最終話
ハザマは制御卓へ手を置いた。
金属は冷たい。
朝はもう近い。
地球の空は、黒の奥から少しずつ色を抜かれ始めていた。
白い線。
赤い線。
観測の土台と、介入権限の幹線。
見えてしまえば、あとは単純だった。
単純だから、怖かった。
『実行に入るなら、今です』
真木の声が耳に入る。
『受信層と観測整形層は残す方向で固定できます。補助出力はかなり痩せます。介入幹線だけを焼くなら、そこが限界です』
「ええ」
『ただし、あなたの特務官権限と残留照合も一緒に使います』
『つまり、焼却と同時に、帰還認証も存在保証もかなり飛びます』
葛西がすぐに言う。
「やめろ」
短い声だった。
怒鳴りではない。
切実に近かった。
「現実側の誤差は、もう出ている」
葛西は続ける。
「ここで観測補助までやれば、助からない人間が出る。お前はそれを知っていてやるのか」
「知っています」
「なら止まれ」
「止まれません」
葛西は制御卓の図を見る。
白と赤が一本の幹に集まっている。
「お前は、下の世界の人格に触るなと言う」
葛西が言う。
「その理屈はわかる。だがその結果として、現実側で死ぬ人間が出る。そこからは逃げるな」
「逃げません」
ハザマは言った。
「消えないこととして残ります」
葛西は唇を引き結んだ。
その顔は、反対しているだけの人間のものではなかった。
本当に、現実側の人間を減らしたくない顔だった。
だからこそ、厄介だった。
『ハザマ』
榊の声が入る。
『最後に確認する』
「はい」
『残す線は何だ』
「自然に滲む線です」
ハザマは答えた。
「夢、予感、デジャヴ、妙にリアルな創作。そういう自然漏れそのものは残るなら残します」
『他は』
「読むだけの線です」
「現実側の判断補助になる観測の線。完全ではなくても、そこまでは残せるなら残す」
『焼く線は』
ハザマは、白と赤の幹を見る。
「上から人格へ触る線です」
「役職を置く。参照を切る。能力を与える。異世界への人格再配置。予測のためでも、自由のためでも、そういう介入権限は残しません」
部屋が静かになる。
白い朝の色が、制御卓の黒い面へまた滲んだ。
「いい答えだね」
軽い声。
少し楽しそうで、それでいて底が冷たい。
アナーキー側の輪郭が立つ。
顔は最後まで定まらない。
だが、ずっとこちらを見ている。
「でも、本当にやる?」
相手は言う。
「管理局からも取り上げて、こっちからも取り上げて、ついでに自分の帰り道まで焼く。そこまでして、君は何を守れるの」
ハザマは答えなかった。
代わりに、補助画面の隅に並ぶ四行を見る。
ユウト案件/終了処理
レオン案件/暫定固定
エリシア案件/参照切断
アデル案件/接続断絶
広場。
朝。
孤独。
遠い火。
切ってきた。
止めてきた。
そう呼び換えて、見ないふりをしてきた。
「何も守れないかもしれません」
ハザマは言った。
少し遅れて、自分でもその言葉の重さがわかった。
葛西が顔を上げる。
真木も、榊も、何も言わない。
「現実側の精度は落ちる」
ハザマは続けた。
「助からない人間も出るかもしれない。全部が綺麗に残るとは思っていません」
それでも、と言おうとして、一度だけ息が乱れた。
「それでも」
「予測のためでも、自由のためでも、上から誰かの人生を書き換えていい理由にはならない」
輪郭が少しだけ笑う。
だが、前より軽さが薄い。
「そっか」
アナーキー側の人物は言った。
「君が最初に見たのは、削除したあとに残るものだった。だから君は、最後にそこへ戻ると思ってた」
「戻るんじゃありません」
「じゃあ何」
ハザマは、制御卓の中心へ指を置いた。
「終わらせます」
真木の声が少しだけ硬くなる。
『実行手順を出します』
『特務官権限接続。残留照合固定。介入幹線を白から切り離して、焼却。途中で迷ったら失敗します』
「迷いません」
『本当に?』
その問いだけは、真木らしかった。
ハザマは少しだけ黙った。
怖い。
戻れないのは嫌だ。
今まで消してきた者たちが、必要な処理だったとだけは、もう言えない。
その全部を抱えたまま、答える。
「怖いです」
「でも、もう迷いません」
真木が小さく息を吐く。
『了解しました』
葛西が一歩だけ前へ出た。
「最後に言う」
葛西は言った。
「私は反対だ。現実側の損失が消えない以上、最後まで反対する」
「ええ」
「だが」
葛西はそこでほんの少しだけ声を落とした。
「綺麗事でやるな。失うものを全部見た上でやれ」
「見ています」
榊が短く言う。
『行け』
その一言だけで十分だった。
ハザマは認証を通した。
特務官権限 接続
残留照合 固定
介入幹線 展開
制御卓の中心で、赤い線が一本の幹として現れる。
管理局の役職補正。参照切断。終了処理補助。
アナーキーの侵入付与。人格再配置。違法保持。
全部がそこへ集まっている。
『今です』
真木が言う。
『焼却してください』
ハザマは幹線へ手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が少しだけ近くなる。
地球の朝。
ユウトの広場。
レオンの朝。
エリシアの孤独。
アデルの遠い火。
そして、自分の戻るはずだった場所。認証槽の白い光。冷えた肉体。まだ切れていない、細い細い線。
嫌だった。
本当に嫌だった。
アナーキー側の人物が、静かに言う。
「この世界は、君を必要としない」
ずっと冷たいまま使われてきた言葉だった。
個人を切るための言葉。
処理を正当化する言葉。
ハザマは、その幹線を掴んだまま答える。
「ええ」
朝がさらに白くなる。
制御卓の光が揺れる。
帰還認証の数値が、一気に落ち始める。
「だから」
声は自分でも思ったより静かだった。
静かで、そのぶん揺れない。
「この世界は、君たちも必要としない」
その瞬間、幹線を焼いた。
音はなかった。
だが、光だけがあった。
赤い線が白く反転し、そのまま内側から崩れていく。
管理局の権限名が一つずつ消える。
役職補正。参照切断。終了処理補助。
同時に、侵入付与。人格再配置。違法保持も消える。
受信層が揺れる。
観測整形層が。
補助出力層が一部白飛びする。
『帰還認証、落ちてます!』
真木の声が鋭くなる。
『五八、四九、三六……!』
葛西が何か叫んだ気がした。
榊も、たぶん名前を呼んだ。
アナーキー側の輪郭は、最後に少しだけ笑った。
「いいね。ちょっと残念だけど」
その声も、もう遠い。
制御卓の画面が次々に暗くなる。
だが、全部ではない。
白い線の一部は細くなりながらも残っている。夢、予感、創作、観測の痕跡。
『観測土台、残っています!』
真木が叫ぶ。
『精度は落ちるけど、全部は死んでない……!』
その言葉を最後までは聞けなかった。
ハザマの視界から、旧観測塔の壁が抜け落ちる。
代わりに、朝の街が広がる。
コンビニ。川沿い。始発前の空気。
何もかもが、少しだけ輪郭を失って、それでもまだここにある。
帰還認証の数字は、もう見えない。
見えないことが、答えだった。
*
地球側では、その存在が残った。
そして管理局側では、その肉体が残った。
白い維持槽の中で、生命反応はある。
脳波も、ゼロではない。
だが認証系は焼損し、復帰経路は閉じた。
死亡。とは断定できない。
生還。とも言えない。
処理不能。
凍結。
保留。
そういう言葉だけが残った。
*
地球の朝は、静かだった。
交差点の信号が変わる。
始発が動く。
誰かがあくびをする。
ビルの大型ビジョンは普通のニュースを流している。文字の乱れはまだ少しあるが、塔はもう混ざらない。
川沿いのベンチに、男が一人座っていた。
自分がどこから来たのか、うまく説明できない。
何を失ったのかも、全部ははっきりしない。
ただ、風の変わり目とか、人の言葉の端とか、妙な既視感には少しだけ敏い。
胸の奥には、空白がある。
だが、その空白は、もう管理番号ではなかった。
この世界は、誰か一人を必要としてはいない。
だから切っていいのではない。
この世界は、管理する側も、壊す側も、触る側も必要としていない。
だから、もう誰の人生も、勝手に編集欄にはならない。
朝の光が、川面で少しだけ揺れた。




