9 ほおずき市の少女
二日後の昼過ぎ、丸の内にある商業ビルのイベントホールでは、照明の光をさんさんと浴びた安藤が、若い女性の顔に触れながら襟元のマイクを通じて大勢に語りかけていた。
「人はその顔に、いくつもの曲線を持っています。その中にあるどの曲線が美しさを作り出しているのか? その曲線を美しく際立たせるラインはどれか? 色は? 影は?」
仲通りからもよく見える場所にセッティングされたステージで、選ばれた女性の目元にピンクブラウンのアイラインを引いた安藤は、会場の客席にくるりと振り向いて言う。
「僕は、その人の一番美しいラインをなぞってあげるのが仕事です」
キメ顔ー? とマイクから口を離したあいなが呟き、ドヤ顔ー、とあいみが唇だけを動かして笑った。安藤はアイライナーをあいみに手渡し、明るい声で続ける。
「ですから他人と同じメイクを求める必要はないと思っています。特に、流行りのものは広まると同時に極端になりがちです。極端で濃いメイクも状況によっては楽しいですけど、化粧が濃いと思われるのはあまりプラスになりません。こと男ウケに関してなら、気合い入ったがっつりメイクのときよりも、手抜きで控えめメイクなときの方がモテた、なんて経験のある方もいるはずですよ?」
「これは結構ありますね、キレイになろうとひと味足したときより、ナチュラルメイクのときに告白されたりプロポーズされたりって話も多いんですよねー」
なんでよー! と司会の女性が冗談めかしながらも、責めるように安藤に問う。安藤はあいなが手渡した化粧筆を受け取ると、魔法をかけるような仕草で女性の頬をふんわりと払いながら言った。
「それだけ素顔を隠したい、本性を隠しているんだと思われてしまう可能性はあります。人は本能的に嘘を見抜こうとしますからね、嘘も化粧も、やるからにはバレないようにって話ですよ!」
「そんなわけで、絶対に見抜かれない、すべての憂いと気になる部分を優しくカバーするよくばり素肌ファンデーション、みなさんも実感してください!」
急に声色を変えた司会の女性が、ステージ後方のスクリーンに大写しになっている高機能ファンデーションを手で示し、メイクを終えた女性のケープをあいながすっと外した。安藤がうやうやしく女性の手を取ってステージの前方に立たせると、会場から拍手が沸き上がる。お疲れ様でした、とあいみが戸惑う女性に手鏡を渡し、いかがですか? と司会者がマイクを向けた。おどおどしながらも手鏡を持った女性が答える。
「なんかすごいです! 『別人』って感じじゃなくて、ちゃんと自分がキレイに見えます。あと、すごーく近くで見ても、肌そのものがキレイな人みたい」
感動と照明の眩しさで何度も瞬きをする女性からあいみが手鏡を受け取る。うーん、と安藤は控えめな調子で言った。
「至近距離での完璧な仕上がりを追及するのもいいんですけど、唇が触れるほどの距離で誰かと話すことはそうないし、そのときは目を閉じるものです。それよりちょっと離れて全体のバランスを確かめてください。一目惚れする瞬間の距離は、もう少し遠いですから!」
どこか危うさを帯びた話題に会場がどよめく。アキラさんもー? と会場から聞こえた声に安藤は困ったように笑いながら答えた。
「あー、僕はあんまり優しくないんでモテないんですよ。メイクなんかもたいがい見抜いちゃいますし、僕の方が美肌だったりするし」
「別人メイクもすぐ気付くしねー」
「肌だけは白いしキレイだしねー」
あいなとあいみが口々に言うと、ほっとしたように会場から笑いが起こった。まあそうですね、と安藤は謙遜せずに会場に微笑みかける。
「肌年齢なら負けませんよ? しかし、そんな勝ち負けは重要ではありません。メイクはハッピーを作る技術です。自分の持っている美しさを見失わず、どんな自分でありたいかを思いながら眉を描き、口紅を引いてください。プフラスターのコスメは、あなたの生み出すスマイルを守ります!」
安藤が言い切った瞬間に照明が切り替わり、後方のスクリーンにコマーシャルが流れる。司会者がイベントの終了を告げ、提供元のクラオホールディングスや協賛企業の名前を延々と読み上げるなか、安藤達は来場者に手を振って悠然とステージから退場した。
スタッフに挨拶を済ませ化粧を直し、帰り支度を整えたあいなとあいみに、自社商品のアルコールティッシュで手を拭いていた安藤が声を掛ける。
「忘れてないですよね? このあと高級タイ料理ですよ?」
高級? とあいなが顔を上げ、タイ料理? とあいみが胸の前で指を組んだ。安藤は念入りに指先をアルコールティッシュで拭きながら言った。
「今回協賛してたところの常務から、ささやかですが堅苦しくないアットホームな歓談&お食事の場を設けましたので、イベントのあとにぜひどうぞと言われてます」
「ああ、高級タイ料理のお店で接待なのね」
「接待なら本部の方で断っといてくれないかしら」
あいなとあいみが目を見合わせて肩をすくめる。クラオ本部にとって重要度の低い商談や関心の薄い出資話などは、主に安藤が対応していた。
「まあ、断れないから僕に回ってくるんですけどね!」
ティッシュを屑籠に捨てた安藤が、笑いながら紺色のアタッシェケースを持ち上げる。あいなとあいみを促して控え室を出ると、エレベーターホールに向かった。
「本部にとって有用でないと判断されたにもかかわらず、付き合いやしがらみだので無視するわけにいかないものを、イベントに絡めて僕の方へ回してくる。クラオ本流の役員は顔を出すこともなく、先方は僕を見るなり話の通じなさそうな奴が来たと落胆する。だがそれなりにイベントは盛り上がり、お茶は濁される。実に都合のいい駒だ」
エレベーターに乗り込み、あいなが三十五階のボタンを押す。素敵な出会いがありますように、と双子が気合いを入れて祈るうちに箱の上昇は止まり、静かに扉が開いた。
エレベーターを降りたあいなが先を行き、なにげなく周辺を見回し目で合図した。お腹空きましたねー、と踏み出す安藤を、あいみが強引に押さえる。
「出会っちゃダメみたい。あとで面倒なことになるヤツよ安藤」
「あっちにいるオジサマ、アメリカの行政機関の役人よ安藤」
戻ってきたあいなが会場側から安藤を隠すように立つ。ああ、と安藤が納得したように明るく肯いた。
「なるほど。研究所誘致の件と絡んでいましたか。高級タイ料理に胸を膨らませてたので考えてませんでしたよ!」
まあいい、と安藤は腕時計を見ながらエレベーターに戻り、速やかに地下一階へ下りて本部に連絡を入れた。経緯を説明し、協賛企業の集まりに接近や交流を回避すべき人物が混ざっていることを告げる。
「詳細はあとで送ります、いつもみたいに急用でも急病でもいいですから、適当にキャンセルしといてください!」
「切り替え早いんだからー」
行幸通り地下通路に出たあいなが、周辺を確認しながら笑う。安藤は連絡を済ませるとスマートフォンを内ポケットに入れてのんびりと言った。
「怒りを明日まで持ち越すな、とエペソ人への手紙にもありました。さあこれで、今日もご機嫌な一日ですよ!」
「もうお昼すぎだけどね」
食べそびれちゃった、と残念そうにため息をつくあいみに、そしたら、とあいなが目を輝かせる。
「また空良くん誘ってランチしようよ。いいでしょ安藤」
「それいい! どうせ見張ってなきゃいけないんでしょ?」
「……そうですね、そういえば僕も管地に用があった。連絡してみよう」
安藤は再びスマートフォンを取り出した。
行幸通りの地下通路から北東に向かったところのコインロッカーでは、富仲商会の大男、小堀が荷物を取り出し、金髪眼鏡の間能が離れた場所からボスと連絡を取っていた。
スーツ姿の小堀は監視カメラの方向を見ないようにしながら、取り出した小包みを空のスーツケースに詰めていく。間能も出張帰りのサラリーマンのような雰囲気を装い、すぐ北側にある商業ビルのエレベーターへと歩いていく。
今乗ります、とエレベーターに乗った間能が通話を切り、スーツケースを抱えた小堀があとから続く。さらに下にある駐車場へ向かい、二人は周囲を警戒しながら黒いポルシェの隣に停めてある白いBMWに乗り込んだ。
「……スーツ、絶望的に似合ってないですね」
後部座席に乗り込んだ二人をバックミラーで見た富仲が、青ざめたような顔で言った。まあまあ、とネクタイを締めた間能がサラリーマン風の小堀の肩をぺんぺんと叩く。
「こいつに合うスーツ探す方が難しいですよ」
「小堀だけの話じゃないですよ。そんな頭のサラリーマン、東京駅にも歩いてませんよ」
紺のシャツにグレーのパンツ姿の富仲が息を吐く。俺ですか、と金髪の間能が大袈裟に驚いてみせる。ボスはその格好でいいんですか、と小堀がスーツケースを抱えて狭そうに体を屈めると、問題ないです、と富仲はタブレットに目を落として続けた。
「届け先は鶴見区馬場、生麦駅から少し北の方です。湾岸線や横羽線で行けば四十分ほど、下の道でも普通に一時間以内で着くところですが、首都高湾岸線と横羽線は、空港、空港西ともに大規模な検問を実施するようです」
「げ、今回の仕事と関係あるんですか」
「いえ、恐らく最近の薬物だのハーブだのの関連です。一般道の情報はまだありませんが、『取り締まり強化区域』や『検問実施エリア』なんかの定番スポットは限られています。第一京浜だろうが第三京浜だろうが、県境はどこを通っても何かしらいると思われます」
最近多いですね、と小堀がスーツケースから包みを取り出す。間能はそれを東京土産の菓子袋に詰め直し、ライトブルーやクリーム色の手提げ袋を持ち上げて笑った。
「パイやサブレにしてはちょっと重いですね」
「尻尾までアンコが詰まってるんですよ。ですから衝撃を与えないよう気をつけて、かつ軽々と運んでください」
「こういうとき爆発物検知器とか欲しくなりますね」
「あれ高いです。あと、メンテ大変ですよ」
富仲は三袋にまとまった手提げ袋をチェックすると、これオマケです、と本来の中身である個包装のパイとサブレをいくつか入れて間能に渡した。
「では、お土産袋を間能、スーツケースを小堀が持って山手線に乗り、品川で京浜急行に乗り換えて生麦駅で降りてください。小堀は陽動ですから、妙な奴らが出たら引きつけて別方向へ向かってください。スーツケースは軽々と持たないように」
富仲が残りのパイやサブレを小堀に渡す。わかりました、と小堀がスーツケースにそれを放り込む。間能は紙袋とビジネスバッグを抱え、ドアを開けつつ尋ねた。
「待ち時間込みで一時間ってところですね。ボスは?」
「生麦に到着してからのこともありますから、カラの車で路線と並走に近い形で走ります。不測の事態が起きたら下車して下さい。生麦駅到着は検問や渋滞などで四十分ほどの差を想定しています。尾行者がなければ間能は私と合流、小堀は単独で戻ってください」
それでは、と富仲が車のエンジンを掛け、行ってきます、と出張帰り風を装った間能がエレベーターへと向かった。続いて小堀が引きずるようにスーツケースを運んでいく。
富仲も警戒しながら慎重に車を出す。白のBMWが消えたあとには、空きを探していた緑のボルボがこれ幸いとハザードを焚き、そのスペースを確保していた。
緑のボルボを降りた管地は、地下駐車場から一階へ上がり、目的地とは別の商業ビルへ向かった。さらに奥へ行こうとする管地を、空良が一応引き留める。
「安藤たちってマルビルとか、シンマルビルにいるんじゃないの」
「その前に、俺のタグホイヤーが直ったから引き取ってくる」
待ってろ、と左腕をぶらぶらさせながら管地がエスカレーターを登っていく。周辺では、明日から始まるらしいイベントの告知や準備で、スタッフが忙しげに動き回っている。
空良はピカソの複製画がある広間の柱に寄りかかり、ポケットを探った。管地が喫茶店でコーヒーを注文するたびに付いてくる、コーヒーフレッシュのポーションが出てくる。空良はリュックから極細のカラーマーカーを数本取り出し、適当に色を付けながら管地を待った。
しばらくして、左腕に黒い文字盤と銀色のベルトの腕時計を装着して戻ってきた管地は、待たせたな、という言葉を飲み込んで空良の手元を見た。
空良が彩色しているのが、コーヒーと一緒に出されるポーションであることはわかる。いらんと言っても空良が珍しそうにポケットに入れているのも見ている。わからないのはポーションの蓋部分に彩色された、ざらついた質感の淡い緑や、濃い山吹色の細かな突起、オレンジピンクの歪みを帯びた縞模様だった。
「おい空良、そりゃ何のつもりだ」
「……ワサビと、塩水ウニと、」
「わかった、そっちはトロサーモンだな。ほれ行くぞ」
なんでこんなん描いてんだよ、と管地が空良の背中を押す。空良は練りワサビやウニをリアルなテクスチャーで再現したポーションをポケットに入れて答えた。
「ペンもあったし、この間の寿司もおいしかったし」
あと二つあったらシャコと納豆を描こうと思う、と空良が真面目な顔でマーカーを握りしめる。お前時々悪趣味だな、と管地はサーモンピンクのポーションを空良に返して再び地下通路へ続く階段を下りた。
行幸通りに隣接している新丸ビルへ移動し、コスメブランドが集中するフロアを見回す。いないな、と首をかしげる管地に、向こうじゃない? と空良が隣の丸ビル方向を指差す。
二人で丸ビルへ移動すると、空良は雑貨や文房具のあるバラエティショップへ向かった。
「ここ化粧品もあったと思う」
「あー、よく知らんがありゃ、女子中学生とか高校生向けのお手軽でキャワユイ系だろ? 奴が扱うのは、隙を見せたらタマ取りにくるような店員が売ってる、お高いブツだぞ?」
管地が奥にある、きらきらとカラフルなコスメ売り場を親指で示す。でも、と言いかけた空良の声をかき消し、奥からよく通る明るい男の声が聞こえた。
「あ、そっちのラベンダーシャドウめっちゃイイですね!」
あーでもちょっとラメが粗いかもー、と続いて大人の女性の声が響き、こっちのピンクもカワイイー、とすかさず違う位置から同じ声が聞こえた。
ね、という空良に管地が肯く。近付くことに抵抗を感じた二人が遠巻きに眺めていると、三人組は人目を集めながら会計を済ませて歩き出した。
「いやー、面白かったですね! あいなさん結構買いましたねー!」
「だって『恋を叶える甘いさくらんぼピンク』がカワイイんだもん」
「あーんもう、なんで『彼が振り向くうっとりオレンジフラミンゴ』はないのよー。あのサーモンみたいなピンク欲しいー!」
もうもう、とあいみが大きな胸を揺らしながら売り場を振り向く。管地は空良が持っているトロサーモンのポーションを顎で示した。
「おう空良、あのゴネてるデカパイちゃんにそれ渡してこい」
「やだよ」
なんでだよ、と問う管地に、管地が行きなよ、と空良がワサビとウニも一緒に渡そうとする。あいつらはお前に会いたがってんだよ、と管地がポーションを空良に突っ返すと、なにそれー、と二人を見つけたあいなとあいみが黄色い声をあげて近づいてきた。
「このツブツブも空良くんが描いたの? 色も本当にウニっぽい!」
「こっちも抹茶アイスとかじゃなくて、ちゃんとワサビっぽいよ!」
安藤みたいだねー、とあいながウニやワサビに感心する。似たトコあるよねー、とあいみもトロサーモンを手にして笑った。安藤? と嫌そうな顔をする空良に管地が言った。
「似てるな。あいつも人の顔があればとりあえず化粧しようとするし、奴の手にかかれば岸田劉生の麗子像だって丸の内OLみたいにされる。仮死状態の白雪姫や茨の中の眠り姫に遭遇しても、とりあえず化粧しようとする男だからな、安藤は」
「はい菅地、今までの作品全部返品しますよー?」
空良に説明していた管地の横で、安藤が笑顔で言った。
メニューの希望を聞かれて、空良がなんでもいいと答えると、あいなが真上を指差した。
「そしたら五階にあるハンバーガーのお店行こうよ。クアアイナ」
「空良くん平気? あいなはね、お店にアイナって名前が入ってるからひいきにしてるの」
屈んで顔を覗き込むあいみに、平気、と空良が答える。じゃあ決定、と上りエスカレーターへ向かうあいなとあいみの後ろで、管地が空良に呟く。
「あいつら、一応モデルで目立ってんのに、大口開けてハンバーガーなんざ食うのか」
「ひいきにしてるってあいみが言ってた」
「あいみってどっちだ」
エスカレーターを上り、オープンカフェスタイルのハンバーガーショップの前で管地が立ち止まる。空良は真横に見える東京駅をぼんやりと眺めて答えた。
「さっき菅地がデパ……カイって言ってた方」
「デカパイだ、バカもん。生きていく上で超重要な単語だから覚えとけ。デ・カ・パ・イ、はいリピート」
デカパイ、と眠そうな顔で繰り返す空良に、よし、と管地が肯く。良くないわよ、とあいみが管地の腕をひねり上げ、そのままカウンターへ連れていく。安藤はあいなとあいみにオーダーを任せ、席に座りのんびりと足を組んだ。腕をさすりながら戻ってきた管地が安藤に声をかける。
「お前はもう、仕事終わったのか」
「概ね終了です。今日はサンプルを配布しまくるのがメインですから」
「つうか、自分とこの商品バラ撒いた足で、よその商品買ってていいのか」
「こんなカワイイの見つけたら普通買うでしょ?」
戻ったあいなが口を挟み、ほら、と『恋を叶える甘いさくらんぼピンク』のリップを見せる。その絶妙な色味を不思議そうに眺めていた空良が尋ねた。
「……普通の赤じゃダメなのか」
「ジュリアナの頃は真っ赤な口紅が流行ったけど、好きな色や似合う色はそれぞれ微妙に違うからね。それにみんなが同じ赤でよければ、安藤は仕事にならないのよ」
でしょ、とあいみが安藤を見てにやりと笑う。ジュリアナて、と管地が眉を寄せる。
お待たせしました、と店員が持ってきたビッグサイズのバーガーセットに目を丸くする空良を横目に安藤が言った。
「それに多くの女性が『赤いリップ』には躊躇するものです」
ふうん、と空良が考えるような顔をする。アルコールティッシュで手を拭いた安藤は、食べ辛そうに重なった具材をすべて力技でバンズに押し込み、平然とかぶりついて続けた。
「他者があるから化粧が存在する。『個』の境界を知らなければ、アダムとイブもイチジクの葉など不要だった。知恵の実を食べることにより、二人はお互いを別個の存在として認識し、恥じらうことを知った」
「私達がメイクを好きなのも、元は一つだったものが二つになって、『個』を認識するのが楽しいからかもね」
いただきまーす、とあいなが串刺しにしたバーガーを器用に食べ始める。隣でオレンジジュースに口を付けたあいみが言った。
「でもそしたら、楽園とか天国にメイクはないのかな?」
「ないかもしれないですね。昔、キリスト教では化粧禁止でしたし」
安藤がバーガーを両手でホールドしたまま答える。手に負えないボリュームのバーガーを見ながら途方に暮れていた空良が聞いた。
「なんで禁止だったの」
「かつてのキリスト教では、女性が化粧をするのは罪だった。素顔でいること、かつ白い肌であることを至上とした」
「口紅も?」
「良しとはされていなかっただろうね。聖書にはっきり書かれているわけではないけれど、『天然で美しいのは良いが、あまり派手に飾り立てると地獄に落ちるぞ』って感じです。それでも当時のヨーロッパの女性達は、自らを白く美しくすることを求めた。血を抜いて不健康な青白さを求め、それを強調するために青い血管を薄く描いたりもした」
ポテトをつまみながら気味悪そうに顔を歪める空良の隣で、体に悪そうだな、と管地がもりもりとアボカドバーガーを咀嚼する。
「今はAVのパケ写でも、女優の血管を画像加工で消してるけどな」
バーガーを食べ終わった管地がアイスティーを飲む。安藤もバーガーを食べきり、手を拭きながら言った。
「根本は同じですよ。目を大きく見せるため、目薬で瞳孔を開かせた。シミを隠すため、付けボクロ師がその上からホクロを描いた」
安藤みたいだ、と空良がバンズを持ったまま呟く。お前もな、と空良を横目で見ている管地に、なんで空良くんが? とあいながグァバジュースから唇を離して聞いた。
「さっきのウニやサーモン見たろ? こいつも何にでも絵を描いちまうし、しかも無駄にリアルで細かいぜ」
ムダなの? と必死に咀嚼していたバーガーを飲み込み、空良が管地の顔を見る。あ、いや、無駄じゃない、と焦ったように管地が手を振る。そうだ、とあいなが思い付いたように言った。
「空良くんって、ネイルも上手そうだよね」
「確かに! オープンカフェだし、今あんまり人いないし、ちょっとだけいい?」
あいみが周囲を見回しながら安藤に尋ねる。ランチタイムを過ぎたオープンカフェには離れた席でモバイルを覗き込んでいる男性と、うたた寝する年配の女性がいるだけだった。安藤は空良を見ながら肩をすくめる。
「迷惑にならない程度に、あと、彼が食べてからにしてください」
はーい、とあいなが買い込んだネイルカラーをテーブルに並べ、楽しみー、とあいみが胸を揺らしながらカラフルな小瓶をセレクトする。パールホワイトやピンクの小瓶を押しのけた二人は目を合わせ、ラメの入った紺色の小瓶を手に取った。
近所のおっさんがあんな色のルアーでカンパチ釣ってたなあ、と眺めている管地の横で、もういいよ、と食べきれなかった皿を管地の前によけた空良が手を拭く。
あいなが空良を自分達の正面に座らせて、紺色のネイルカラーを手渡した。
「そしたら空良くん、私に星座描いて! まずはこっちで夜空っぽくしてー」
「私は花火! これ速乾ネイルだから、すぐ上から描けるよー」
あいみが針のように細い筆を用意する。空良は二人の説明を聞き、わかった、と真剣な表情でその爪に紺色を乗せる。うわ、とその色に顔を顰める管地をよそに、すぐに要領を掴んだ空良は、二人の爪を艶やかな夜空の色に塗り替えた。極細の筆で星と光の筋を描き足すと、素敵、とあいなとあいみがさらにリクエストする。
「薬指にはお花描いて! 月下美人みたいなの」
「私はちょうちょ描いて! 真夜中の蝶!」
蛾だな、と管地が氷だけになったアイスティーをストローですすり、蛾ですね、と安藤も肯いて腕を組む。あいなは爪に描かれた星々に、うっとりと息を吹きかけた。
「夏の夜空って素敵よね、織姫とか彦星とか」
「琴座のベガと鷲座のアルタイルですね。それに白鳥座のデネブが繋がって夏の大三角だ」
安藤がテーブルに肘をついてのんびり言うと、あいみが両手を空良に預けたまま、顔を上げて笑った。
「鷲座って安藤だよね」
「なんだそりゃ。十三星座占いでも聞いたことないぞ」
こいつシシ座とかじゃないっけ? と管地が安藤を指差すと、あいなが笑って答えた。
「そういうのじゃなくて、安藤の名前のルーツだって、安藤ママから聞いたことがある。ラテン語だったかな? 鷲とか、鷲座の学名がアクィラとかアキラなの」
へえ、と管地が感心した声を出し、そうなのか、と真夜中の蝶を描き終えた空良が顔を上げた。ありがとー、とあいみが爪を乾かしながらも空良に抱きつくと、そこから逃れた空良が考えるような顔をした。
「……高くて、遠いところにいる鷲なのか」
「どうした?」
どこか羨むような空良の視線に、安藤が視線を返す。顔を逸らした空良はハワイアンな店の入口を二度見して、それよりあれ、とカウンターにいる小男の後ろ姿を指差した。
「私、こちらでの作法はよくわからないんですが、スイートでかぐわしいドリンクを一杯頂けますでしょうか」
困惑を隠しながらも店員は笑顔で対応し、ドリンクやサイズを一通り説明する。小男は頭を下げながら丁寧に言った。
「そういうのわかりませんが、あなたが選んで下さるもので構いませんので」
ああ、あのおじさんねー、とあいなとあいみが安藤に目配せをする。またあいつか、と舌打ちした管地が空良に言った。
「目を合わせるな」
「……わかった」
よし前向け、と空良の頭を前に向け、管地もあさっての方向を向いた。ドリンクを受け取った小男は、遠い位置から管地の視線の先を往復してみせる。視界に入ってくるそれを無視して天井を見上げると、小男は早足で近付いてくるなり管地に言った。
「気付いてましたよね? 今気付いてましたよね!?」
どちらさまでしたっけ、とうそぶく管地に、いるんですよねーこういう人、と大袈裟に男が嘆いてみせる。もう目を合わせてもいい? と管地の了承を得た空良が顔を上げた。
「トビタさんもこっちに来てたんだ」
「はい先ほど。そんなわけでごきげんよう、素敵なお嬢さんがた。つぶらな瞳は紳士の印、きらめきスパーク飛田登場です」
あいなとあいみにお辞儀をして膝を曲げると、飛田は上着をひらりとさせて鮮やかな裏地を見せる。きゃはは、と手を叩いてあいなが笑った。
「やだー、おじさん無駄にお洒落ー!」
「飛田です。やはり素敵なお嬢さんは、これがステラ・ラティーノだとおわかりですか。よろしければ私とファッションの街ミラノで、一緒にミラノ風ドリアを食べませんか?」
「すごーい、あれミラノにあるのー?」
にゃはは、とあいみも笑いながらネイル道具を片付ける。美女お二人の笑顔に乾杯、と目を細めながら手にしていたドリンクを掲げ、飛田はおもむろに安藤に頭を下げた。
「そんなわけで、ご一緒してもよろしいでしょうか安藤どの」
「いいですよ、どうぞおかけください」
いいのか? と嫌そうに安藤をつつく管地に、平気です、と安藤は足を組み替えながらのんびりと言った。
「変な輩に付きまとわれたり、困った相手に監視されるのも慣れっこです。あ、飛田さんのことではありませんよ?」
「ですよねー。管地さんはもう少し、優しさとかまろやかさみたいなものを他人に与えるよう心がけた方がいいと思いますよ?」
席についた飛田がドリンクに口を付けようとすると、管地はそれを取り上げ、カップの蓋を外しながら言った。
「まろやかな奴ならくれてやる。おい空良、さっきの全部だ、サービスしてやれ」
少し考えた空良が、わかった、とワサビとウニのポーションを取り出してテーブルの上に置いた。そのデザインにぎょっとしながらも中身を理解した飛田は、ミルクが足されていく自分のタピオカドリンクを平然と眺める。もう一つ、と空良がポケットからサーモン模様のポーションを取り出そうとすると、その拍子に銀色の円いケースが転がり落ちた。
「そちらのはコハダですかな」
「……これは葉月のコンパス。今度会ったら渡すやつ」
空良が拾ったコンパスをしまう。ああ、と飛田は考えるような顔をして続けた。
「経絡人形のアレですな。でも、なんと言って小坂さんに渡すんですか」
「……コンパスあったよ」
「わあ嬉しい、どこにあったの空良くん、って聞かれて説明できますか? 東京で消えた経絡人形が埼玉のとある場所で変わり果てた姿で見つかり、その白衣のポッケに?」
その説明じゃダメなの? と空良が尋ねると、飛田は非常にまろやかになってしまったタピオカドリンクをちびちびと飲みながら答えた。
「なんというかその、事情があるモノかもしれません。そういうことに彼女を巻き込んでしまっては……と心配になりまして」
なにそれ、と空良が瞬きをする。なんの話? と身を乗り出した安藤に、管地が経緯を説明する。呪いとかの恐い話? とあいなとあいみも興味深そうに目を見開いた。
ええまあ、と飛田が太いストローをつまみながら話す。
「……そういう感じの話もあると思います。実際に持ち主は亡くなりましたし、特別に、故人の白衣を着せられている経絡人形なんですよね?」
「あと指が取れてる」
「ああ、それはマズイです。人の形に作られたものはそれなりの力を持つうえに、そのような呪詛を重ねられれば、必要以上に余計なモノがまとわりつくものです」
へー、と管地がわざとらしく唾を付けた指で眉を撫でてみせると、飛田はふっと真剣な表情をして空良の目を見つめた。
「それだけではなくですね、そんなモノがいきなり姿を消したというのが問題なのです。そもそも古い経絡人形なんて価値はないんです。古いものはツボの位置が違ってたりして実用に向きませんし、愛しい人に面影がうり二つ、みたいな事情でもなければ、お葬式の会場から間違っても持っていったりしないはずですよ」
「まあ、愛しい人に似ているならば、顎を外して捨て置くような真似はしませんね」
安藤が面白がって肯く。でしょー? と飛田は長いまつげをばちばちさせて続けた。
「そんなモノをわざわざ、スタッフにすら気付かれずに盗んでいく輩なんて、ものすごい変態かその道のプロの仕業ですよ。小坂さんが見たときには顎は付いてたんでしょう? そしたら恐らく、盗んだ目的はその外れた顎です」
「ヘンタイの、プロなのか」
空良が神妙な顔で呟く。それで? と安藤が足を組み替えながら尋ねた。
「飛田さんは、どのあたりに話を落としたいんですか? その道のプロが盗んだ人形が、絆創膏を巻いただけのコンパスの持ち主に厄災をもたらすというなら、盗んだプロも今頃大変です。飛田さんが心配している厄災とは、人形の顛末が明らかにされることで不利になる人間にもたらされるものではないですか? つまりあなたは、あなたの言うところのものすごい変態かその道のプロ、もしくはその仲間といったところでしょうか」
穏やかに微笑みながら安藤が飛田の目を見る。やだそんなー、と飛田は恥じらうように目を逸らした。
「そういうわけではないんですけど、私も昔、そんな感じのモノを扱ったことがあるので、ちょっとだけ詳しかったりするんですよね。昔の話ですけど、悪党や窃盗団が盗んだ品を海外に流すため、古い絵とか人形、置物なんかに仕込むのが流行った時期があるんです。そのなかでも素晴らしく腕のいい職人がいまして、お宝を仕込むために作った『ガワ』の方に芸術的な評価が高まり、それとは知らずに各地に散らばっているのです」
「つまりその経絡人形がその一つだと?」
「ええまあ、そういう伝説が今でも一部のよろしくない輩のあいだで色々言われてまして」
飛田がもじもじと上目遣いで安藤を見る。ヤカラってなに、と空良に聞かれた管地が、良くない奴らってコトだな、と答えた。ふうん、と空良が肯く。
「トビタさん、人形を持ってった人のこと知ってるの」
「あー、いやまあ……心当たりはないわけではないですけど」
飛田がタピオカドリンクを両手で支えながら真上を見る。友達なの? と素直に尋ねる空良に、そんなところでしょう、と安藤が続けた。
「戻ってきたコンパスを通じて関係者に人形の顛末を知られると、下手をするとルートが割れて誰の仕事か知られてしまうかもしれない。同業者としては、その手の仕事にケチがつくのは好ましくないし、飛田さんはお知り合いの輩とやらにも恩を売ることができる。ゆえに事情が漏れてしまう可能性を秘めたコンパスを、わざわざ返したくない」
「いえそんな、それだけではないですよ? 消えたお宝人形の行方を知ってる人間がいる、なんて話が漏れたら、小坂さんだけじゃなく空良くんも、今以上にいらない面倒事に巻き込まれちゃうかもしれないじゃないですか」
「通報してやれよそんなん。つうか、こいつを警察に突き出した方が話が早くないか?」
耳をほじりながら忌々しげに言う管地に、飛田は拝むように両手を合わせた。
「いえいえ、警察もそんなヘンな経絡人形にかまけていられないでしょうし、そこはそれ、私と空良くんの友情でね? こうして折り入ってお願いしてるんです。数ある高価な遺品から経絡人形だけが消え、顎の部分だけを抜き取った状態で、縁もゆかりもないところに運ばれていたんです。これはその手の事情に精通した、特殊な運び屋の仕事ですよ?」
その頃、第一京浜を走っていた白いBMWは無事に県境を通過し、富仲は川崎駅に続く交差点を抜けながら間能と連絡を取っていた。
「タクシー無線の情報が役に立ちました。一番空いてる検問なのは確かでしたが、その分念入りにやられてた車もあったみたいですね」
『ボスの車はノーダメージでしょう? こっちは、品川を過ぎてから小堀をマークしてた連中がいましたが、俺はノーマークです』
くくく、と京急鶴見駅のホームで時間調整している間能が笑った。げっそりしながら富仲が注意する。
「傍目に怪しいですから、その笑い方は自重してください。まだ気を抜けません。今回、我々の邪魔をするのは警察ではないんですから。あと小堀はどうなりました?」
『京急蒲田から羽田行きに乗り替えました。しばらく奴らをホイホイしてから引き返して、適当に直帰するってことで』
予定通りです、と明るい声で間能が答える。富仲は腕時計にちらりと目をやった。
「あと十五分です。生麦駅にはほぼ同時か、こっちが先に到着します。あとは余裕ですし、せっかくですから横浜まで足を伸ばして何か食べて帰りましょう」
『何かって、中華ですよね』
「ええまあ、何か食べられるものを」
『いいですね。今回、中身は物騒でもサイズは手頃で運びやすいから得した気分ですよ。遠くまでボディを運んでから顎だけ届けた芝公園のアレとは違って』
アレはなんだったんですか、と冗談まじりに間能が窺う。こいつは、と青い顔の富仲がため息とともに答えた。
「間能なら詳しいでしょう。どこの組織の職人のモノかは知りませんが、中国産に見せた国産です。海外に流す前提で作られたものを、故人が手元に置いておいたんでしょうね」
やっぱりお宝入りの顎でしたか、と間能が鳩の鳴き声のような笑いを漏らす。富仲のBMWは八丁畷を過ぎ、京急鶴見にいる間能とともに南西へ向かっていた。
運び屋が生麦駅へと向かっている頃、丸ビルではまだ飛田が空良の説得を続けていた。
安藤はテーブルに肘をつき、飛田の顔を見ながら言った。
「いいんじゃないですか? なんの確証もない話ですし、半分くらいは嘘かもしれません。ですが、飛田さんがコンパスと経絡人形の件を黙っていて欲しいのは確かです。お願いを聞いてあげた方が、空良も飛田さんに貸しをつくることができる。なあ空良」
「でも、葉月が困ってるかも」
空良がポケットからコンパスを出して眺める。そうだな、と安藤が提案した。
「それなら、本人に気付かれないよう、適当なところに戻しておけばいいんじゃないか? 彼女なら、自分の勘違いだと勝手に納得するかもしれない」
え、と空良が嫌そうな顔をすると、管地も面白がるように安藤に続いた。
「そりゃいいや、脱コミュ障のためのエクササイズだ。そのハヅキちゃんてのに近付いて、ポケット、バッグ、車でもいい、こっそり戻してこい」
「そういうのは、安藤がやれば」
「僕は無理です。面倒ごとの種になるので、理由もなく特定の女性に近付いたり話したりしてはいけないんです」
白い手を振りつつやんわり断る安藤を、空良が恨めしげに睨む。
「……あいなとあいみはいいのか」
「はい。部下として、ユニットとして認められています。二人でワンセットの双子なので恋人と誤解されることがないですし、『同じ顔でもこれだけ変わる!』ができますから」
「安藤の恋人だと思われると、私達の婚活にも影響するからね」
「そうそう。婚活目的でいいからって安藤にスカウトされて契約したの」
口々に言うあいなとあいみに、ふうん、と空良が肯いた。
「よくわからないけど、あいなとあいみも安藤はダメなのか」
も? とあいなとあいみが顔を見合わせる。ははは、と隣で安藤が笑った。
「まあ、僕にとっても、頼れるお母さんみたいな感じなんですよね」
「……あいなとあいみは、安藤より年上なのか」
そうですよ、と言いかけた安藤をあいなとあいみが押しのける。
「ちょっとー、言わなきゃわかんないのに、何をつまんないこと言おうとしてんのよ」
「そもそもお母さんってなによ。せめてお姉さんでしょ?」
やいのやいのと抗議する二人に両手を上げ、まあまあ、と安藤が降参する。
「でも実際あいなさんとあいみさんは、実のお姉さんのように僕の面倒を見てくれました。守ってもらうことも多かったですし」
守って? と空良と飛田が顔を見合わせ、わかるわ、と管地が肯く。あいなとあいみは安藤を見ながら言った。
「昔、安藤のママに頼まれたからね。アキラのことをよろしくって」
「安藤ママがすごくかわいかったんだよ。安藤と違ってちっさくて」
「……安藤はかわいくなかったのか」
空良の素朴な質問に、空良くんには負けるかもね、とあいみが笑う。ふうん、と空良は納得したように言った。
「じゃあ安藤は、あいなとあいみ以外は許可がいるのか」
「そうなるかな。一応、会社に属していなければならないからね」
面倒だな、と呟く空良に、信用ないんじゃないか? と管地が笑う。どうでしょうね、と安藤は遠い目をした。
「特定の女性とばかり交流するなと言っていた人間が、婚外子である僕の父親ですよ? クラオ前会長がアホなだけかもしれませんが、どれほど気をつけていても、避けられない厄介事は出てくるんでしょう。原罪ってやつです。人の子として生まれたからには、間違いがひとつもないわけがない」
ふふ、と他人事のように笑った安藤が、思い出したように言った。
「そうだ、急ですが管地にお願いがあったんです。本当に急ですが、明日、ここでの作業を頼みたいんです」
明日? と空良が顔を上げる。またかよ、と管地は露骨に大きなため息をついた。
その頃、羽田空港国内線ターミナルでは、富仲商会の大男・小堀が大型スーツケースを抱え、荷物を狙う尾行者を引きつけながら展望デッキへ向かっていた。
会社勤めに疲れたような顔をした小堀が、悠然と過ぎゆく飛行機を眺める。尾行者が接近した頃合いを見てスーツケースを開き、詰め込まれた東京土産のパイやサブレを黙々と食べてみせる。尾行者の気配が引き、周囲の人間もほんのりと距離を置いた。
しばらくしてから国内線ターミナル駅へ戻り、京急線で泉岳寺から浅草線に乗り換える。尾行者の気配はないが、下車してから人混みに紛れるよう富仲に指示されている。
新橋から日本橋を過ぎると浴衣姿の乗客が増え、浅草に着く頃にはほおずき市を目指す乗客で一杯になった。
スーツケースを担いで電車から降り、夕空に聳えるビール的な建造物とスカイツリーに背を向け、人波に流されるまま雷門通りを歩く。浅草寺の境内はさらに賑わっていた。
電球に照らされた鮮やかな緑と朱色に、ゆらりと光るガラスの風鈴。無数の光が溢れるほおずき色の通りを、ゆるゆると人が流れていく。
小堀は屋台の並びを抜けて物陰に身を隠し、慣れない上着を脱いでネクタイを外すと、ワイシャツを脱いでスーツケースに放り込んだ。普段のTシャツ姿に戻り、夜空を眺めて大きく伸びをする。
賑わいから逃れるために入った路地も、無人というわけではなかった。ほおずきの鉢を持つ大人や水風船を手にした子供が歩き回り、浴衣姿の男女がかき氷を味見しあっている。さらに目の前で、あははは、と中学生くらいの少女が笑いながら走っていく。その右頬には、持っていたりんご飴と同じ、鮮やかな赤が見えた気がした。
さて、と小堀がスーツケースを摑んで歩き出す。飴細工やたこ焼きなどの露店が増えるなか、小堀は覚えのある物々しい気配に気付いた。どこに行きやがった、と金魚すくいの脇で通行人を睨みながら携帯電話に舌打ちしているのは、槙野組の秋山の部下だった。
「どんなガキだ、……ああ? ホッペがなんだって? 赤ぁ?」
くまモンかよ! と携帯電話に凄んだ男は、苛々しながらも駅の方向へと走っていく。小堀が遠ざかる男を目で追っていると、金魚すくいの横で若い男女の声が聞こえてきた。
「赤いのが良かったのにー、なんかこれ赤くないし、金魚っぽくなくない?」
「そうなんだけどさ、コイツが勝手に飛び込んできたんだよ。逆にスゴくない?」
こんなんいらないんだけど、と浴衣姿の女性が水の入ったビニール袋をつまみ上げる。男が掬ったらしいその金魚は、全体的に色味が乏しく、片側にぽつりと赤い点があった。
水槽のそばでしゃがみ込んでいる少女も、その成りゆきが気になるのか、右の頬に手を当てながら白い金魚をちらちらと見ている。
じゃあどっかに置いてくべ、とあたりを見回す男に小堀が声を掛け、引き取りますよと提案すると、二人はぎょっとしながらも白い金魚を小堀に託した。見守っていた少女も、水槽の隅でしゃがんだまま、右頬に手を当てて微笑んでいる。
小堀はスーツケースと金魚の袋を提げ、駅の方向へ歩き始めた。風神と雷神のあいだを通り抜ける手前で、りんご飴を持った少女が、赤い右頬を拭いながら笑いかけた。
「その金魚は特別なんだよ。赤いしるしがある子は当たりなの」