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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第9章 f正解の世界

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第5話

黒い侵入体が消えたあとも、広場はすぐには元に戻らなかった。


 焚き火はまだ燃えている。

 焼きかけの肉も、倒れた木杯も、そのまま残っている。けれど祝宴だけが、そこからきれいに抜き取られていた。


 村人たちは互いの顔を見ていた。

 何が起きたのか説明できる者はひとりもいない。ただ、自分たちの前にあった夜が、途中から別のものに変わってしまったことだけはわかる。


 ユウトは立ち上がろうとして、少しよろめいた。


 右手に抱えていた子どもはもう母親の腕に戻されている。だが自分の手のひらには、まだ焼けるような痛みが残っていた。見れば、皮膚が赤くただれ、水ぶくれができかけている。


 治らない。


 その単純な事実が、どんな罵声よりも重かった。


「ユウト様……」


 リリサがそばにしゃがみ込む。

 彼女の声はやさしい。けれどそのやさしさの中に、昼までとは違うためらいが混じっているのを、ユウトは聞き取ってしまった。


「手を、見せてください」

「……平気だ」

「平気じゃありません」


 言いながらも、彼女はすぐには触れてこない。

 前なら迷わず手を取っていただろうに、その一瞬の空白が、ユウトにはよくわかった。


 広場の向こうで、昼に黒角熊にやられた傭兵のひとりが呻いた。肩口を裂かれていた男だ。戦いの直後は気を失っていただけだったが、今は熱を持ち始めているらしい。仲間が慌てて支えている。


「勇者様、治癒を……!」


 誰かがそう言いかけて、言葉が止まった。


 ユウトも、その声の先を見た。

 前なら、考えるまでもなく立っていた。近づいて、傷に手をかざして、白い光を流し込めば済んだ。何度もそうしてきた。


 ユウトは焼けた手をかばいながら、傭兵の前まで歩いた。


 村人たちの視線が集まる。

 期待と、不安と、まだ捨てきれない信頼。


 その重さに押されるように、ユウトは膝をついた。


「……大丈夫だ」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 傭兵の肩へ左手をかざす。

 いつものように意識を集中する。傷を塞ぐ光を思い描く。祈る。呼びかける。何に対してかも曖昧なまま、それでも何かが降りてくるのを待つ。


 何も起きなかった。


 広場の空気が、ほんの少しだけ動いた。


 ユウトはもう一度、強く念じる。

 治れ。塞がれ。いつもみたいに。


 何も起きない。


 傭兵の荒い息づかいだけが聞こえる。

 自分の手は熱を持ち、痛みでわずかに震えていた。


「……ユウト様?」


 リリサの声が、今度ははっきりと不安を帯びる。


 ユウトは顔を上げられなかった。

 できない。

 治せない。


 それがこの場の全員に伝わるまで、そう時間はかからなかった。


「下がってください」


 横から入った声で、空気が切り替わる。


 ハザマだった。


 彼はユウトの横にしゃがみ込むと、傭兵の傷を一目見ただけで言った。


「深いですが致命傷ではない。布を裂いて圧迫を。煮沸した水があれば持ってきてください。あと、樹皮酒は飲ませないほうがいい」

「で、でも……」

「熱が上がっている。縫合の前に洗うべきです」


 村人たちは一瞬ためらった。

 けれど、いまこの場で一番迷いなく言葉を出しているのはハザマだった。結局、二人が走り、女たちが布を持ってきて、村長が井戸の脇の竈へ向かった。


 ハザマは端末を使わない。

 手近な布を取って傷口の上を押さえ、出血の位置だけを変えさせる。動きに無駄がなかった。


 ユウトはその手元を見ていた。


 この男は、自分を消しに来たはずだった。

 それなのに今は、村人の命を落とさないために当たり前の顔で動いている。


「……何なんだよ、おまえ」


 かすれた声でユウトが言う。


 ハザマは答えない。

 布を押さえたまま、傷の具合を見ている。


「俺を処分しに来たんだろ」

「はい」

「じゃあ何で」

「住人保護は業務範囲です」


 その言い方が、逆に腹立たしかった。

 優しさじゃない。善意ですらない。ただ業務だと言われた気がして、ユウトは唇を噛む。


 けれど、その業務で救われる命があるのも事実だった。


 村長が戻ってくる。

 湯気の立つ鍋と、清潔そうな布を持って。


 ハザマはそれを受け取り、短く指示を飛ばす。

 縫い針を火であぶれ。押さえる人間は二人。傷病者の腕を固定しろ。気絶させるほど殴るな。


 村人たちが動き始める。

 最初は恐怖で固まっていたのに、やることを与えられると少しずつ現実に戻っていく。広場に残っていた混乱が、応急処置の慌ただしさに上書きされていった。


 その流れの外に、ユウトだけがいた。


 立ち上がりかけたところで、近くの子どもが母親の後ろへ隠れた。

 たぶん無意識だった。怯えているのは、さっきの空から落ちてきたものに対してかもしれない。ユウト自身に対してではないのかもしれない。


 それでも、胸の奥に鈍いものが沈んだ。


 視線が合った女が、すぐに目を逸らす。

 若者たちはユウトを見ているが、昼までの憧れとは違う顔をしている。裏切られたわけではない。ただ、何者なのかわからなくなっている。


 そのずれが、ユウトにはいちばんきつかった。


「……俺は」


 言いかけて、言葉が見つからない。


 自分は勇者だ、と言うには、さっき剥がされたものが多すぎた。

 ただの工藤悠斗だ、と言うには、この世界で積み上げてきたものが重すぎる。


 ハザマが処置を終えて立ち上がる。


「今夜は高熱が出る可能性があります。朝まで誰かが見ていてください」

「……あ、あんたは」

「必要ならまた見ます」


 村長が喉を鳴らし、何か言いづらそうにしながら口を開く。


「あの、旅の方……いや、その……ハザマ殿、と申されたか」

「はい」

「ユウト様は、その……何をしたのです」


 まっすぐな問いだった。


 広場の空気がまた少し静かになる。

 皆が聞きたいのはそれだ。勇者は勇者なのか。自分たちは何を見てきたのか。この夜の前と後ろで、何が変わってしまったのか。


 ハザマは数秒だけ黙った。


「あなた方が裁くべき案件ではありません」


 結局、そう答えた。


「ですが」

「彼がこの村を守ったこと自体は、消えません」


 その一言に、リリサが顔を上げる。

 ユウトも、思わずハザマを見る。


「ただし、今夜以降は以前と同じではいられない」


 広場にいる誰もが、その言葉の意味を正確には理解できなかった。

 それでも十分だった。前のままではいられないと、すでに全員が感じていたからだ。


「……俺は逃げない」


 ユウトが言った。


 声は弱っていたが、はっきりしていた。


「おまえが何者でもいい。まだ終わってないなら、逃げない」


 ハザマはユウトを見る。

 焼けた手、落ちた聖剣、失われた光。なのにその目だけは、完全には折れていない。


 厄介だ、とハザマは思う。

 こういう対象は、処理だけなら単純ではない。


「逃走を前提に監視していました」

「感じ悪いな」

「事実です」


 ユウトは乾いた笑いを漏らしかけて、うまくできなかった。


「……で、どうする」

「夜明けまで待ちます」


 ユウトが眉をひそめる。


「住人の精神動揺が強い。この状態で処理に入ると、残留違和感が濃くなる」

「何を言ってるか半分もわからない」

「わからなくて構いません」


 ハザマは広場の外れ、村の小さな集会小屋を見た。


「あなたは夜明けまで、あそこで待機してください」

「拘束しないのか」

「必要ならします」

「必要じゃないと?」

「いまのあなたでは、この村を出る前に倒れる」


 ユウトは反射的に言い返そうとして、できなかった。

 その通りだったからだ。補正の消えた身体は重く、熱もある。焼けた手も脈打っている。


 リリサが、おそるおそる言う。


「……私が、付き添います」

「だめです」


 ハザマが即答した。


 彼女は傷ついた顔になる。

 ユウトも睨む。


「何でだよ」

「あなたにとっても、彼女にとってもよくない」

「勝手に決めるな」

「決めます」


 ハザマの声は低いままだったが、そこだけ少し硬かった。


「今夜は距離を置いたほうがいい」


 リリサが何か言いかけて、飲み込む。

 ユウトもすぐには反論できない。


 距離を置く。

 その一言が、さっきから広場じゅうで起きていることを、いちばん正確に言い当てていたからだ。


 ユウトはしばらく黙っていたが、やがて落ちた聖剣を見た。

 拾おうとして、少し迷う。

 それから結局、左手で柄をつかみ、重そうに持ち上げた。


 もう神に選ばれた剣には見えない。

 ただの、よくできた武器だった。


「……夜明けまで、だな」

「はい」


 ハザマは短く答える。


 ユウトは集会小屋のほうへ歩き出す。

 誰も道を塞がない。

 けれど、誰も前みたいに「勇者様」とは呼ばなかった。


 その沈黙の中を歩いていく背中を、村人たちは見送る。

 助けてもらった記憶は消えていない。感謝も残っている。だが、その感謝にそのまま寄りかかることが、もうできなくなっていた。


 ハザマはその空気を確認し、端末をひらく。


 住人群の心理残響。

 違和感濃度。

 対象との結びつき。

 処理許容帯。


 数字の並びを見たところで、広場の端から小さな声がした。


「……ねえ」


 振り向くと、火の粉から助けたあの子どもが、母親の陰からこちらを見ていた。


「勇者さま、わるいひと、なの」


 ハザマは答えなかった。


 答えられない、ではなかった。

 その問いに対して、すぐ使える正しい言葉が、自分の中にないと知っていた。


 代わりに、子どもの母親がその肩を抱いた。

 何も言わずに、ただ連れていく。


 ハザマは端末を閉じる。


 夜明けまで、あと数時間。

 処理の前に、その数時間がある。


 短いはずなのに、少し長く感じられた。

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