16条 似たもの兄妹
その給仕はヴィオレッタが紅茶を飲み終えるとすぐに近づいてきた。
そして、空になったカップを回収し、先ほどからバネッサが視線を送っていたカップをヴィオレッタの前に置く。
おそらく何かしらの薬が盛られているのだろうが死にはしないだろう。いくらバネッサといえど、ヴィオレッタを殺すほどのことはしてこない。せいぜい腹を下すくらいの薬だと考えた。
そして、ヴィオレッタは微笑みながらカップへ手を伸ばす。
「――その紅茶は、口にしない方がよろしいかと」
低く落ち着いた声が、テラスに響いた。
全員の視線が声の方へ向く。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
整った顔立ちに鋭い眼をしており、一目でバネッサの兄だと分かる。
クルーガー・グランディール。
グランディール公爵家の嫡男である。
「お兄様……?」
バネッサが驚いたように声を漏らす。
だが、クルーガーは妹には目もくれず、ゆっくりとヴィオレッタへ歩み寄った。
「ご機嫌よう、ヴィオレッタ嬢。妹が失礼を働いてはいませんか?」
「ええ、とても楽しいお茶会ですわ」
「それは何より」
クルーガーは微笑んだ。
だが、その笑みはまったく信用できない。
ヴィオレッタはカップへ視線を落とす。
「先ほど、その紅茶は飲まない方がいいとおっしゃいましたわね」
「ええ」
「理由を伺っても?」
クルーガーは給仕へ視線を向けた。
「その紅茶、茶葉を間違えている」
給仕の肩が跳ねた。
「も、申し訳ございません……!」
「謝罪は後でいい」
クルーガーの声は静かだった。
だが、その静けさが逆に恐ろしい。
「客人に出す茶を間違えるなど、グランディール家の使用人としてあるまじき失態だ。下がれ」
「は、はい……!」
給仕は青ざめた顔で一礼し、足早に去っていく。
周囲の令嬢たちはほっと息を吐いた。
だがヴィオレッタだけは違った。
(……助けた?)
いや、違う。
クルーガーはヴィオレッタを救ったのではない。
この場で問題が起きることを避けたのだ。
もし紅茶に何か仕込まれていたとして、それが発覚すればグランディール家の失態になる。
だから彼は先に潰した。
(厄介な方ですわね)
ヴィオレッタは微笑みを崩さず、静かに彼を見上げた。
「お気遣い、感謝いたしますわ」
「いえ。大切なお客様に何かあっては困りますから」
クルーガーは柔らかく答える。
だが、その目は笑っていない。
「それにしても、先ほどは随分と興味深いお話をされていましたね」
「婚約破棄の件でしょうか?」
「ええ」
クルーガーは自然な仕草でバネッサの隣へ立った。
「アシュレイ殿下が謝罪なさったとは、私も初耳でした」
その言葉に、令嬢たちがまたざわめく。
バネッサの表情にわずかに希望が戻る。
兄が自分の味方についた。そう思ったのだろう。
だがヴィオレッタは、クルーガーの言葉の裏を読んでいた。
初耳と言うことで、謝罪の事実そのものに疑念を向けているのだ。
「そうでしたの」
ヴィオレッタは微笑む。
「けれど、殿下ご本人のお言葉ですもの。わたくしが虚偽を申し上げる理由はございませんわ」
「もちろん、あなたが嘘をつくとは思っておりません」
クルーガーは穏やかに言った。
「ただ、謝罪というものは難しい。私的な言葉であったのか、公的な謝罪であったのか。それによって意味は大きく変わります」
空気が変わった。
令嬢たちの視線がヴィオレッタへ向く。
バネッサが口元を緩めた。
クルーガーは相手の追い詰め方を知っている人間だ。大声で罵倒するのではなく、疑問を投げかけていくことで相手に弁明させる状況を作り、周囲に何か隠しているのではと思わせる。そうしている間に矛盾が生じていき事実を話していても舌戦で負けてしまう。
ヴィオレッタはカップの縁に指を添えたまま、静かに笑った。
「確かに、謝罪には種類がありますわね」
「ご理解が早くて助かります」
「ですが、クルーガー様」
ヴィオレッタは紅い瞳を細めた。
この手のタイプはやましい事や隠し事を抱えながら話す際には厄介だが、今回の件に関してヴィオレッタに非はないので堂々と言い返すことができる。
「婚約破棄という重大な話を、殿下が私的な一言だけで撤回できると本気でお考えですか?」
「……」
クルーガーの笑みが、ほんの僅かに止まる。
ヴィオレッタは続けた。
「第一皇子の婚約は、個人の恋愛ではなく国家の問題です。謝罪も撤回も、当然それに相応しい手続きを踏んでおります」
令嬢たちが息を呑む。
「つまり……正式な記録が?」
「ええ」
ヴィオレッタは優雅に微笑んだ。
「王宮にも、エーデルシュタイン公爵家にも」
今度はバネッサの顔色が変わった。
クルーガーは一瞬黙った後、静かに笑う。
「なるほど。それなら噂を信じる方が愚かですね」
あっさり引いた。
その切り替えの早さに、ヴィオレッタは内心で警戒を強める。
(本当に嫌な方)
攻められないと判断した瞬間、すぐに方向を変える。
妹の失態を庇うのではなく、むしろ切り捨てる準備をしている。
案の定、クルーガーはバネッサへ視線を向けた。
「バネッサ」
「は、はい……」
「客人に不確かな噂を口にするのは感心しないな」
「で、ですが、お兄様……!」
「謝罪を」
たった一言。
しかし逆らう余地はなかった。
バネッサは悔しさに顔を歪めも兄の前では強く出られない。
「……申し訳、ございませんでしたわ。ヴィオレッタ様」
絞り出すような声にヴィオレッタはにこりと微笑む。
「お気になさらず。誤解は誰にでもありますもの」
勝った。
少なくともこの場では、完全にヴィオレッタの勝利だった。
だがクルーガーは、まるでそれすら予定の内だと言わんばかりに笑っていた。
「ヴィオレッタ嬢はお優しいですね」
「そうでしょうか」
「ええ。妹の無礼を許してくださるとは」
そこでクルーガーは、ほんの少し声を落とした。
「ですが、優しさは時に弱点にもなる」
ヴィオレッタの瞳がわずかに鋭くなる。
「ご忠告ですか?」
「まさか」
クルーガーは優雅に一礼した。
「ただの世間話です」
その笑みは美しい。しかし、どこまでも冷たい。
ヴィオレッタは悟った。
バネッサは分かりやすい。感情で動き、嫉妬で失敗する。
けれど、この兄は違う。
一見すると、似たもの兄妹のように見えて正反対だ。
味方の失敗すら利用する。
自分や妹を守るより、家の損失を最小限に抑える。 正に貴族の考え方だ。
「ご忠告、胸に留めておきますわ」
「それは光栄です」
二人は穏やかに微笑み合う。
だが、その間に流れる空気は、剣を交えるよりも鋭かった。
バネッサは悔しげに唇を噛み、周囲の令嬢たちは息を潜めた。
そんな中でクルーガーだけが、楽しそうに目を細めていた。
「では、せっかくのお茶会です。新しい紅茶を用意させましょう」
彼は使用人へ合図を送る。
「今度は、客人に相応しいものを」
その言葉に、使用人たちは一斉に頭を下げた。
ヴィオレッタは静かにクルーガーを見つめる。
紅茶の罠は潰され、バネッサの嫌味も封じられた。
だが、クルーガーがわざわざ姿を現した以上、これで終わるはずがない。
(次は、何を仕掛けてくるのかしら)
ヴィオレッタはより一層警戒心を強めた。
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