番外編1、熱い熱い吐息にとけて
26話と27話の間あたりのお話です。
朝食のためにダイニングにおりていくと、そこはいつもと違っていた。テーブルには二人分の食事しか用意されていないのだ。夫人の席と、わたしの席にだけ。たったひとり分欠けているだけで、ただでさえ広いテーブルが余計に広く見える。
「おはようカティ」
わたしより先にダイニングに来ていた夫人は、すでに食事を始めていた。いつ見ても、何を食べてもこの人は優雅だ。
「おはようございます。……あの」
「ああ。マティウスはね、熱が出たから今日は朝食にはおりてこられないの。大丈夫よ。あの子が熱を出すことはよくあるし、お医者様にも来ていただいてるから」
「そうですか……」
夫人はわたしの考えていることがわかったらしく、先回りして説明してくれた。
「男の子は、大きくなるまでにこうやって熱ばかり出す子も多いらしいわよ」
わたしの様子を見てよほど心配していると思ったのだろう。夫人はこれまでマティウスが幾度となく熱を出したときの話を始めた。その話を聞く限り、どうにもマティウスは喉が弱いらしい。喉を腫らしやすい人というのは熱をよく出すのだと聞くと、確かに心配になる。
でも、わたしの中に占めているのは、どちらかと言えば心配というより罪悪感だ。
マティウスが熱を出した理由に、心当たりしかないのだから。
昨日、わたしは戦闘訓練の中で水の魔術をたくさん使った。それは訓練というよりも、ふざけていた部分が大きい。
昨日はとても暑くて、水遊びがしたかったのだ。そもそも、先にやり始めたのはマティウスなのだけれど。
マティウスが小さな水流を作って、わたしを追い回したのだ。全くもって攻撃力はないけれど、ぴちゃぴちゃ跳ねる水が行く先々に現れて足元を濡らすのがちょっと不愉快で、わたしは盛大にやり返した。
人の頭より少し大きいくらいの水の球を量産し、それを逃げ惑うマティウスにぶつけていったのだ。
エッフェンベルグ家の庭には、立派な噴水がある。そこから水を得れば、無尽蔵に水の魔術を使えるのだ。だから、しばらくわたしたちの水遊びは終わらなかった。
風の防壁である程度の攻撃を防いでいたわたしと違い、頭から水球をかぶったマティウスはずぶ濡れだった。
それでも、昨日は濡れてもなお暑いくらいだったし、マティウスも元気にしていたように見えたのだけれど……間違いなく、風邪をひいたのだとしたら水遊びが原因だろう。
「マティウスのことは気にしないで、今日はカティは好きに過ごしてね」
「……はい」
夫人はこう言ってくれるけれど、マティウスを無理させて寝込ませてしまったことを考えると、そんな気分にはとてもなれない。
わたしは朝食を終えると、すぐにマティウスの部屋に向かった。
「マティウスさま。カティです。失礼します」
ノックをしても当然返事は返ってこないと思っていたのに、わたしがノブに触れるよりも先にドアが開けられた。
「おはようございます、カティさま。坊っちゃまは今お薬を飲んで眠ってらっしゃいます」
「あ……すみません」
「いえいえ。眠っていらしても、カティさまなら坊っちゃまは歓迎なさるでしょうから」
マティウスの世話をしていたらしいセバスティアンが、恭しくわたしを部屋に招き入れてくれる。そして、リビングの奥の寝室へと促された。
「目覚めたときカティさまがおそばにいらっしゃると喜ぶと思いますよ。何かあればお呼びください」
そう言ってセバスティアンは細々としたものが乗ったワゴンを押して、静かに部屋を出て行った。
あっさりというか何というか。それはわたしとマティウスがしっかり“恋人”という扱いなのだからだとわかるから、妙に照れてしまう。
寝室に入ると、そこは薄暗かった。カーテンも開けていないし、灯りもほんのりとしかともされていない。マティウスがよく眠れるようにという配慮なのだろう。
あの嵐の夜以降、寝かしつけが不要になったため、こうしてマティウスの寝室を訪れるのは久しぶりだ。正確に言えば、意識のないときに運びこまれて朝を迎えたとき以来だ。
ベッドの上でマティウスは、浅く荒い呼吸をしながら眠っていた。眠っているとより一層美形なのがわかる。でも、顔色は悪く、苦しそうだった。
額の上の布は、もうすでにぬるくなっていた。セバスティアンが部屋を出て、まだあまり時間は経っていないのに。そのくらい、マティウスの熱は高いということだろう。
わたしは布を水にもう一度浸し、よくしぼって額にのせた。マティウスはかすかに睫毛を揺らしただけで、目覚める気配はない。
だからわたしは、少しでもマティウスが快適に過ごせるようにと魔術で風を送ることにした。
局地的に風を吹かせるのは初歩的な魔術だ。ただ、日頃は風なんて突風強風暴風くらいしか吹かせないから、向きと勢いの制御が難しい。わたしが求めるのは爽やかなそよ風であって、暴力的な風ではないのだ。
日頃は風が吹けば柔らかく流れるマティウスの髪は、汗でじっとりとして顔に張り付いていた。苦しそうな表情が少しでも和らげばと思ったのだけれど、身じろぎひとつしなかった。
そんな様子を見ていると不安になる。
わたしは、弱っている人を見るのが苦手だ。こんなふうに寝込んでいる姿を見ると、嫌でもお母さんのことを思い出してしまう。
お母さんは、流行り病で死んでしまった。元々弱っていた体だったから、高い熱が何日も続くようなその病は、簡単にお母さんの命を奪ってしまったのだ。
マティウスはよく食べよく眠っている。薬も飲んでいる。
だから、働きづめで、おまけに薬も買えなかったお母さんとは違って、死ぬことはないと思う。それでも、苦しんでいる姿を見ると胸がざわつく。
何もしてあげられないというのは、いつだってもどかしい。
(せめて、熱と戦う力だけでも……)
わたしはマティウスの手を握った。びっくりするほど熱くて、少しパサついていた。その手を介して、わたしは自分の魔力を送り込んでいく。
魔力を使いすぎると、体力が削られる。体力が落ちているときは、魔力も減少する。つまり、体力と魔力は密接な関係にあるのだ。
こうして魔力を分け与えることは根本解決にはならないけれど、体力の補充という意味では効果がある。体力が幾らか回復すれば、そのぶん熱と戦う力もつく。
本当なら、もっと密接な接触のほうが魔力を分け与えるのには適しているのだという。大陸の外の文献で読んだことがあるのだけれど、濃厚な肉体の接触で相手に力を与えることも逆に奪うこともできる術というものがあるらしい。でも、その内容が衝撃的すぎて、それを読んだなんてとても人には話せないし、マティウス相手に試そうとは思えない。つまり……そういうことだ。
まだ恋人になったばかりのわたしには、せいぜい手を握るのがやっとだ。それすら、実は恥ずかしくて仕方がないのだから。
(何だか、恋人の回復を祈る乙女みたいね)
まさか自分がこんなしおらしいことをする日が来るだなんて、思ってもみなかった。誰かを好きになることも、誰かに思われることもないと思っていたのだから。
この前アンドレに、マティウスのどこが好きなのか尋ねられた。それに対してわたしは、「素直なところ」と答えた。
マティウスの美徳は、ひねくれていないところだと思う。素直にまっすぐにどんな思いもぶつけてくれるから、ひねくれていたはずのわたしも、まっすぐにならざるを得ない。
マティウスは、素直に気持ちを伝え合うことの尊さをわたしに教えてくれた。
……そんなことは、決して本人には伝えられない。知ればきっと、得意になるはずだ。マティウスは素直なところが美徳だけれど、すぐに調子に乗るのが欠点なのだ。
「……カティ?」
「マティウスさま!」
手を握ってしばらく経って、マティウスが薄目を開けた。かすれた小さな声でわたしの名前を呼ぶ。熱でとろんとした目でわたしの姿を確認して、安心したのか、ふにゃりと微笑んだ。
「手を握っていてくれたのか。ありがとう」
「魔力を分けようと思ったんです。あの……少しでも早く良くなって欲しくて」
「……そんなことをしたら、カティが疲れてしまうだろ? 私は熱なんて慣れているから、そばにいてくれるだけでいいんだよ」
「わたし、魔力の量と体の丈夫さには自信があるので! だから……気にしないで」
こんなときまでわたしの心配をするなんて、マティウスはなんて人がいいのだろう。弱々しい力ながらわたしの手を解こうとしたから、もっと力を込めて握ってやった。病人は病人らしく、元気なわたしに看病されていればいいのだ。
わたしが絶対に離す意志がないのがわかったのか、あきらめたらしくマティウスは小さな声で笑った。
「何かして欲しいことはありますか?」
「そうだな。水をもらえるだろうか」
「わかりました」
寝たままでは飲めないだろうから、わたしはクッションを背もたれにしてマティウスの体を起こしてやろうとした。それなのに、マティウスはいやいやするように首を振る。
「きついんだ、カティ。……だからこのまま、飲ませてくれないかな」
「でも、こぼれてしまいますよ?」
すがるような目でマティウスがお願いしてくる。でも、寝ている人に器から水を飲ませたら、きっと口元も枕も水浸しになってしまう。
困り果てるわたしを、マティウスは眉根を寄せ、目を潤ませて見つめてくる。きっと、わたしがこの顔に弱いことをわかっていてやっているのだ。
「……カティのその可愛い口を使えば、私に水を飲ませることができるんだけどな。カティが水を口に含んで、そのまま私にキスしてくれればいいんだ」
「なっ……!」
良からぬことを考えているのだとは思ったけれど、まさかこんなことだったとは……。
微塵も悪いとは思っていないらしく、マティウスは相変わらずの子犬ちゃんモードでわたしを見ている。こんなの、やめて欲しい。凛々しい顔立ちに似合わないはずなのに、どうにもわたしには可愛く見えてしまうのだから。
「マティウスさま、ダメです」
「どうして? 私とカティは恋人だろう? それに、キスなら昨日もしたじゃないか」
「た、ただのキスじゃないじゃないですか! 口移しだなんて……破廉恥です!」
わたしは自分の顔がどんどん熱くなるのを感じていた。きっと、真っ赤になっているだろう。
そんなわたしを見て、マティウスはまたとけたように柔らかく笑った。
「ああ……カティは可愛い。そうだな、こんなにカティが可愛いと、キスだけではとても我慢できそうにない。水は自分で飲むよ」
そう言うとマティウスは、ゆっくりとした動きで体を起こした。
わたしがグラスを手渡すと、あっという間に飲み干してしまった。熱が高いと、やはり喉が渇くらしい。わたしは熱を出したことがほとんどないから、そういったことがわからない。
「カティのおかげで、随分と体が楽だ。……カティからもらった魔力が自分の体に流れていると思うと、ちょっと興奮してしまうけどな」
「少しでも回復したのならよかったです」
わたしはあえて、不穏な発言には触れなかった。熱のせいなのか、マティウスは妙に大胆で、そのくせ甘える表情をしているのが困る。だから、これ以上おかしな流れにならないうちに退散することにした。
「あまり長居するとマティウスさまがお休みできないでしょうから、そろそろ帰りますね」
「そんな……カティ、淋しいからそばにいてくれ」
「ダメですよ。またあとで来ますから、とりあえず眠ってください」
「……なら、キスしてくれ。そしたら、ちゃんと寝るから」
「……わかりました」
仕方なくそっとキスをすると、マティウスはそれはそれは満足そうに微笑んでベッドに横になった。その笑顔はまさに甘えん坊だけれど、どこか悪い顔もしていた。
「もしカティが寝込んだら、そのときは私が手厚く看病してやるからな」
「そうですか。なら、早く良くなってくださいね」
何となく、少し気になることを言われたような気がしたけれど、キスをした恥ずかしさから早く逃れたくてわたしはそのまま部屋を出た。
そのとき、わたしがもう少し冷静さがあったのなら、のちに起こることを防げたかもしれないのにーー。
次の日、わたしは熱を出した。
どうやら、マティウスの風邪をもらったらしい。日頃のわたしなら風邪なんてひかないけれど、マティウスに魔力を分け与えたのが良くなかったみたいだ。
マティウスはといえば、わたしから魔力を受け取ったおかげか、一晩で回復してしまった。
つまり、わたしはマティウスの宣言通り彼の看病を受けることになったのだった。
動けず、声もうまく出せないわたしが、マティウスに手厚く看病された話は、名誉のために割愛させてもらう。
ひとつだけ言えるのは……口移しで水を飲むなんて、とんでもなく破廉恥で心臓に悪い、ということだ。




