36話・消えたブルーノの記憶
大声を上げる彼の身に変化が起きていく。髪の毛は色落ちしたようにどんどん白くなっていき、体は萎み、顔を覆った手には皺が寄っていく。しばらくして顔をあげた彼は、かなり年を取っていた。お爺さんになっていたのだ。
「どうやら竜胆や緑青は、彼の時間を止めていたようだ」
「どうして、そんなことを?」
「竜胆と緑青は仮の姿をしていた。彼だけが普通に年を取っては、自分達が人外だとバレてしまうからじゃないかな?」
老人となったブルーノは、自分の両手を確認し、その手で顔を摩った。落ち着きのない様子だったが、しばらくして何かを思い出したように言った。
「そうだ。スターシャ! どうして僕は……、いや、わしはスターシャのことを忘れていたのだろう? スターシャはどこに?」
「記憶を取り戻したようだな」
「スターシャって、あなたステパンさん?」
ブルーノの変化に驚いていると、私が口にした名前に反応したようだ。ブルーノは聞いてきた。
「そこのお嬢さん、わしのことを知っているのかね? どうしてここに居るのか分からないが、スターシャのことを知っているのなら教えてくれないか? スターシャは今どこに?」
「ブルーノさん。今までのこと、覚えてないのですか?」
「ブルーノ? 何のお話ですかな? わしはステパンです」
ブルーノは、スターシャがいまだ帰りを待つステパンだった?
「竜胆さんも、リョクショウさんのことも覚えていないのですか?」
「それは誰のことで?」
ステパンは、はて? と、首を傾げた。演技をしているようには見えなかった。
「そんな名前、聞いたこともありませんな。何だか長い夢を見ていた様で、頭も少しぼんやりしていますが。それよりもスターシャはどこに? わしの帰りを待っていると思うのです。早く帰ってやらねば」
ステパンの記憶を取り戻した彼は、今まで共に暮らしてきた竜胆や、リョクショウのことを、綺麗さっぱり忘れてしまったようだった。今までの彼を知る私としては複雑な気分だ。竜胆の共犯者と名乗っていたブルーノという人格が消えて、元のステパンという人格に還った気がする。どう見ても彼は、ブルーノとは同じ人物とは思えなかった。
「今まで魅了されて、竜胆の都合の良いように記憶を書き加えられていたのだろう。だから魅了を解かれて記憶を取り戻した今、ステパンさんにはブルーノとして過ごしてきた日々は消えてなくなった」
ノアールの見解を聞いていて思った。彼も知らないうちに、被害者となっていたようだ。でも、どうしてステパンはノースデン山の崖下で倒れる羽目になったのだろう?
「ステパンさん。どうしてあなたはノースデン山に? ここに何をしに来たの? 誰かに誘われたの?」
「ノースデン山? 誘われた? ああ、それはスターシャの誕生日に、竜胆の花を贈ろうとしたのです。スターシャは竜胆の花が好きで……、王都周辺ではなかなか見ない花だから、どうしようかと思っていたら、故郷のノースデン山の麓の街に咲いていると聞いて、さっそく向かったのです」
「それでここに?」
「麓の街で一本も竜胆の花が見当たらなくて、諦めて帰ろうとしたら、ある娘さんに声をかけられて、竜胆の花が欲しいのならば上げると言われたのです。彼女の話では自分の家にあるからと言われて後をついて行きました。それからが何がどうしたのか覚えていません」
恐らくその娘さんとは竜胆に違いない。彼の話が本当なら、その娘さん=竜胆に会った時に、何か彼女の気を惹いてしまったのだろう。魅了されたようだ。今まで私はステパンとは、夢を追いかけて一方的にスターシャを捨てた酷い男と見ていたが、それが違う可能性が出て来た。
「スターシャさんを、置いて出て行ったのではないのですか?」
「そんなことは絶対にあり得ません」
「それならなぜ、青金さまに会ってあの方の下で修業したくなったとか、チャンスをくれだとか言って、出て行ったの? そう聞いていますが?」
「はあ? 違いますよ。それはよく、わしが新婚間もない頃に冗談でよく言っていたことです。もしも、青金さまに会ったのなら、あの方の下で修業したい。そしたら止めてくれるなと、今になっては夢みたいなバカバカしいことを言っておりました」
私の言葉に即、否定したステパンは、遠い日を望むような眼をして言った。その言葉には嘘がなさそうな気がした。
「じゃあ、それをスターシャさんは真に受けて?」
「その可能性はあるな。年月も経っているから記憶に齟齬が出てきてもおかしくない」
ノアールと顔を見合わせていると、ステパンは「あの……」と、聞いてきた。
「お二人はスターシャと知り合いなのですか?」
「スターシャさんは、王都でパン屋を開いている。私達はそのパン屋の常連だ」
ノアールがそう言えば、ステパンは御贔屓にありがとうございます。と、頭を下げた。それを見ていたアイオライト公爵は、彼に問いかけた。
「今までそなたはある者の影響で、記憶を失い長い時間を不当に奪われた。それは我の過失でもある。そなたにはそれなりの償いをしたいと思うが、願いはあるか?」
「それならスターシャの元へ帰してください」
ステパンは迷わなかった。大丈夫だろうか? 不安が過る。公爵はそれでも請け負った。
「相分かった。今すぐにその願い、叶えてやろう。本来ならそなたが甘受していたはずのものだ」
そう言って指を鳴らすと、ステパンの姿が消えた。




