第1話:依頼
カルヴェン邸の応接室は、無駄に広すぎた。
天井が高く、壁には油絵が並び、暖炉には火が入っていた。家具はすべて上等で、絨毯は足が沈むほど厚かった。この街に金がある人間がどこに集まるかを、部屋そのものが語っていた。
アルヴァン・グレイは、その部屋の中央に置かれた椅子に座り、暖炉の火を見ていた。
部屋の隅に立つ護衛が二人、アルヴァンから可能な限り距離を取っていた。壁際まで退いているが、それでも足りないと感じているのか、一人は扉に手をかけていた。逃げ道を確保しているのだった。
アルヴァンの左手首に、鈍い銀色の腕輪があった。幅広の、装飾のない金属の輪だった。これがあることで、彼の体から漏れ出る神気は辛うじて人間が耐えられる水準まで抑制されていた。
辛うじて、だった。
それでも部屋の空気は重かったのだ。その証拠に護衛たちの呼吸が浅い。暖炉の火が、わずかに揺れていた。風はないのに。
ネレアは、アルヴァンの斜め後ろに立っていた。
クラシカルなメイド服に身を包み、両手を前で重ね、背筋を伸ばしていた。背部の四本の機械腕は完全に格納されており、外見上は人間の女性に見えた。外見上は。
瞳の奥の青い光学センサーの光に気づいた護衛の一人が、それ以来アルヴァンとネレアの間で視線を泳がせ続けていた。どちらを警戒すべきか決めかねているようだった。
答えはどちらも、なのだが。
扉が開いた。
主のエドワード・カルヴェンが入ってきた。
五十代の男だった。仕立てのいい上着を着て、髪を整え、いかにも有力者という風体だったが、顔色が悪かった。目の下に隈があり、唇が乾いていた。数日眠れていないのだろう。
彼はアルヴァンを見た。一瞬、足が止まった。
止まったが、歩みを再開した。向かいの椅子に座り、テーブルを挟んでアルヴァンと向き合った。深呼吸を一つした。
「来てくださったのか」声が、わずかに震えていた。「グレイ殿、娘が——」
「で、報酬は?」
エドワードの口が、開いたまま止まった。
「……は?」
「報酬の話を先にしたい」
「娘がさらわれて三日になるのですが……」
「それは聞いた。使いから概要は伝わっている」アルヴァンは暖炉から視線を戻し、エドワードを見た。「だから来た。報酬次第で受けるかどうか決める」
エドワードは絶句した。
「ご主人様」ネレアの声が後ろから静かに割り込んだ。「エドワード様はまだ動揺されております。状況の説明を先にお聞きになってはいかがでしょう」
「状況より金額の方が重要だろう」
「重要なのは存じておりますが、順序というものがございます」
「俺には関係ないぞ」
「私には関係あります」ネレアはエドワードへ向き直り、わずかに頭を下げた。「大変失礼いたしました。続けてください」
エドワードは二人を交互に見た。
「……あの、これは」
「いつものことでございます」ネレアは言った。「お気になさらず」
状況の説明は十分で終わった。
娘のリアが三日前の夜にさらわれたこと。犯人はヴォルク組というマフィアで、街の東側を仕切っていること。身代金の要求はまだなく、おそらく事業上の取引の道具として使うつもりであること。
アルヴァンはそれを聞きながら、大半の時間を腕を組んで天井を見て過ごした。
「で、報酬は?」
説明が終わった瞬間に言った。
エドワードは諦めたように額に手を当てた。金額を提示した。
アルヴァンは一度だけ聞いた。少し間を置いた。
「前払いで半分。残りは娘を返してから」
「わかりました」
「前払い分は、結果にかかわらず返還しない、ということでいいか」
エドワードの眉が、わずかに動いた。「……結果にかかわらず、とは?」
「依頼を遂行した対価だ。娘の生死は別の話ということだ」
部屋が、しんとした。
護衛の一人が、小さく息を飲んだ。
「ご主人様」ネレアが言った。声のトーンは丁寧なままだったが、その丁寧さの中に何か硬いものが入っていた。「その説明は、依頼人を不必要に不安にさせます」
「事実の説明だぞ」
「事実であっても、言い方というものがございます」ネレアはエドワードへ向いた。「娘様は必ずご無事でお連れします。ご安心ください」
「それは保証できない」アルヴァンが言った。
「ご主人様」
「俺が保証できるのは全力で遂行することだけだ。結果の保証は誰にもできない」
「……それはそうなのですが」
「至極、論理的だろう」
「論理的ですが、今は論理より安心が必要な場面でございます」
アルヴァンは少し考えた。
「そういうものか」
「そういうものです」
エドワードは二人のやり取りを眺めながら、奇妙な感覚を覚えていた。恐怖は確かにあった。この男の周囲の空気の重さ、後ろに立つ人形の瞳の光。だがそれと同時に、何か——妙な安心感があった。うまく説明できなかったが、この二人が引き受けると言うのであれば、という気持ちが、じわじわと湧いていた。
「……よろしくお願いします」彼は言った。「娘を、頼みます」
アルヴァンは立ち上がった。
「では場所を」
エドワードが地図を広げた。ネレアが覗き込み、三秒で記憶した。アルヴァンは地図を一瞥して、もう見なかった。
「あの……一つ確認させてください」エドワードは言った。声のトーンが、わずかに変わった。「娘は、その……三日間、何もしていないでしょうか」
「何も、とは?」
「いえ——その、閉じ込められて、辛い思いをしていないか、という意味です。父親というのは、心配で」
「ご主人様」ネレアが静かに割り込んだ。「エドワード様はまだお話の途中でございます」
アルヴァンは黙った。
「父親とはそういうものでございます」ネレアはエドワードへ向き直り、穏やかに言った。「娘様のご無事を、誰より案じておられるのでしょう」
「……そう、です。そういうことです」エドワードは言った。少し間があった。「そういうことです」
二回言った。
アルヴァンは少し考えた。
「ネレアが管理する」
「か、管理、とは?」
「娘の安全管理だ。俺の近くには置かない」アルヴァンはネレアを見た。「そういうことだ」
「承知しております」ネレアは言った。そしてエドワードへ向き直った。「娘様はご主人様には近づけません。私が責任を持って安全な距離を確保します。ご安心ください」
エドワードは頷いた。今度は、本当に少し安心した顔だった。
護衛の一人が、小声で隣の護衛に言った。「なんか、すごいな……」
「何が?」
「あのメイド、さっきからずっとあの人の保護者みたいだぞ」
ネレアの光学センサーが、その会話を正確に拾っていた。
彼女は何も言わなかった。否定もしなかった。
邸を出ると、すでに夜だった。
石畳の通りに、ガス灯の光が点々と続いていた。霧が出ていた。街の輪郭が滲み、遠くの建物が溶けかけているように見えた。
アルヴァンは歩いた。ネレアが静かに並んだ。
「ヴォルク組の拠点は東区画の旧倉庫街です」ネレアは言った。「三棟が連結した構造で、地下に拘束設備があるとの情報があります」
「警備の数は?」
「推定三十から四十。ただし情報が古いため増強されている可能性があります」
アルヴァンは腕輪に触れた。左手の指先が、金属の縁をなぞった。
「よし、お前は狙撃で入れ。俺が制圧しながら進む。娘を確保したら直接介入していい」
「了解しております」ネレアは言った。「一点確認ですが」
「なんだ?」
「先払い分の受け取りを忘れていましたが」
アルヴァンの足が、一瞬止まった。
「……戻るか」
「はい、戻りましょう」
二人は来た道を戻った。霧の中で、ガス灯の光が揺れていた。




