第5話
黒い侵入体が消えたあとも、広場はすぐには元に戻らなかった。
焚き火はまだ燃えている。
焼きかけの肉も、倒れた木杯も、そのまま残っている。けれど祝宴だけが、そこからきれいに抜き取られていた。
村人たちは互いの顔を見ていた。
何が起きたのか説明できる者はひとりもいない。ただ、自分たちの前にあった夜が、途中から別のものに変わってしまったことだけはわかる。
ユウトは立ち上がろうとして、少しよろめいた。
右手に抱えていた子どもはもう母親の腕に戻されている。だが自分の手のひらには、まだ焼けるような痛みが残っていた。見れば、皮膚が赤くただれ、水ぶくれができかけている。
治らない。
その単純な事実が、どんな罵声よりも重かった。
「ユウト様……」
リリサがそばにしゃがみ込む。
彼女の声はやさしい。けれどそのやさしさの中に、昼までとは違うためらいが混じっているのを、ユウトは聞き取ってしまった。
「手を、見せてください」
「……平気だ」
「平気じゃありません」
言いながらも、彼女はすぐには触れてこない。
前なら迷わず手を取っていただろうに、その一瞬の空白が、ユウトにはよくわかった。
広場の向こうで、昼に黒角熊にやられた傭兵のひとりが呻いた。肩口を裂かれていた男だ。戦いの直後は気を失っていただけだったが、今は熱を持ち始めているらしい。仲間が慌てて支えている。
「勇者様、治癒を……!」
誰かがそう言いかけて、言葉が止まった。
ユウトも、その声の先を見た。
前なら、考えるまでもなく立っていた。近づいて、傷に手をかざして、白い光を流し込めば済んだ。何度もそうしてきた。
ユウトは焼けた手をかばいながら、傭兵の前まで歩いた。
村人たちの視線が集まる。
期待と、不安と、まだ捨てきれない信頼。
その重さに押されるように、ユウトは膝をついた。
「……大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
傭兵の肩へ左手をかざす。
いつものように意識を集中する。傷を塞ぐ光を思い描く。祈る。呼びかける。何に対してかも曖昧なまま、それでも何かが降りてくるのを待つ。
何も起きなかった。
広場の空気が、ほんの少しだけ動いた。
ユウトはもう一度、強く念じる。
治れ。塞がれ。いつもみたいに。
何も起きない。
傭兵の荒い息づかいだけが聞こえる。
自分の手は熱を持ち、痛みでわずかに震えていた。
「……ユウト様?」
リリサの声が、今度ははっきりと不安を帯びる。
ユウトは顔を上げられなかった。
できない。
治せない。
それがこの場の全員に伝わるまで、そう時間はかからなかった。
「下がってください」
横から入った声で、空気が切り替わる。
ハザマだった。
彼はユウトの横にしゃがみ込むと、傭兵の傷を一目見ただけで言った。
「深いですが致命傷ではない。布を裂いて圧迫を。煮沸した水があれば持ってきてください。あと、樹皮酒は飲ませないほうがいい」
「で、でも……」
「熱が上がっている。縫合の前に洗うべきです」
村人たちは一瞬ためらった。
けれど、いまこの場で一番迷いなく言葉を出しているのはハザマだった。結局、二人が走り、女たちが布を持ってきて、村長が井戸の脇の竈へ向かった。
ハザマは端末を使わない。
手近な布を取って傷口の上を押さえ、出血の位置だけを変えさせる。動きに無駄がなかった。
ユウトはその手元を見ていた。
この男は、自分を消しに来たはずだった。
それなのに今は、村人の命を落とさないために当たり前の顔で動いている。
「……何なんだよ、おまえ」
かすれた声でユウトが言う。
ハザマは答えない。
布を押さえたまま、傷の具合を見ている。
「俺を処分しに来たんだろ」
「はい」
「じゃあ何で」
「住人保護は業務範囲です」
その言い方が、逆に腹立たしかった。
優しさじゃない。善意ですらない。ただ業務だと言われた気がして、ユウトは唇を噛む。
けれど、その業務で救われる命があるのも事実だった。
村長が戻ってくる。
湯気の立つ鍋と、清潔そうな布を持って。
ハザマはそれを受け取り、短く指示を飛ばす。
縫い針を火であぶれ。押さえる人間は二人。傷病者の腕を固定しろ。気絶させるほど殴るな。
村人たちが動き始める。
最初は恐怖で固まっていたのに、やることを与えられると少しずつ現実に戻っていく。広場に残っていた混乱が、応急処置の慌ただしさに上書きされていった。
その流れの外に、ユウトだけがいた。
立ち上がりかけたところで、近くの子どもが母親の後ろへ隠れた。
たぶん無意識だった。怯えているのは、さっきの空から落ちてきたものに対してかもしれない。ユウト自身に対してではないのかもしれない。
それでも、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
視線が合った女が、すぐに目を逸らす。
若者たちはユウトを見ているが、昼までの憧れとは違う顔をしている。裏切られたわけではない。ただ、何者なのかわからなくなっている。
そのずれが、ユウトにはいちばんきつかった。
「……俺は」
言いかけて、言葉が見つからない。
自分は勇者だ、と言うには、さっき剥がされたものが多すぎた。
ただの工藤悠斗だ、と言うには、この世界で積み上げてきたものが重すぎる。
ハザマが処置を終えて立ち上がる。
「今夜は高熱が出る可能性があります。朝まで誰かが見ていてください」
「……あ、あんたは」
「必要ならまた見ます」
村長が喉を鳴らし、何か言いづらそうにしながら口を開く。
「あの、旅の方……いや、その……ハザマ殿、と申されたか」
「はい」
「ユウト様は、その……何をしたのです」
まっすぐな問いだった。
広場の空気がまた少し静かになる。
皆が聞きたいのはそれだ。勇者は勇者なのか。自分たちは何を見てきたのか。この夜の前と後ろで、何が変わってしまったのか。
ハザマは数秒だけ黙った。
「あなた方が裁くべき案件ではありません」
結局、そう答えた。
「ですが」
「彼がこの村を守ったこと自体は、消えません」
その一言に、リリサが顔を上げる。
ユウトも、思わずハザマを見る。
「ただし、今夜以降は以前と同じではいられない」
広場にいる誰もが、その言葉の意味を正確には理解できなかった。
それでも十分だった。前のままではいられないと、すでに全員が感じていたからだ。
「……俺は逃げない」
ユウトが言った。
声は弱っていたが、はっきりしていた。
「おまえが何者でもいい。まだ終わってないなら、逃げない」
ハザマはユウトを見る。
焼けた手、落ちた聖剣、失われた光。なのにその目だけは、完全には折れていない。
厄介だ、とハザマは思う。
こういう対象は、処理だけなら単純ではない。
「逃走を前提に監視していました」
「感じ悪いな」
「事実です」
ユウトは乾いた笑いを漏らしかけて、うまくできなかった。
「……で、どうする」
「夜明けまで待ちます」
ユウトが眉をひそめる。
「住人の精神動揺が強い。この状態で処理に入ると、残留違和感が濃くなる」
「何を言ってるか半分もわからない」
「わからなくて構いません」
ハザマは広場の外れ、村の小さな集会小屋を見た。
「あなたは夜明けまで、あそこで待機してください」
「拘束しないのか」
「必要ならします」
「必要じゃないと?」
「いまのあなたでは、この村を出る前に倒れる」
ユウトは反射的に言い返そうとして、できなかった。
その通りだったからだ。補正の消えた身体は重く、熱もある。焼けた手も脈打っている。
リリサが、おそるおそる言う。
「……私が、付き添います」
「だめです」
ハザマが即答した。
彼女は傷ついた顔になる。
ユウトも睨む。
「何でだよ」
「あなたにとっても、彼女にとってもよくない」
「勝手に決めるな」
「決めます」
ハザマの声は低いままだったが、そこだけ少し硬かった。
「今夜は距離を置いたほうがいい」
リリサが何か言いかけて、飲み込む。
ユウトもすぐには反論できない。
距離を置く。
その一言が、さっきから広場じゅうで起きていることを、いちばん正確に言い当てていたからだ。
ユウトはしばらく黙っていたが、やがて落ちた聖剣を見た。
拾おうとして、少し迷う。
それから結局、左手で柄をつかみ、重そうに持ち上げた。
もう神に選ばれた剣には見えない。
ただの、よくできた武器だった。
「……夜明けまで、だな」
「はい」
ハザマは短く答える。
ユウトは集会小屋のほうへ歩き出す。
誰も道を塞がない。
けれど、誰も前みたいに「勇者様」とは呼ばなかった。
その沈黙の中を歩いていく背中を、村人たちは見送る。
助けてもらった記憶は消えていない。感謝も残っている。だが、その感謝にそのまま寄りかかることが、もうできなくなっていた。
ハザマはその空気を確認し、端末をひらく。
住人群の心理残響。
違和感濃度。
対象との結びつき。
処理許容帯。
数字の並びを見たところで、広場の端から小さな声がした。
「……ねえ」
振り向くと、火の粉から助けたあの子どもが、母親の陰からこちらを見ていた。
「勇者さま、わるいひと、なの」
ハザマは答えなかった。
答えられない、ではなかった。
その問いに対して、すぐ使える正しい言葉が、自分の中にないと知っていた。
代わりに、子どもの母親がその肩を抱いた。
何も言わずに、ただ連れていく。
ハザマは端末を閉じる。
夜明けまで、あと数時間。
処理の前に、その数時間がある。
短いはずなのに、少し長く感じられた。




