56 人質
僕はその重たいドアを開けた。その瞬間、目の前にメイが立っていた。途端に、全てがスローモーションになっていくように感じた。時間が止まろうとしているかのようだった。メイの驚いた大きな瞳。前足に思わず力が入ったティム。前に飛び出した僕。その時、思った。武器がない。
ところがメイがどういうわけか、懐からナイフを取り出した。光る刀身。ナイフだ。護身用だろうか。いつからこんなもの持っていたのだろうか。
僕の判断力は鈍っていた。ただ、そのナイフを握った手首を掴むと、外側に捻った。小手返しだ。これでナイフを奪えるはずだった。しかし、メイは僕の足を巧みに蹴り上げた。払われた僕の足は不恰好に舞い上がる。
僕はナイフを握りしめたまま、宙に浮いている。間もなく、床に落ちる。床に落ちるのだ。僕は驚いた表情を浮かべている。自分には見えないけれど、そうに違いなかった。
床が目の前に迫ってくる。ああ、落ちた。床を転がる。痛みなんて感じなかった。驚きが全身に走る。このままだと、せっかく握りしめたナイフも奪われる。メイは近づいてくる。もう駄目か。
その時、メイは、
「うっ……」
と言って、引き下がった。何かが起きた。一体何が。メイの眼前を飛び回っているもの、それは……。
「ティム……」
メイの顔面に、ティムに襲われているのだ。小賢しい程度のものだろうけれど、この一瞬を救ってくれたのは他ならぬティムだ。
「動くな!」
僕は、ナイフを握りしめて、メイに思い切り組み付いた。メイは、あきらかに失望した風だったが、組み付かれてしまうとすぐに表情を消して、やれやれと言った様子になった。
「そんなに罪を増やしたいの?」
「こうするより他に道はないんだ……」
「そうかもしれない。だが、このまま私を人質にしてどうしようか?」
な……」
上手い考えはこれと言ってない。しかし、船を抜け出すにしても、何にしても、人質がいなくては決定的に不利だ。
「そうだな」と僕は呟いた。「ヘリコプターを呼んで、君と一緒に高飛びをするのも悪くない」
「私は気乗りしないなあ」
「ふん。だって、これはデートなんかじゃない。命がけの犯罪なんだ」
「その命懸けって、私の命だろ? 」
「いや、僕の命もだ」と僕は言った。「そう言えば、このナイフは誰に渡された?」
「渡してくれたのは、ハワードという一等航海士だよ。君にあった時に、身を守れるようにってね」
「そうか。それが仇になったなぁ」
僕の声は、雪風にさらされたように震えていた。それに対して、メイの返答は、やけに落ち着いているように感じられた。彼女はどんな場面であっても、自分のペースを死守するのだろう。




