携帯電話の忘れ物 後
ああ、着いてしまいましたよ、ハンバーガー屋さんクララに。
移動が2時間もあると思った電車は、乗ってしまえばあっという間で。
腕時計の針は、2時20分を指している。
どうしよう、どうしよう。
行く?行く?行かない?いや、行かないって何。行くに決まってるでしょ!
ああ、困ったなあ。なかなか勇気が出ない。
・・・木下さん、午前中しか店にいないって言ってたけど・・・。
あんなに会ってみたいと思っていたのに、今は会ったらどうしよう、とびくびくしてる。
会うのが怖い。木下さんを知るのが怖い。
好きになったのか、やっぱり好きじゃないのか、自分の気持ちを知るのも怖い。
・・・でも、怖いからって、いつまでもここにいてもどうしようもないんだよね。
「・・・携帯をもらったらすぐに帰ろう」
きっと、木下さんは、携帯を私が取りに来ることをお店の人に伝えているはずだから。
きっと、木下さんは午前中で仕事を終えて店にはいないはずだから。
お礼を言って、すぐに帰ろう。
そう思って、赤いドアを押した。
カランカランと軽やかに鈴が鳴る。
お店はというと、ちょうどデートの小休憩なのか、カップルで賑わっていた。
やっぱり可愛い店内。
大きな観葉植物の緑、ソファの赤と青、クッションの黄色とか、色がいっぱいあって、可愛い物好きな女の子はきっとお気に入りの場所になること間違いなしのお店。
今日は、でもその可愛い空間には入らないで、レジで用事を済ませて帰るだけ。
レジの近くに行くと、すぐそこのショーケースの中に並べられたケーキが目に入った。
確か、木下さんのお父さんが作っているんだよね。
・・・ああ、考えるのは木下さんのことばかり。
ふう、とため息をつく。
ああ、いけないいけない。
ぺしぺしと顔を叩いて、レジ近くの店員さんに声を掛けようと顔を上げた。
「・・・・・・あ」
目が合ったのは、背の高い男の人。ううん、男の・・・子?
にこりと笑って、近づいてくる。
知らない人だけど、・・・私、知ってる・・・。
「いらっしゃいませ」
「あ、・・・・・・」
「お待ちしてましたよ、笹波さん」
「・・・・・・木下さん、ど、ど、」
「電話を今持ってきますから、椅子に座ってお待ちくださいね」
さらっとそう言いながら、見るからに挙動不審だろう私をその可愛い空間へ連れて行く。
私を、奥のソファに座らせて、すたすたと店の奥へ行ってしまった。
「・・・・・・」
どうして分かったんだろう、私だって。
でも。
私、私も、一目で、分かりましたよ、木下さんのこと。
声しか、知らなかったはずなのに。
あ、木下さんだ・・・って思ったんだもん。
不思議。
どうしよう、どうしよう、どうして、戻ってきたらなんて言おう、私、あ、でもまずお礼言わなきゃだ、それにわざわざお休みのところ出てきてくれたんだよね、そのお礼も言って、あと、ああ、携帯ももらって・・・
ぐるぐるぐるぐる、思考がまとまらない。
緊張のためか、手に汗がにじむ。
どうして、どうして、どうして、とどうしよう、ばっかり。
木下さんは、何を考えてるんだろう。
コト、という音でハッと我に返る。
目の前には、ミルクの入った紅茶と、可愛いお皿にのった・・・洋なしのタルト。
「・・・これ・・・」
「食べたいって言っていたでしょう?」
「・・・あ・・・」
最初の日、言った。
食べたかったけど、食べられなくて。携帯を取りに来たら食べるって。
覚えていてくれたんだ。
「俺のおごりです」
「え、そ、そんな」
「遠くまで来てくれたのだから。せっかくだし、食べていってください」
「で、でも・・・」
美味しそう、美味しそうだけど、どうしよう。
本当にもらって食べていいのかな。
ううん、とずっとうなりながら顔を上げると、木下さんが目の前のソファに腰掛けているところだった。
おおっと、木下さん座っちゃうんだ。
ということは、すぐ携帯もらってお礼を言って帰る予定は変更せざるを得ないらしい。
お礼以外にも、きっと何か話さなきゃいけないよね、何か会話しなきゃいけないよね。
こんなことなら、ちゃんと何話そうか考えてくれば良かった。
二時間も電車に乗ってたのに、私ったらあの時何考えてたんだっけ?
もっと有効活用すれば良かった!
じゃあまずこういう時は、天気からだよね、ええと、何だっけ、本日はお日柄も良く?
そんな、お見合いじゃあるまいし!
「ほら、食べる」
「は、はいっ」
はっと考え事から呼び戻されて思わず返事をすると、木下さんがふっと吹き出した。
ああ、電話越しではこんな顔で笑っていたんだ。
なんだか恥ずかしくなって、下を向くと、小さなフォークが目に入った。
じゃあ・・・ここは素直にいただいちゃおうかな。
「い、いただきます」
「どうぞ」
そのフォークをおそるおそるとって、さくりとタルトに刺す。
わあ、中にも洋なしがいっぱい詰まってるんだ。美味しそう・・・。
木下さんの視線に緊張して手が震えそうになりながら、一口、口に運ぶと、口の中に洋なしの香りがふわりと広がった。
洋なしはジューシーだし、とても香ばしくて、甘さもちょうど良く。
「・・・木下さん、おいしいです!」
「それは良かった」
木下さんは、ほっとしたような笑顔を見せながら、返事を返してくれた。
ああ、私・・・。
私、木下さんのこと、好きなんだ。
その笑顔を見た瞬間、あんなに混乱していた気持ちがぱっと澄み渡った。
だって、木下さんと会えて、声が聞けて、笑ってくれて、とても嬉しい。
木下さんの笑顔に、とても安心する。
好きだと自覚すると、今までそう思うことを恐れていたのに、素直に受け止めることができた。
でも・・・だよ?好きになったら、どうすればいいんだろう。
もしかしたら、彼女がいるかもしれない。
そうでなくたって、電話をして1週間、出会ってまだ20分、友だちでも知り合いでもなくて、ただの客と店員さんの関係なのに。
この気持ちを知ったら、木下さんはどう思うだろうか。
「・・・笹波さん、今日、携帯もらってすぐ帰るつもりだったでしょう」
「・・・え、と」
「それも、俺のことを呼ばずに。じゃない?」
「・・・・・・」
「別に、責めてるんじゃないよ。昨日も、ずっと申し訳ない、迷惑、とか言っていたけれど・・・」
「だ、だって、それは、お休みのところ出てきてもらうなんて・・・」
そうでしょう?それは、誰だって気にするところだと思うんだけど・・・。
一人のお客さんにそうやって気を遣いまくっていたら、何十人、何百人もいるお客さんと接していたら、体も心も疲れて持たないよ、木下さん。
そう伝えると、木下さんは困ったように笑った。
その笑い方は、なんだか私も困ってしまう。困らせたいわけじゃないのに。
「笹波さんにとっては、俺はただの店員?」
「え?」
「・・・そうやって人のことを気にするのは、いいところでもあって、悪いところでもあるよ、笹波さん」
「・・・・・・?」
「そういうこと全く気にしない人も困るけど、気にしすぎるのも困る」
「・・・・・・それは、」
「俺が、君に会いたいとは思わなかった?・・・ただの店員としてじゃなくて、一人の人間として、君に」
「・・・・・・。え?」
知らずうつむいていた顔を上げると、苦笑した木下さんの顔があった。
俺が、君に会いたいとは思わなかった?
・・・え?どういうこと?
「一週間電話して、笹波さんに会ってみたいなあと思っていたよ。なのに、黙っていなくなろうとするなんて、ひどいよ、笹波さん」
「だって、だってそれは、その」
「俺は君にとって、ただの店員だから?別に俺に会わなくても、他の店員が携帯を返してくれれば良かった?それとも俺に会うのが嫌だった?」
「そんなことないです!そんなことじゃなくて・・・」
そんなことじゃないよ。
木下さんのこと、好きなのか好きじゃないのか分からなくて。
声しか知らない木下さん。それが、実際に会って、顔とか知ってしまったら、私にとって現実の人になってしまう。
それがどこか怖くて。
緊張してぶるぶるして、さらにフォークを握りしめて赤くなった手に、大きな手が重なる。
吃驚して、また顔を上げると、木下さんはまだ困ったように笑っていた。
ああ、だからそんな顔しないでください。
「一週間電話したでしょう?電話でも言ったけど、俺、電話が楽しかったよ。12時が待ち遠しくなるくらいにはね」
「・・・・・・」
「でも、笹波さんのこと、俺、何も知らないんだよね」
「それは、わ、私も・・・」
「そう。それで、俺は君のことをもっと知りたいと思ってる。電話もまたしたいし、君がよければ、会って話もしたい」
「・・・・・・そ、」
「笹波さんは、俺のことどう思ってる?」
「えあ、え、そ、えと、その」
どう思ってるか、なんて。
そんな、知りたいって言われても、困る、困るよ、木下さん。だって自覚したばかりだし!
驚きと恥ずかしさで言葉が出てこない。
手、手も離れてないよ、木下さん!
ど、どうするの、どうするのこれ!私、もう限界だよ!お父さん以外の男の人に触られたのだって初めてなんだよ!
「ねえ、俺を知るのは、嫌?」
私の顔をのぞき込む。ああ、もう。
「そそっ、そんなことないです!」
「そう?」
「そう!だって、だって、彼女もいるかもしれないしそうしたら迷惑だろうし私の気持ちなんてもらっても困るだろうし木下さんのこと知るの怖いし好きだって自覚するのだって怖かったし!」
「え?」
「あ・・・・・・」
だめだ。
まだ掴まれていた手を振り払って、無我夢中でお店を飛び出す。
ああ、だめだ、だめだ、だめだ。
足がよろけても、踏ん張ってこらえてスピードを落とさないように走る。
心臓が痛い。
走ってるからか、告白まがいのことをしたからか、手を握られたからか。
駅に着いて、切符を買うのに財布を出そうと鞄に手を入れたその時。
「ど、して逃げるんだ」
「・・・・・・っ」
腕を引っ張られて、思わず振り向いた先には、サロンエプロン姿の、木下さん。
どうしたらいいかもう分からなくて、木下さんの足を見つめる。
あ、足が私より大きい。ってそりゃそうか。
「・・・どうして泣いてるの」
「・・・・・・え?」
目に手をやると、確かに濡れていた。
ハンカチを出そうと鞄に手を伸ばすよりも、エプロンから木下さんがハンカチを取り出すのが早かった。
「はい」
「・・・あ、りがとう、ございます」
素直にハンカチを受け取って、涙をぬぐう。
ああ、でも顔は上げられません。
「・・・どうして泣いてるの」
「・・・・・・」
それはきっと私の許容範囲を超えてしまっていっぱいいっぱいになってしまったからです、と心の中だけつぶやく。
もちろん、木下さんには聞こえていないけれど。
「そう。じゃあ、昨日はどうして泣いたの?」
「え?」
「目が、少し腫れぼったかったから。何か嫌なことがあった?」
「・・・・・・」
気がついていたんだ。
昨夜も、確かに泣いたよ。でも・・・あなたのことを想って泣きました、なんて言えない。
「それも言わない、か」
「・・・・・・」
は、とまたため息をつかれた。
ごめんなさい、でもやっぱり言えないんです。
「携帯は?」
「・・・へっ?・・・あ、あれ、あ、そうだ!携帯は、木下さん!」
「やっと俺を見たね」
「・・・・・・」
「俺はね、言わなかった?君が気になってるって。君のことをもっと知りたいって」
「・・・・・・」
「君との電話が楽しかったよ。でも、電話越しの君しか知らなくて、だから会ってみたかった。会って、どんな子なんだろうって、確かめてみたかった。だから、携帯を取りに来てくれるのを楽しみに待ってた」
「・・・・・・」
「笹波さんが来るからって、親にお願いして、来るまで店手伝ってたんだ。鈴が鳴る度、期待して、がっかりして」
「・・・・・・」
「一つだけ心配だったのは、彼氏と一緒だったらどうしようってこと」
「・・・そんな、彼氏、なんて」
「笹波さんが店に入ってきた時、すぐに分かったよ。ああ、やっと来たって思った。声も聞いてないのに、不思議だけど」
「・・・・・・」
「・・・だから正直、一人で来てくれて安心した」
「・・・・・・」
「電話で、声も可愛くて、俺なんか楽しい話できないのに、いつも楽しそうに話聞いてくれて、話してくれて、同い年なのに気も遣えて、優しそうな子だなあって思ってた。気になってた。でも、会ったこともないし、名字しか知らない。気にはなるけど、好きになるはずないって思ったんだ」
「・・・・・・はい」
「でも、店で一目見た時に、笹波さんだと思って、ああ好きだなって思った」
「え・・・・・・?」
「君が俺をどう捉えているのかは知らないけれど、俺なんか、さっき手を握るのさえ緊張して、手が震えたり赤くなったらどうしようって思ってた。男子校で、女の子と話すことさえ日頃ほとんどないから、今も実は恥ずかしいよ。こんな奥手が、彼女がいると思う?」
そう言っているそばから、木下さんの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
言ってしまって、より恥ずかしくなったのか、片腕で顔を隠して。
ああ、可愛いかもしれない。
「私、私も、怖くて、怖くて、自分の気持ちが分からなくて。でも、お店で木下さんを見て、やっぱり好きな気持ちは間違いないって思ったんです。・・・一緒、ですね」
「そうだね」
「・・・木下さんに、そう言ってもらって、すごく、恥ずかしいけど、嬉しいです」
もしかしたら私たち、似たもの同士なのかもしれない。
お互い、きっと好きの一歩を踏み出したところ、なんだろう、きっと。
「じゃあ・・・二歩目を踏み出すために」
「はい?」
こほんと咳払いをする木下さんに、首をかしげる。
そんな私に、木下さんは微笑みかけてくれる。
「初めまして、俺は、木下弘高です。名前を教えてくれませんか、笹波さん」
そう言って、差し出された手。
そっと握った手は、走ってきてくれたからか、とても熱くて、大きくて、ごつごつしていた。
「・・・初めまして、弘高さん。私の名前は・・・」
家に帰って充電器に繋ぐと、弘高さんからのメールが一通、入っていた。
今日来てくれてありがとう、ということ。
そして。
『電話は12時に。待っていて』
「・・・ふふ、お待ちしてます」
携帯には、早速登録した弘高さんの電話番号。
今夜からは私とあなたの携帯で。
電話越しの恋もあり、みたいです。