25 指輪
長倉 理沙は言った。
「怖いから泣いているわけじゃないのよ」
それは鼻声で聞こえた。そのあと、彼女は手で目元を覆って口を閉ざした。指の間から僅かに隙間をつくり、じっと空中の塵を眺めた。
「じゃあ、なぜ? 」と僕は言った。「父さんが死んだから? 」
彼女はこくりと頷いた。
「……ええ、疑われているからじゃないのよ。それは絶対に違う」
「じゃあ、愛してたんだ? 」僕はいくらか非難するように言った。意図的ではなく、発作的に言ってしまったのだ。
「ええ、そうよ」と彼女きっぱりと答えた。
同時に影に隠れている目玉がギョロりと動いた。電柱でカラスがごみ袋を狙っているように僕を捕らえていた。しかしすぐに瞼が閉じて、指の間もゆっくり密閉した。左手の薬指がキラリと光った。彼女のサイズにぴったり合っている指輪だ。でかくて、大袈裟で、やけに目立つダイヤが取り付けられていた。なんとも強欲を象徴しているような品のないものだった。
しかし三年前は、と僕は頭の中でふと思った。三年前の彼女はもっと違う指輪を薬指にはめていたのだ。清蔵の会社のコールセンターで受話器を持っていたアルバイトの彼女が、異例の正社員となって、すぐに秘書として働いたのもその頃だった。誰もが色目を使ったと思っていた。事実、そういうことは実際にあったらしい。それは清蔵の口から直接宣伝していった。本人も隠そうともする気はなかったのだろう。楽しんでいるところさえあったかもしれない。僕はそのことについて、下品なことだと気分が悪くなったが、それは顔にも出さなかった。その当時、僕は清蔵とよく言い争いをしていて、それが母さんの財産についてだったからだ。別に相続するほどの高価なものなんてなかったのだが、僕は形見に少しばかり何かを分けて欲しかった。写真でも、指輪でも、思い出せるような何かを。そのために、わざわざ会いたくもない人間の元へ足を何度も運んだ。しかし清蔵は少しでも遺品を渡すことをかたくなに嫌がった。それは母さんを愛していたからというわけではなく、彼にとって何かを無償で渡すことは損をすることだったからだ。元々は俺が買ったものなんだ、と彼は言っていた。当然、あいつの物も俺のものなんだ。
だから仕方なく、僕は弁護士を頼った。あまりやる気のない弁護士だったのだろう。損の方が大きいとやんわり断られた。そもそも、あなたはその指輪や写真を見たことがあるんですか? とも言われた。ない、と僕は言った。でも、父はきっと持ってるに違いないんです。火葬の際に焼かれている可能性は? と彼はをため息をついた。もう話すことなんてないのにね、というように。 ありえない、と僕は答えた。 だが、それ以上の言葉がでなかった。話にならないという顔をされて、そこで話は終わった。
後日、僕は泣き落としをしてでも、地べたに頭を擦り付けてでも、清蔵に母さんの遺品を譲り受けようと再び会社に行った。しかし腹の内では闘志と憎悪が煮えたぎっていた。社長室まで続く廊下を歩いている最中、長倉 理沙とすれ違った。あら、息子さん、と彼女はにんまりと笑った。また来たのね、と。僕はそれに小さく会釈をしただけだった。正直、かなり苛立っていたのだ。彼女はそれにつまらない顔をした。もっと悔しがるような反応を期待していたのだ。どうせあなたに財産なんて何一つもらえやしないわよ、と彼女は試すように言った。バカな坊っちゃんね。だまれ、と僕は怒鳴りかけて彼女に詰め寄った。彼女の目元がそれで緩んだ。どうせ出来もしないのに、と思われているようだった。手を口にやってクスクス笑っていた。その指には指輪があった。彼女にしては少し窮屈な印象だった。小さい頃から見覚えのあるもので、かつては母さんが死の間際まで大事にしていたものだった。僕は血の気が引く感覚があった。彼女の口元はつり上がり、もう手で隠せてなかった。




