第4話
落ちてきたそれは、人の形をしていた。
ただし、人間ではなかった。
夜空の亀裂から滑り出た黒い影は、途中までは細身の男に見えた。長い手足、外套のように揺れる輪郭、頭部らしき位置。だが地面に近づくにつれて、その形はぶれた。肩幅が狭まり、首が伸び、指の数が一瞬だけ増える。輪郭が、決めきれていない。
ハザマは端末を水平に払った。
「全員、伏せてください」
声は低いのに、広場じゅうに通った。
村人たちは反射的に従えなかった。何が起きているのか理解できない。祝宴の最中、空から何かが降ってきて、恩人の勇者が白くなっていて、見知らぬ男が命令している。判断できるはずがない。
影が着地する。
音はなかった。
その代わり、焚き火の火が横に倒れた。広場の中央だけ空気が抜けたみたいに揺れ、誰かが悲鳴を上げる。子どもが一人、尻もちをついた。
ハザマは舌打ちせずに前へ出る。
認識阻害の範囲を広げ、住人の視界から落下体の詳細をぼかす。全部は消せない。相手も同系統の処理を使っている。
黒い影がゆっくりと顔を上げた。
目鼻はある。だが配置が少しずつずれている。口角だけが妙に綺麗で、笑っている形だけが先に決まっていた。
「……お行儀がいいねえ、管理局」
さっき空から聞こえていた声と同じだった。
ただし今は、亀裂の向こうからではなく、目の前の肉声に近い。
「おまえが降りてくる必要はなかったはずだ」
ハザマが言う。
「必要はないよ。趣味だ」
影は軽く両手を広げた。
その指先が、一瞬だけノイズになって崩れる。
「初めまして、勇者くん。こっちはちゃんと顔を見せる派なんだ。信頼って大事だろ?」
ユウトは剣のない右手を強く握っていた。
顔色はまだ悪い。だが、目だけは相手を見ている。
「……おまえも、俺のことを知ってるのか」
「もちろん。三年前、夜の交差点、雨、トラック、乾いた終わり。そこから先を、君はよくやったよ」
ユウトの肩が強張る。
ハザマは視線を一瞬だけ横へ流した。
リリサが、立ったまま動けずにいた。彼女だけじゃない。村人たちの多くが腰を抜かし、何が見えているのかわからない顔で、ただ恐怖だけを感じ取っている。
この状況が長引くのはまずい。
「ここは住人接触域だ。雑談なら別の層でやれ」
「冷たいなあ。せっかく勇者くんに選択肢を見せに来たのに」
影が一歩、ユウトへ近づく。
その瞬間、ハザマは端末を立てた。
空間に薄い矩形が走る。透明な壁ではない。定義の線だ。
影の膝が、見えない段差に引っかかったように止まる。
「へえ」
影が笑う。
「通行制限?」
「違う」
ハザマは短く返す。
「この村の祝祭空間は、招かれた者だけを中心へ通す」
「そんなルール、今つくっただろ」
ハザマはもう答えなかった。
影の口元が、今度は本当に楽しそうに歪んだ。
アナーキー・コードの連中は、こういうやり方を嫌う。
世界の穴をこじ開けて好きに混ぜる。既存の意味を汚し、境界を曖昧にする。
逆にハザマは、そこにある定義を拾い、組み直し、閉じる。
影が肩をすくめる。
「でもさ、村人たちが勇者くんの客人だと認識したら?」
「その前に終わらせます」
「へえ」
影の輪郭がふっと細くなった。
次の瞬間、姿が消える。
右だ、とハザマは判断した。
予測ではなく、ノイズの抜け方でわかる。影は井戸の脇へ移動し、そこにうずくまっていた子どもの腕をつかもうとした。
ハザマは一歩で割って入る。
影の手首をつかむ――ことはしない。
肉体接触は最小限に抑える規定がある。代わりに、影と子どものあいだへ端末を滑り込ませた。
「現地未成年への直接接触は禁止」
言葉と同時に、端末から白い罫線が走る。
影の指先がぶつかった瞬間、紙でできていたみたいに裂けた。黒いノイズが散る。子どもは泣き声を上げ、後ずさる。
「おいおい」
影は裂けた手を見て笑った。
「住人保護、ちゃんとやるんだ」
「当然だ」
「じゃあ、勇者くんには冷たいのに?」
「対象が違う」
ユウトが、そのやりとりを見ていた。
わずかだが、目の色が変わる。
混乱のなかで初めて、ハザマが村人を守る側に立っていると気づいた顔だった。
だが理解まではいかない。
行く前に、影がまた口を開く。
「ほら勇者くん、見たか。こいつは守るよ。守るけど、選ぶ。守る価値があると認めたものだけを、整然と」
「黙れ」
ハザマが言うより早く、今度はユウトが低く吐いた。
影は目を細める。
「へえ。さっきよりいい顔になった」
「……村の人には手を出すな」
「出されたくないなら、どうする?」
ユウトは答えない。
答えられない。力は戻っていない。聖剣は地面に落ちたままだ。
それでも、彼は一歩前へ出た。
さっきのような英雄の一歩ではない。
重く、怖く、迷いながらも、それでも前に出る人間の歩幅だった。
影はその一歩を見て、ひどく満足そうに笑う。
「いいね。そういうのだよ。加護が剥がれて、補正が剥がれて、それでもなお何かを守ろうとする。それが見たかった」
「何が目的だ」
ハザマが問う。
「回収か。勧誘か」
「挨拶と観察。今日はそれだけ」
影はそう言って、落ちていた聖剣に視線を向けた。
「それに、今の勇者くんはまだ柔らかい。折るにも拾うにも、早すぎる」
ハザマは端末を縦に構える。
排除に切り替えるべきだった。長く置くほど住人側への汚染が増える。
「対象外個体として処理する」
「できるならね」
影の輪郭がまた揺らぐ。
さっきまで人間の形に近かったものが、今度は逆に崩れ始めた。肩と腰の位置がずれ、腕が細く長く伸び、影そのものがこの世界の形をうまく保てなくなっている。
安定していない。
長期滞在用の器ではなく、短時間の侵入体だ。
なら切れる。
「この世界に実体を持つ以上、質量がある」
ハザマは淡々と言った。
「質量があるなら、損壊する」
白い線が、影の足元から立ち上がる。
影の片脚が、根元から崩れた。
「うわ」
「さらに、この村の祝宴は“救済の完了”を前提に成立している」
「嫌な言い方だな」
「未解決の脅威は、その中心に居続けられない」
今度は胴がひび割れる。
影は笑いながら二、三歩後退した。崩れているのに、妙に余裕がある。
「なるほど。今日は村の意味を使うんだ」
「十分だろう」
「うん。十分」
そのとき、リリサの近くで子どもが転んだ。
焚き火の倒れた薪が転がり、火の粉が広がる。影が何かしたわけではない。ただ誰もが混乱し、足場を失っていただけだ。
だが、火は火だ。
ユウトが反射的にそちらへ走った。
補正を失った身体は遅い。
それでも彼は飛び込み、子どもを抱えて転がり、燃えかけた布を手で払った。手のひらが焼ける。痛みに顔をしかめる。それでも腕は離さない。
ハザマはその動きを横目で見た。
影も見ていた。
「ほらな」
影が小さく言う。
「その動きは、コードじゃない」
ハザマは返さない。
影の身体は胸元から大きく裂け、向こうの暗い亀裂がのぞく。もう長くはいられない。
「じゃあ今日はここまでだ、勇者くん」
影は最後にユウトを見る。
「君が何者か。誰のものでもない答えが欲しくなったら、また呼ぶといい」
「待て」
ハザマが言う。
だが影は止まらない。
「それと特務官。君、少し遅いね」
「何の話だ」
「検出の話。三年は空きすぎる」
その一言だけを残して、影は後ろ向きに亀裂へ倒れ込んだ。
水に沈むみたいに、音もなく消える。上空のノイズも一緒に閉じ、広場に夜の冷たさだけが戻ってきた。
静寂。
焚き火の爆ぜる音が、ようやく現実に追いつく。
ハザマは端末を下ろした。
周囲の住人たちは、何が終わったのかもわからないまま息を呑んでいる。説明できない喪失感と恐怖だけが残っていた。
ユウトは子どもを抱えたまま、地面に片膝をついている。
手のひらは赤く焼けていた。加護が消えたせいで、治らない。
リリサが駆け寄ろうとした。
ハザマは一瞬だけ止めるか迷って、止めなかった。
彼女はユウトのそばに膝をつき、「大丈夫ですか」と震える声で言う。ユウトは答えず、ただ自分の焼けた手を見ていた。聖剣の光もない。自動治癒もない。ただ熱と痛みだけがそこにある。
ハザマはその様子を見下ろす。
アナーキーの言葉の一部は不快だったが、事実も混じっている。
検出が遅すぎた。三年。通常ならありえない。
端末の対象ログを開き直す。
そこにはまだ、最初の識別情報が残っていた。
違法侵入。外部人格。汚染データ。処理対象。
そして、認証欄の下。
ごく短い遅延記録。
――一次検出ログ:欠損
――再走査記録:欠損
ハザマの視線が、そこで止まる。
欠損。
この手の表示は珍しくない。
だが、今このタイミングで見るには、少しだけ悪かった。
ユウトがゆっくり顔を上げる。
焼けた手を庇いながら、それでもハザマを睨んだ。
「……まだ終わってないんだろ」
ハザマは端末を閉じた。
「はい」
短く答える。
「終わっていません」
そして自分でも整理しきれないわずかな引っかかりを抱えたまま、次の処理を考え始める。




