エピローグ 新生期のワニ
あれから10年の歳月が流れた。試される北の大地に、今年もまた、撤退する将軍をお見送りする季節が訪れていた。路肩に積み上げられた泥まみれの雪の残骸は内地の人間が懐く幻想を打ち砕き、やがては消えるそれらと入れ替わるようにして、土と埃とpm2.5が大気に舞い踊っていた。まあ、春である。
そんな中、私は買い物籠を下げて、繁華街のモールを歩いていた。四人の子供と愛する夫の食事を練成するためのルーチンワーク、買い物である。私は今日も、日常という名の穏やかで退屈な檻の中にいた。
林女史がいつも語る所の愚痴に寄れば、さっさと結婚して家庭に入った私が羨ましい、らしい。まあ実際、今の生活は悪くない。そこに、
「すみません、ちょっといいですか?」
不意に、背後から見知らぬ男性の声。振り向く隙すら貰えず、包囲殲滅陣が完成した。複数人の殿方が、私を取り囲んで、一人はカメラ、一人はマイクを向ける。
「今、街中で見つけた美人の素人さんに声を掛ける企画をやってまして、よろしければ、お名前と職業を伺ってもいいですか?」
言葉選びこそ比較的丁寧だが、コンプラ無視で逃げ道を塞いだ上での詰問。怪しいけれど、実際、容易くは逃してくれそうになかったので、仕方なく答える。
「韮沢まゆです。専業主婦やってます」
「あ、奥さまだったんですね。お子さんは?」
「四人います」
「四人! お若いのに、それはスゴい!」
凄いのは、あの男である。ポンコツな私を虚仮の一念で娶ったばかりか、私が産んだ奴の子供四人も問題無く養っている。甲斐性が並外れているのだ。
「もういいですか?」
と訊いたが、彼らは私を引き止める。互いに目配せして頷き合い、マイクを持った男が言った。
「えっと、まゆさん、で、いいですか?」
「いいですよ」
「では、まゆさん、一つお願いがあります」
「何ですか?」
「まゆさんが今はいているパンツ、見せてください!」
カメラのレンズのベクトルが、私の足先から腰のあたりまでを舐めるように動いた。
ああ、これはそういうやつか。成人指定である。本当にあるんだ。
「ごめんなさい。無理です」
私は頭を下げ、慇懃に謝罪する。想定内だったか、
「そうですよね。失礼なお願いですみません。でも、ちょっとでいいんです。勿論、タダとは言いません。謝礼は―――」
「はいてないので」
何か言おうとした言葉を無視して、私は自分のスカートを全開にめくり上げて換気した。そこに現れたのは、相変わらずのつるつるちゃんである。但し、今や四人の赤子を輩出した、タフな相棒だ。
「あ、えっと………」
何年ぶりだろうか。あの日、私は宣言通りに水着を忘れ、その日から卒業まで、一切の虚飾を学校に持ち込むのをやめた。物理的に、スカート自体が無かったから、めくるなんて、久しぶりである。懐かしい。
一通り感慨に耽り、もういいかなって所で手を放してスカートを下ろした。すると男は、
「あ、ありがとうございます」
ある意味で場違いな礼を述べた。それに既視感を覚えて、ふふっと笑う。
「どういたしまして」
感謝には感謝を。返礼した私は男たちの間を抜けて、愛する家族が待つ家路へ向かった。
長い冬が終わり、春分を過ぎた太陽が、心地よく私の肌を照らしていた。境界を越えて生き延びたワニは、泥の中でも光の中でも、ただ最高に、今日も機嫌よく生きていた。




