41話・さようならフィエロ
「どうしてネレウスは、家族を捨ててまで人間になったのでしょうね」
「本人ではないからその辺りは分からないが……。もしかしたら彼なりの何か理由があったのかもしれない」
切ない思いをぽつりと漏らすと、正面から声が返ってきた。あんなにも素晴らしい妻や子供たちを捨てて、陸に上がった男は、私から見れば屑にしか思えない。あの男にとって家族とは何だったのだろう?
シエンは父親のネレウスが享楽的で、家に居つかなかったようなことを言っていた。大勢の愛人の元に通っていたと聞くだけで腹が立ってくる。その上、陸に上がってクラリーやマリアナと家族のように暮らしていたが、それは見せかけだったような気もしてくる。誰も幸せにはなっていない。
ネレウスのせいで皆が振り回されて終わった気がする。一体、ネレウスは何がしたかったのだろう? 金儲け?
ネレウスは、地上では人魚の涙には価値があると知っていた。それで一儲けしようとしたのかも知れない。でも、それだけだろうか? ボーモン子爵として行動していたあの男は、ぎらついた欲望みたいなものが透けて見えた。何か画策していたのではないかと疑いたくなる。ボーモン子爵の一件は終わったのに。何だかスッキリしない。
「ノアールは、陛下の命を受けてボーモン子爵家に来たのでしょう?」
「表向きはそうだけど、密命を受けていてね」
「密命って?」
「陛下はボーモン子爵から進呈された月華真珠に非常に興味を持たれて、その真珠がどのように生み出されているか調べて来いと言ったのさ」
この国ヴィジリタスは、美貌で知られるアルテミシア女王の収める国。女王には配偶者はいないとされている。ふと、思った。あの男は世にも珍しい月華真珠で女王の気を惹き、女王の王配の立場を狙ったのではないのかと。もしも、そうだとしたら、墓穴を掘ってしまったようだ。それにはノアールは気付いていないようだった。
「月華真珠は有名だが、生産工程が分からなくて不思議には思っていた。領民たちに聞いても、ボーモン子爵が管理していると言うだけで、誰も詳しいことを知らな過ぎた。月華真珠の加工は領地ではなく、他領で行っていたのは分かったが、月華真珠自体がどこから生み出されるのか全く分からない。領地を見て回っても養殖しているようにも思えないし、もしかしたら自然の産物ではないかと思った」
「それがまさか人魚の涙だったなんてね」
「君のおかげだよ。あの晩、君と出会ったから知れたことだ」
私にとっては、愛した男性とそれを奪ったお嬢さまとの婚礼の日。あの日、私は何もかも失ったのだと思っていた。世の中に絶望した。このまま生きていくのが辛く思われてこの世から消え去ってしまいたいと願った。
そこに現れたのがノアールで、彼の存在がなかったら私は今、ここにいない。
「ありがとうございます。私が今こうして生きていられるのはあなたのおかげです」
「きみが自分自身で乗り切ったからだよ」
お礼を言うと、ノアールは気まずそうに眼を逸らしながら、先ほどの彼のことだけど……と、言った。
「これは後で知ったことだけど、彼は海王さまから密命を受けていたようだ。」
「……密命?」
「海王さまから彼は、ネレウスが秘宝を盗み出して陸に上がり、自分の欲望の為だけに同族を捕まえて監禁していた。その中には海王さまの愛娘も含まれていた様で、事の真相を探り目に余るようならば処分して構わないとまで言い渡されていたようだ」
「不憫なお方ですね。自分の父親が引き起こした不祥事の後始末をする為に陸に上がって国外追放の憂き目にあうなんて」
「でも、それは表向きの話で、彼には海王さまからの処罰は与えられていない。不問とされている」
「それでも国には戻れないのでしょう? あまりにも……」
「非道など思うかい? 彼は意図せずに人間の体になってしまった。人間の体では海の国に入ることすらできない」
「……!」
彼は別の生き物になってしまったから。と、ノアールは言った。人魚から人間の姿になってしまっては、人魚に戻ることは出来ないらしかった。
「それではあの人は、人魚の心を持ちながら人間として生きていくしかないのですね?」
ノアールは黙って頷いた。彼に科せられたものは小さくなかった。彼は大きな代償をすでに払っている。今まで生きていた世界から切り離されて、別の世界で生きるしかない彼には息苦しい場所になるかもしれない。それでも元気に生きていて欲しかった。
窓の外はいつしか暗くなり始めていた。遠くで雷鳴が聞こえたような気がする。
「雨が降り出したか。酷くならなければいいが」
「そうですね」
窓に着いた雨粒が、馬車の揺れに合わせて流れていく。それは頬を伝う涙のように思えた。どこかで誰かが嘆いているかのような。または深い悲しみにくれているようでもある。あの日、何もかも喪って膝をついた彼の姿が忘れられなかった。
彼のことを愛していた。彼に裏切られたと知っても、憎めそうになかった。私が彼と共にいた時間はわずかでも、楽しい時はあったし、未来を語るほど彼に気を許していた。あの頃の彼が私にかけた言葉に、嘘はなかったと信じたい。
愛していたからこそ、深く傷つき、その傷は、今は生々しいけど、月日が経つたびに風化して癒されていくことだろう。それでも傷痕は残る。けっして消えたりしない。
それがあなたから家族を奪ってしまった私から、たった一人になっても祖国に帰ることもできないあなたへの贖罪であり、不器用なあなたへの私からの餞別。例えあなたに憎まれることになろうとも、あなたには笑っていて欲しい。私は嘆きの塔を遠目に、心の中で彼と決別することにした。
──さようなら。フィエロ。
〇ボーモン子爵の姿を乗っ取った彼に、サーラは心当たりがあったようです。




