0話 私の名前は水瀬遥
神様が招いたのか。
ある出来事が、遥の運命を大きく変えることになる。
それは、五年前のある夏の日。
水瀬遥、十四歳。
何者でもなかった十四歳。
将棋が好きだった。
学校では友達と馬鹿騒ぎをして、家に帰れば祖父と将棋を指す。そんな、ごく普通の中学生だった。
それなのに。
*
「たぁーだいまー!」
玄関の扉を開けると同時に、遥は大きな声で叫んだ。
「おかえり」
居間から、二人の声が返ってきた。
母と祖父だった。
「今日も暑かったわね」
「ほんまやで。もう溶けるか思たわ」
遥は笑いながら靴を脱いだ。
水瀬家は、祖父、祖母、父、母、そして遥の五人家族だった。
今どき珍しい大家族。
もっとも、祖母は認知症を患い、現在は施設で暮らしている。父もまだ仕事から帰ってきていないらしい。
それでも、家に帰れば誰かがいる。
遥にとって、それは当たり前のことだった。
鞄を置き、洗面所で手を洗いうがいを済ませる。
そして、居間に顔を出した。
「じいちゃん! 将棋しよ!」
祖父は新聞を畳み、テレビの電源を切った。
「わかった」
いつもの一言だった。
遥は嬉しそうに笑った。
祖父と将棋を指すのは、遥にとって日課のようなものだった。
学校であったことを話しながら、盤を挟んで向かい合う。
祖父は決して強いわけではない。
少なくとも、遥はそう思っていた。
「今日は負けへんで」
「ほうか」
祖父は小さく笑った。
将棋盤の上に、駒が並べられていく。
遥は先手を取った。
「お願いします!」
「お願いします」
駒音が響く。
パチン。
パチン。
いつものように、遥は駒を指していく。
けれど、その日の将棋は少し違っていた。
祖父が、いつもとは違う手を指したのだ。
「……え?」
遥は思わず盤面を覗き込んだ。
何かがおかしい。
祖父の駒は、遥の攻めを受け止めるどころか、むしろこちらに向かってきていた。
「じいちゃん、これ……」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
遥は考え込んだ。
いつもの祖父なら、ここで守りに入る。
なのに、今日は違う。
まるで、こちらの考えを読んでいるかのようだった。
遥は駒を動かした。
祖父も動かす。
さらに遥が考える。
祖父が指す。
気がつけば、遥は盤面から目を離せなくなっていた。
楽しい。
ただ、それだけだった。
勝ちたいとか、負けたくないとか。
そんなことすら、頭から消えていた。
ただ、目の前の将棋が面白かった。
「……参りました」
やがて、遥は頭を下げた。
祖父は何も言わず、盤面を見つめていた。
「じいちゃん、強いやん!」
遥が笑うと、祖父も笑った。
「そうか?」
「そうやって! なんで今日こんな強いん?」
「さあなあ」
祖父は駒を片付け始めた。
遥もそれを手伝った。
いつものように、何気ない時間だった。
けれど。
駒を箱に戻し終えたとき、祖父がふと口を開いた。
「遥」
「ん?」
「お前、将棋好きか?」
「好きやで」
遥は即答した。
祖父は、少しだけ目を細めた。
「ほんなら、もっと強くなってみたらどうや」
「……強く?」
「うん」
祖父は、将棋盤の上に置かれた王将を手に取った。
「お前には、向いてると思うで」
遥は笑った。
「何それ。じいちゃん、俺のこと褒めすぎやろ」
「そうか?」
「そうやって」
祖父は何も言わなかった。
ただ、手の中の王将を見つめていた。
そして。
「……将棋、続けてみい」
その一言が、遥の人生を変えることになる。
当時の遥は、まだ何も知らなかった。
将棋の世界に、どれほど多くの人間がいるのか。
その世界で、どれほどの才能がぶつかり合っているのか。
そして、自分がその中に飛び込むことになるのか。
何も知らなかった。
ただ、祖父の言葉が嬉しかった。
「うん。続けるわ!」
遥は、いつものように笑った。
その日、祖父が何を考えていたのか。
それは、遥にはわからない。
けれど、あの夏の日。
あの一局。
あの一言。
それらが、遥の運命を大きく変えることになる。
そして、五年後。
水瀬遥は、将棋の世界で一人の棋士として生きていた。
あの日、何者でもなかった少年が。
運命に導かれるように、盤上の世界へと歩き始めたのだった。




