009 邪悪の誕生/世界の終わりの始まり
王都の地下水路に繋がる隠し通路。そこには、王族が有事の際に逃げるための秘密の馬車が用意されていた。
グレンは財宝の詰まったトランクと共に馬車に乗り込み、御者に大声で怒鳴った。
「早く出せ! 王都から一番遠い港町までだ! 金ならいくらでも払う!」
御者が鞭を入れ、馬車が暗い地下道を走り出す。
ガタゴトと揺れる車内で、グレンは荒い息を吐きながらトランクを抱きしめた。
「ははっ、俺は生き延びた……! アイツらは全員死んだけど、俺は助かったんだ! やっぱり俺は、天に選ばれた勇者なんだ!」
テッドも、アルミアも、タバトも、ブロムも、そして自分を愛していたベティも、全員死んだ。だが、グレンの心に悲しみはない。ただ「自分が助かった」という安堵と歓喜だけがあった。
別の国へ行けば、また身分を偽って英雄として生きていける。この金さえあればどうとでもなる。
だが、馬車が走り出して十分ほど経った頃。
不自然なほど車内が静まり返っていることに、グレンは気がついた。
「……おい、御者! もっと飛ばせと言ってるだろ!」
小窓を開けて前方に呼びかけるが、返事はない。馬の蹄の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
代わりに聞こえるのは、ペチャリ、ペチャリという、水気を帯びた吸盤の粘着質な音だけ。
「なんだ……?」
グレンが馬車の扉を開けた瞬間。
彼は息を呑んだ。
馬車は走っていなかった。いや、走れないのだ。
御者も、二頭の馬も、馬車を引く車輪も……全てが、底なしの黒いヘドロの沼に飲み込まれ、完全に同化していた。
「な、なんだこれは……ッ!?」
グレンが後ずさりしたその時。
馬車の床から、黒い泥が盛り上がり、怪人が姿を現した。口元で蠢く触手の隙間から、鳴上修のあのとぼけた声が響く。
「最後の精算です、グレンさん」
「ヒィッ! な、なんで……お前はデルータに殺されたはずだろ!」
「デルータさんですか。彼はとても硬くて立派な鎧を着ていましたが、中身は意外と柔らかかったですよ。ちゃんと丸めて片付けておきました」
グレンの顔から、一瞬で血の気が引いた。
伝説の騎士すら、この化物には勝てなかったというのか。
「た、頼む、鳴上! 俺が悪かった! 金ならいくらでもやる! この財宝、全部お前にやるから、命だけは……!」
グレンはトランクを開け、金貨や宝石を鳴上に向かって差し出した。
だが、鳴上の腕の触手がトランクを軽く払い落とした。金貨が地下道に散らばる。
「勇者様。あなたは本当に、救いようのないクズですね」
鳴上の声が、地下道に冷たく響いた。
「仲間を売り、女を強姦し、保身のために全てを踏みにじる。あなたは自分が特別で、この世界の主役だと思っていた。でもね、僕から見れば、あなたはクズでしかないんですよ」
「いやだ……死にたくない……俺は、俺は勇者なんだぞぉっ!」
グレンは腰の聖剣を抜き、狂ったように鳴上に向かって振り下ろした。
だが、剣は鳴上の泥の身体をすり抜けるだけだった。
逆に、無数の黒い触手がグレンの四肢を絡め取り、馬車の壁に磔にした。吸盤が彼の肌に食い込み、身動きを完全に封じる。
「やめろぉっ! 離せ、離してくれぇ!」
「さて、どうやって精算しましょうか」
鳴上はグレンの顔のすぐ目の前まで近づいた。
「殺すのは簡単です。でも、それではサポーターとして仕事が雑すぎる。あなたが一番絶望する方法……ああ、そうだ」
鳴上の口元の触手が、グレンの口を無理やり開じ開けた。
「ヒ、ガァッ……」
「勇者様は、僕がタルタロスで味わった恐怖を、内側からたっぷりと味わってください。永遠にね」
口元の細い触手が、グレンの口から胃の奥へと潜り込んでいく。さらにそこから黒い泥が体内に流し込まれた。
「ゴォォッ、ゴボッ、オエェッ……!」
息ができず、胃袋が破裂しそうな苦痛にグレンは白目を剥く。だが、泥はただの物理的な質量ではなく、鳴上の憎悪と混沌そのものだった。
泥と触手はグレンの体内に寄生し、彼の神経を侵食していく。死ぬことすら許されないまま、極限の恐怖と激痛を脳に直接送り込み続ける――終わらない地獄のシステム。
「ああ……ああああああぁぁぁぁぁっ……!」
グレンの目から血の涙が溢れ、彼は声にならない絶叫を上げた。
肉体は生きている。だが、精神は永遠に泥の中で焼かれ、切り刻まれ、犯され続ける。彼が他人に強いてきた痛みの数万倍の苦しみが、彼の脳内で無限ループするのだ。
「これでお終いです」
ピクピクと痙攣するだけの肉人形と化したグレンを見下ろし、鳴上は満足そうに微笑んだ。
サポーターとしての裏方の仕事は、これにてすべて終了した。
***
翌朝。
リンド王国の王都は、未曾有のパニックに陥っていた。
王城の特別室は焼け焦げ、廊下には黄金の騎士の無残な残骸が転がり、地下道からは発狂してよだれを垂らし続ける勇者グレンが発見された。
さらに、王都の至る所から黒いヘドロが溢れ出し、街を徐々に侵食し始めていたのだ。
誰がこんなことをしたのか。どうして勇者は発狂したのか。
真実を知る者は、もう誰もいない。
ただ、黒い泥の海と化した王都の中心で、混沌の怪人が、空を見上げて楽しげに鼻歌を歌っているだけだった。
それは、ただ黙々と裏方の仕事をこなしてきた一人のサポーターによる、ささやかで、徹底的なる復讐の終焉。
世界を救った勇者たちの物語は、這い寄る混沌に飲み込まれ、永遠に歴史の闇へと消え去ったのだった。




