13 早いところ済ませましょう
自分の部屋に帰ると、パリッとした黒い上着を脱いだ。それを肩に掛け、ドアに背を持たれ掛けた。そのあとタバコをくわえて、マッチで火を点ける。口からドーナツのような煙を出し、それをしばらく眺めていた。眠たいなと、僕は思った。机の上にある鏡を見たら、目の下が暗くなっていた。顔も青白くなっていたし、朝よりも髭が少しだけ伸びている。まだろくな物を食べてないせいか、あるいは寝不足なせいか、胸がきゅっと痛くなった。頭のネジがいくつか血管に落っこちてしまい、それが血の巡りに逆らって心臓に捩じ込んでしまっている感じだ。
――早いところ済ませしょう。
ふと、頭の中で聞こえた。今まで一度も聞いたこともない声だ。周波数の合っていないラジオのように低くい音だった。それでいて、耳の側でねっとりと囁くようでもあった。
――早いところ済ませしょう。
また聞こえた。頭がどうにかなりそうだ。僕はアタッシュケースを開くと包丁を取った。これでいいのかなと、僕は自分に言い聞かせた。今から全部済ませちまうから、もう喋るのはやめてくれよ。すると声は聞こえなくなった。代わりにブーン、と羽音が頭の中で聞こえ始めた。すぐに蝿だと確信した。夢の中と同じものだ。僕は頭を両手で押さえると、ゴンと壁に額を打ち付けた。じんじんと痛くなったが、その間も羽音は微かに聞こえ続けていた。済ませると言っただろ! と僕は思わず叫んだ。それも意味のないことだった。
――早いところ済ませましょう。
「わかった! ……わかったから。もう勘弁してくれ」
――早いところ済ませましょう。
「頼むから静かにしてくれ」
――早いところ済ませましょう。
頬がゆっくりと熱くなった。床がぽつぽつと濡れた跡を残した。喉が不規則に動いて、しゃっくり声になった。
「助けてくれよ、母さん」と僕は呟いた。「……なんで、僕なんだよ? 」
――早いところ済ませしょう。
もう限界だった。僕は部屋を急いで出ると、303号室へと向かった。剥き出しの包丁を握り締めたまま、がむしゃらに走った。ドアの前に着くと、ぐっしょりと身体全体から汗が吹き出た。僕は息切れを直そうと、深呼吸を五回続けた。それから、ゆっくりドアノブを捻る。しかし鍵はオートロックで、当然のように締まっていた。くそ、と僕は思った。このことも想定内で事前に用意できていたのに。また部屋に戻らなければならなかった。そのとき、針で突き刺すような頭痛がした。
――早いところ済ませやがれ!
僕は小さく呻いた。白い壁に寄りかかりながら、少しずつ部屋に戻った。




