【後編】 深淵に向かって
ナタリーの様子が、ここ最近どうにもおかしい。
食事を残すようになり、家事をしていても視線がどこか遠い。
昨日の夕食も、今日の昼食も、パンにチーズをのせて
軽く炙っただけの簡素なものだった。
いつもなら少し嬉しくなる香ばしい匂いも、
今日だけは妙に静かに感じた。
「悩み事でもあるのかしら」
そう呟いてみても、理由は浮かばない。
ただ、彼女の横顔がいつもより遠く見えた。
どうにかして元気づける方法はないだろうか。
考えるのよ、レイナ。あなたならきっとできる。
そう自分に言い聞かせて、私はひとつ決めた。
「今日の夕食は、私が作ることにしたわ」
美味しいものを食べれば、少しは元気になるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、私は胸を張って宣言した。
「えぇ…? 無理してない? 大丈夫なの?」
大丈夫かどうか聞きたいのはこちらのほうだ。
けれど、その言葉は飲み込んで、代わりに笑顔を作った。
「最近は私ばかり作ってもらっているもの。今日は任せてほしいわ」
胸を張ってそう言う。
私だって、手の込んだ料理を一つか二つくらいは作れる。
「でも……うーん……」
ナタリーの返事はどこか歯切れが悪い。
心配しているのか、それとも別の理由なのか、判断がつかない。
「いいから座ってて。すぐ作っちゃうから」
軽く背中を押して椅子に座らせる。
ナタリーは何か言いたげにこちらを見ていた。
それでも私は気づかないふりをして、キッチンへ向かった。
メニューはもう決めてある。
クリームシチューとサラダ。
あの温かい組み合わせなら、きっと心も少しはほぐれるはずだ。
「まずは野菜ね」
必要な野菜をまな板に並べ、風の魔法を起動する。
指先に風を集め、薄く、薄く――刃のように研ぎ澄ませていく。
研ぎ澄まされた風は、キュイン、と小さく鳴った。
うん、切れ味は悪くなさそう。
そのまま、まな板へ向けて放つ。
……ちゃんと切れた。
まな板が少しえぐれてしまったけれど、まあご愛敬だろう。
この調子で次々と野菜を切っていく。
気づけば、すべての野菜がきれいに刻まれていた。
まな板は……最初の半分くらいになってしまった。
たしか新しいのを買ったばかりだった気もするけれど、
今は忘れることにする。
次はお肉だ。
風の刃の出力を弱めにして、慎重に切り分けていく。
……うん、今度はまな板は無事。
切り分けた具材を鍋に入れ、火をかける。
火力は……とりあえず最大でいいだろう。
強い火なら、そのぶん早く出来るはずだ。
肉と野菜が焼ける音がして、ふわりといい匂いが漂う。
「塩を少々……少々って、どれくらいだったかしら」
まあ、なんとなくでいいか。
そう呟きながら、なんとなく振りかける。
「胡椒は多めのほうが美味しかった気がするわ」
これは塩より少し多めに。
気持ちよくパッパッと振ってみる。
……少し多かったかもしれない。
でも、胡椒は多めの方が美味しいものね。
「ここにミルクを入れて……」
ミルクを入れるタイミングは、以前ナタリーに教わった通りだ。
勢いよく注ぎ込み、そのままの火力で煮込む。
ぐつぐつ、と元気よく煮立ち――
……あ。
ちょっと焦げた。
鍋の底が茶色くなっている。
でもまあ、混ぜればきっと大丈夫。たぶん。
……ちょっとだけ火力を下げておこう。
あとは野菜をちぎってボウルに放り込むだけだ。
手早く混ぜればサラダは完成。
シチューの火を止め、皿によそう。
湯気の立つシチューが、今日の夕食をしっかりと形にしてくれた。
「ナタリー、できたわよ」
二人分の皿を風でふわりと浮かせ、テーブルへ運ぶ。
ナタリーはぼんやりしていたようで、声をかけると
ゆっくりこちらを見て微笑んだ。
「今日は……ブラウンシチューなんだね」
何か聞こえた気がしたが、気にしないでおこう。
私は満足げに席につき、
自分の“クリームシチュー”を前に胸を張った。
「さ、食べてみて」
「うん、いただきます」
ナタリーがスプーンでシチューをすくい、口元へ運ぶ。
「……うん、おいしいよ、レイナちゃん」
小さく微笑んでそう言った。
私はほっと息をつき、自分の皿にスプーンを入れ、口に運ぶ。
「……しょっぱい」
そして、からい。
焦げた野菜の苦味まで主張してきて、なんとも言えない味になっている。
……まって。
この子、これを“おいしい”と言って食べてるの?
「ナタリー、あまり無理して食べなくてもいいわよ?」
体調を悪くされたら困る。
そう思って声をかける。
「大丈夫、美味しいよ」
返ってきた声は、どこか平坦で、温度がなかった。
ナタリーは少しだけ視線を落とし、
皿をそっと持ち上げる。
「でも……やっぱりまだ食欲ないみたい。
部屋に持っていって、ゆっくりいただくね」
その言い方は優しいのに、
どこか遠くて、触れられない。
ナタリーは静かに席を立ち、
皿を抱えたまま部屋へ向かった。
私はナタリーを見送り、
テーブルに残された自分の皿へ視線を落とす。
スプーンでシチューをすくい、もう一口。
「……しょっぱい」
舌に残る塩気と辛味。
焦げた野菜の苦味が、あとからじわりと広がる。
……今日はサラダだけでもいいかな。
そう思いながら、私はそっとスプーンを置いた。
食器と器具を洗いながら、一人で考える。
あのシチューを“おいしい”と言うなんて。
食べられなくはない味だった。
でも、おいしいと言える味じゃない。
いつもなら、もっとはっきり言ってくれるはずだ。
「レイナちゃん! これしょっぱいよ!
あと胡椒いれすぎ!」
あの元気な声が、ふっと耳の奥でよみがえる。
今のナタリーの声は、あんな温度じゃなかった。
洗い物を終え、ナタリーの様子を見に行くことにした。
階段を降りると、ナタリーの部屋の扉が半分開いている。
そっと覗き込む。
ナタリーは背中を向け、机に座っていた。
本を開き、何かを書きつけている。
その姿だけ見れば、いつも通りの“本に夢中なナタリー”だ。
……そういえば。
おばあ様の部屋で見つけた本を渡したのも、この頃だった。
ただの偶然なのかもしれない。
それでも、そのことが頭から離れなかった。
ナタリーはあれを読み始めてから、
どこか纏う空気が変わった気がする。
胸の奥がざわつく。
そこまで考えて、もう一度ナタリーを見る。
メモを書く手は止まり、
今度は天井を見上げていた。
何かを見ているわけでもなく、
ただ、虚空に意識を置いているような目で。
言いようのない不安が、静かに広がっていく。
……おばあ様の部屋に、何か手掛かりはないだろうか。
何とかしなければ。
このままでは、
ナタリーが遠くへ行ってしまう。
そんな予感が、静かに、確かに胸を締めつけた。
私は踵を返し、おばあ様の部屋へ向かう。
何か見つかるように――祈りにも似た思いを抱きながら。
部屋の扉を開け、ランプに火を灯す。
おばあ様の部屋は、前に来たときとほとんど変わっていない。
静かで、少し埃っぽくて、時間だけが止まっているような空気。
机の上には、あの本が入っていた箱が置かれていた。
ただ、一つだけ違う。
箱の上に、手紙が置かれている。
「……こんなもの、あったかしら」
そっと手に取り、封を開こうとした瞬間、
懐かしい、独特の筆跡が目に飛び込んでくる。
「愛する二人の魔女へ――」
おばあ様の文字だ。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
封を切り、手紙を取り出し、目を通す。
――愛する二人の魔女へ
この手紙が読まれているということは、すでにこの本を
手に取ってしまったということだね。
まったく、あんたたちの好奇心は手が付けられないね。
レイナへ。
あんたはどうせずっと本を読んで研究してるんだろうね。
あんたの料理は壊滅的だから、ナタリーに任せないといけないよ。
ナタリーへ。
あんたがいないとレイナは生きていけないんだ。
できないことを悔やむより、今できることを磨きなさい。
「おばあ様……」
私だって料理はできる。
今日は少し失敗しただけだ。
……二人とも、自分の得意なことと不得意なことを、
ちゃんと知っておくんだよ。
魔女はね、自分を誤解したまま力を使うと、簡単に足元をすくわれる。
さて本題だ。
どっちが見つけたかはわからないけど、ナタリー、あんたは
この本を読んじゃいけないよ。
これはあんたと非常に相性が良い。
「相性が良いのに読んではいけない? どういうことかしら」
手紙を読み進める。
……そう思っただろうね。
相性が良いなら読むべきじゃないか、と。
でも、これは本当に"相性が良すぎる"んだよ。
……これは禁書。
読めば力も知識も手に入る。
だけど、その代わりに心を少しずつ削っていく。
――深淵に引きずり込まれるんだよ。
「深淵に引きずり込まれる……」
ナタリーの様子を思い返す。
寝る間も惜しんで本を読み進める。
声をかけても返事が遅く、ぼんやりする時間が増えた。
「……すでに蝕まれているってこと?」
胸の奥が冷たくなる。
手紙に視線を戻す。
……実はね。
ナタリーの魔力の波長に合う本を探していたんだ。
……だけど、これがだめだったねぇ。
おばあ様の筆跡は、どこか申し訳なさそうに揺れていた。
……だから二人とも、本を読む前に、この手紙が届くことを祈っているよ。
……遅かった。
この手紙を見つけるのも、
ナタリーに本を渡してしまったことも。
急いで本を取り上げなければ。
その時だった。
塔の奥から、空気を震わせるような轟音が響き渡った。
下の階だ。
胸が跳ねる。
「……ナタリー!」
手紙を握りしめたまま、私は駆け出した。
「……読み終わった」
私はそう呟いた。
ただ、その呟きが本当に“私”のものなのか、
もう確信が持てない。
「試さなきゃ」
……試す?
何を?
知らない言葉が浮かんでは消える。
一つも読めない。
なのに、全部理解できる。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。
地下の実験室。
あそこなら……試せる。
地下への階段を降りる。
意識はどこか朦朧としているのに、
足は迷いなく動いていた。
ぼやけているようで、
むしろ世界がいつもより鮮明に見える。
不思議な感覚だ。
実験室の扉を押し開ける。
冷たい空気が肌を撫でる。
私は迷いなく準備を始めた。
床に魔法陣を描き、器具を並べ、魔力の流れを整える。
何をしているのか、理解していない。
けれど、何が必要なのかだけは分かる。
頭の奥で、文字がざわめく。
意味が、指先へ、呼吸へ、魔力へと染み込んでいく。
魔法陣の中心に立ち、
私は魔力を流し込んだ。
淡い光が走り、
魔法陣が脈打つように輝き始める。
魔力は、まだ足りない。
目の前の文字が淡く光る。
手を伸ばすと、それは音もなく魔力へと変わった。
足りない。
もっと。
もっと。
私はその光を吸い上げるようにして、
何度も、何度も繰り返す。
魔力が満ちていく。
限界を越えて、さらに高まっていく。
そして――
「……レイナちゃん」
その名を呼んだ瞬間、
轟音が実験室を揺らし、
眩い光が私を包み込んだ。
私は駆け出した。
何かが起こった――それだけは、はっきり分かった。
ナタリーの部屋の扉を勢いよく開ける。
中には、誰もいない。
机の上には、冷めたシチューとあの本だけが残されていた。
「ナタリー! どこなの!」
声を張り上げても、返事はない。
部屋は静かすぎた。
机の上には、あの本が開かれたまま置かれている。
覗き込むと、空白のページ。
……おかしい。
前のページをめくる。
空白。
さらにその前のページをめくる。
空白。
ページをめくるたび、紙の擦れる音だけがやけに大きく響く。
文字がない。
……いや。
そんなはずはない。
「あの子は……何を読んでいたの?」
背筋が冷えた。
指先から、ゆっくりと熱が引いていく。
本を閉じ、懐にしまい込む。
そのまま魔力を奔らせ、塔全体へ意識を広げた。
二階……反応なし。
一階……違う。この先だ。
地下――
見つけた。
そこだけ、空気が歪むほどの魔力の残滓が渦巻いている。
まるで、ついさっきまで“何か”が暴れ回っていたような量だ。
「……ナタリー」
胸が強く締めつけられる。
私は迷わず、部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
足がもつれ、途中で転びそうになるが、
手すりを掴んでなんとか体勢を立て直した。
胸が早鐘のように鳴っている。
嫌な予感だけが、背中を押す。
地下の実験室の前にたどり着くと、
扉の前の空気が、熱を帯びて揺れていた。
私は一度だけ足を止めた。
開けてしまえば、
もう戻れない気がした。
それでも。
「ナタリー!」
焦りと戸惑いのまま、
扉を勢いよく押し開けた。
部屋の中は、荒れ果てていた。
机や椅子は吹き飛び、
部屋の隅で二つに折れている。
器具は粉々に砕け、
割れた薬瓶から、色とりどりの液体が床一面へ流れ出していた。
焦げた匂いと、
薬品の甘い匂いが混ざり合い、
空気が重く淀んでいる。
部屋の中心には、魔法陣が描かれていた。
淡い光が、今にも消えそうに揺れている。
……ナタリーは、ここにいた。
魔法陣の中央には帽子だけが残されていた。
ナタリーの帽子だ。
私は歩き、その帽子に手を伸ばす。
帽子を、そっと持ち上げた。
ほんのわずかに、指先が痺れた。
……まだ、残ってる。
「ナタリー」
呼んでみても、
返事はなかった。
帽子を胸に抱く。
反対の手には、
いつの間にか、おばあ様の手紙が
くしゃくしゃになるほど握りしめられていた。
あきらめる、という発想だけが、なぜか思い浮かばなかった。
「魔法は使うものだ。決して飲まれてはいけないよ」
おばあ様はいつもそう言っていた。
けれど私は、どうしても深淵を覗きたくなってしまった。




