように殴り返し、メイの顔を横から潰した。彼女は殴られた方向からばたんと倒れた。根来は痛むのか、屈んでしまうと、顔を手で覆った。
「悪いね」メイはにやっと笑った。口元から血が出ている。右頬は真っ赤になっていた。「抵抗しようとしたら当たった」
「……なぜ、俺を? 」と彼は鼻元を押さえながら言った。
「だから抵抗しようとしたら当たったんだよ。本当に悪いと思ってるんだ」
それまで僕はぼうとしていたが、はっと気づいて、床に落ちているナイフを拾うと、彼女の首元に当てて、急いで部屋に逃げ込んだ。ドアを素早く閉めて、きちんと錠前も取り付けた。最後まで鬼のように睨む根来の顔と、既にくたばって仰向けになったティムのことは忘れそうにない。そしてメイが身体を引きずられながら、意地悪そうな笑みを浮かべて言った一言も。
「……鼻が折れてら、あのワンちゃん」




