1話 5年後の夏
五年という月日は、長いようで短い。
あの日から、もう五年が経った。
水瀬遥、十九歳。
かつて何者でもなかった少年は、今では将棋を指すことを生業としている。
朝、目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を照らしていた。
蝉の鳴き声が聞こえる。
どうやら、今日も暑くなりそうだ。
「……あっつ」
遥は布団から体を起こし、枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。
通知が一件。
画面を見ると、雨宮からだった。
『今日、何時に来る?』
遥は少し考えてから返信する。
『昼過ぎかな』
すぐに既読がついた。
『了解』
それだけの短いやり取りだった。
けれど、遥にとってはいつものことだった。
顔を洗い、朝食を済ませる。
それから机の上に置いてある将棋の棋譜を手に取った。
昨日の対局で気になった局面がある。
何度見直しても、納得がいかない。
「うーん……」
盤面を眺めながら、駒を動かす。
一手、また一手。
考えれば考えるほど、別の可能性が浮かんでくる。
将棋というものは不思議だ。
たった一つの局面に、いくつもの道が存在する。
そして、その道を選ぶのはいつだって自分自身だった。
「……まあ、行ってから考えるか」
遥は棋譜を閉じた。
*
昼過ぎ。
待ち合わせ場所に着くと、先に雨宮が来ていた。
「おはよう」
「もう昼だけど」
「細かいこと言うなって」
遥は笑いながら近づいた。
雨宮は呆れたように息を吐く。
「相変わらずだね」
「何が?」
「全部」
「雑すぎるやろ、その説明」
二人は顔を見合わせて笑った。
特別な会話ではない。
けれど、こういう時間が遥は好きだった。
将棋の話をして、くだらないことで笑って、気が向けば一緒に帰る。
そんな関係が、いつの間にか当たり前になっていた。
「そういえば、今日高槻も来るんだっけ?」
遥が尋ねた。
「うん。あとから来るって」
「ああ、そうなんや」
遥は何気なく返事をした。
その名前を聞いただけなのに、ほんの少しだけ気持ちが弾む。
自分でも不思議だった。
「何?」
雨宮がこちらを見る。
「いや、別に」
「ふーん」
雨宮はそれ以上追及しなかった。
*
将棋盤を挟んで向かい合う。
雨宮が駒を並べる。
「指そうか」
「もちろん」
「今日は負けないよ」
「それ、毎回言ってない?」
「今日は本気だから」
「いつも本気で来てくれよ」
二人は笑った。
そして、対局が始まる。
パチン。
駒音が部屋に響く。
遥は盤面を見つめた。
相手の手を考え、自分の手を考える。
それだけの世界。
けれど、その世界には無限の可能性が広がっている。
遥は駒を動かした。
雨宮も応じる。
静かな時間が流れていく。
ふと、遥は思った。
こうして誰かと将棋を指せることは、当たり前ではないのかもしれない。
五年前。
祖父と向かい合っていた、あの夏の日。
あの日の自分は、まさか五年後にこんな生活を送っているとは思っていなかっただろう。
「遥?」
「……あ、ごめん」
「考え事?」
「ちょっとな」
「将棋に集中してよ」
「はいはい」
遥は笑って、再び盤面に目を戻した。
まだまだ、夏は始まったばかりだ。
そして、この夏。
遥の運命は、また少しずつ巡り始める。




