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第一章:『海外ネットワークが繋がらなくなった日』

2026年の現代日本がそのまま1853年に国土ごと転移します。現代日本人はどんな道を選ぶのか。


2026年5月某日 午前8時30分 首相官邸・5階総理執務室


内閣総理大臣、柳田晴臣(63)の朝は、いつも通りの退屈なルーティンで始まった。秘書官が淹れた熱い緑茶をすすりながら、手元のタブレットで今朝のニュースをチェックする。

支持率は横ばい。野党からの追及のネタは相変わらず。いつもと変わらない、少し憂鬱で、しかし平和な日本の朝だった。


カチリ。

ふと、タブレットの画面の右上に目が留まった。

電波強度を示すアンテナピクトや5Gの表示は満タンのままだ。しかし、いつも見ている海外のニュースサイトや、海外にサーバーがある主要なSNSの画面が一切開かない。画面には「通信エラー」の文字が虚しく浮かぶ。試しに国内の天気予報やNHKのサイトを開くと、こちらは何の問題もなくサクサクと正常に動いている。


「国内の通信障害かね?」

柳田が呟いた、その瞬間だった。

執務室の重厚な扉が、ノックもなしに激しく押し開けられた。


「総理!! 大変です!!」


飛び込んできたのは、防衛大臣の岩崎だった。いつもは冷静沈着を絵に描いたような男が、ネクタイを歪ませ、額から滝のような汗を流し、血走った目で柳田のデスクに両手を突いた。


「どうした岩崎、落ち着きなさい。支持率がさらに落ちでもしたか?」

「そんな生易しい話ではありません! 異常事態です! 現在、我が国の領海・領空に接近中だったすべての外国籍の船舶、航空機との通信が【一瞬で途絶】しました! レーダーの機影もすべて消失です!」


「……は? 消失? システムのエラーかね?」

「違います! レーダー自体は正常に稼働しています! しかし、1分前まで成田や羽田への着陸態勢に入っていた数百機の外航機が、太平洋上を航行中だった数千隻の巨大コンテナ船やタンカーが、データごと画面から消え去ったのです! すぐにアメリカ大統領や近隣諸国の首脳、各国政府へ直接電話を繋ぐよう命じましたが、回線は生きているにもかかわらず、どこへかけても呼び出し音すら鳴らずに一切通じません! 地球上から、我が国以外の政府が消滅したかのような状態です!」


岩崎はごくりと唾を飲み込み、震える声で続けた。


「さらに、防衛省の統合幕僚監部へ入った緊急報告によりますと、国内のすべての在日米軍基地――横須賀、横田、嘉手納の司令部から、基地内の自衛隊連絡官を通じて、信じがたい一報が入りました。建物や滑走路、配備されていた戦闘機や弾薬、備蓄物資はそのまま残されていますが、米兵やその家族、あらゆるアメリカ籍の人間が、基地内から【一人残らず完全消失】したとのことです!」


「アメリカ軍が消えた……!? 一体どういうことだ!」

「それだけではありません。外務省の緊急調査によると、現在、国内のホテルや観光地に滞在していた外国人観光客やビジネスマンも、全員が忽然と完全消失しています。日本国内から『日本人以外の全人類』が綺麗に消え去ったのです。そして……」


岩崎はデスクに、自衛隊の中央指揮所から生中継されているモニターの映像を叩きつけた。そこには、気象衛星『ひまわり』の地上ズーム画像が映し出されていた。日本国内の光ファイバーやデータセンターは無事なため、衛星からのリアルタイム映像は鮮明に受信できている。


まばゆい朝の光を浴びている中国大陸や朝鮮半島の姿が、そこにはあった。しかし――中身が「狂って」いた。


「画面がおかしいぞ。ズームを最大にしてくれ。……上海の超高層ビル群や、近代的な巨大港湾コンテナターミナルはどこへ行った? まるでただの泥の河口じゃないか」

「はい。沿岸部の21世紀の近代都市、工業地帯は、影も形もなく消滅しています。ですが、さらに北、北京を見てください」


岩崎が画像を切り替える。

高解像度の光学カメラが捉えた北京の姿に、柳田は息を呑んだ。


そこには、現代の1万本を超える高層ビルや、巨大な国際空港、複雑に交差する環状高速道路の姿は一切なかった。代わりに画面に映っていたのは、広大な平原の中にぽつんと浮かび上がる、幾何学的に美しい「巨大な四角い城壁」だった。長大な城壁の内部、その中心には、赤と黄色の屋根が整然と並ぶ、あまりにも巨大な宮殿群――『紫禁城』が、現代の最新衛星カメラによって、信じられないほど鮮明に捉えられていたのだ。


「これは……本物の紫禁城か? 周囲の近代的な大都市はどこへ行った? なぜ城壁の中に街が収まっているんだ?」

「都市だけではありません。他国の通信衛星、GPS衛星とのリンクもすべて切断。自衛隊の天体観測班によると、現在、地球の軌道上には我が国の人工衛星以外、文字通り『一機も存在していない』とのことです。現在、日本は【完全に世界から孤立】しています」


柳田の背筋に、初めて冷たいものが走った。


その恐怖の沈黙を切り裂くように、執務室の固定電話が、悲鳴のような音を立てて鳴り響いた。内線、外線、すべてのランプが狂ったように点滅している。


ガチャリと受話器を取る。


『総理! 経済産業省です!』スピーカーから飛び出してきたのは、経産省の若手官僚、神崎怜奈の取り乱した叫びだった。国内限定の回線は生きているため、省庁間の連絡は繋がる。

『現在、全省庁を挙げて状況を確認中ですが、もし……もし仮に、現在の海外からの貨物船やタンカーの途絶が一時的なものではなく、このまま「物理的に輸入が不可能な状態」が続いた場合を想定し、最悪のシナリオを試算しました!』


「試算? どうなるんだ」

『我が国の石油備蓄および天然ガスの在庫の消費ペースから逆算すると、節約しても【半年から1年】でエネルギーが完全に底を突きます! 半年後には、自衛隊の最新兵器はただの鉄の置物に、新幹線は巨大な文鎮になります! 総理、原因が判明するまで、今すぐ国内の全エネルギー消費を制限する非常事態宣言を!!』


「ちょっと待ちたまえ! まだ状況がわからん!」柳田が叫ぶ。


米軍基地は空っぽ。外国人は完全消失。海外ネットはエラー。そして隣の大陸には、歴史の教科書でしか見たことがない近世の城壁都市。国家の最高権力者であるはずの男の脳内は、いまやパニックで飽和していた。支持率どころの話ではない。国が、丸ごとどこかへ放り出されたのだ。


「総理……JAXA(宇宙航空研究開発機構)および天文学の専門家から、星位観測による最終報告が入りました」


岩崎防衛大臣が、デスクの横に置かれた『2026年5月』のカレンダーを、悔しそうに拳で叩いた。


「信じがたいことですが……太陽の位置、星座の配置が、我々の知る2026年のものと完全にズレています。計算の結果、現在の地球の正確な日付が判明しました」


岩崎は生唾を飲み込み、その数字を口にした。


「西暦、1853年(嘉永6年)5月です。……我々1億2千万人の現代日本人と、この2026年の日本列島は、丸ごと173年前の過去へタイムスリップしました」


「……1853年?」

柳田は呆然とオウム返しにした。


「はい。そして先ほど、長崎の海上保安庁から『港外に、国籍不明の木造帆船(オランダ国旗)が漂流しているのを発見、現在戸惑いながらも無線で呼びかけ中』との報告が入りました。……間違いありません。ここは、弱肉強食の近世世界です」


岩崎は、自分の腕時計(2026年の電波時計。当然、電波を失って狂い始めている)を見つめながら言った。


「総理。史実通りなら、あと約2ヶ月後。1853年7月8日(旧暦では6月3日)。我が国の横須賀・浦賀沖に、アメリカのペリー提督が『黒船』を率いて、開国を迫りにやってきます」


執務室に、完全な静寂が訪れた。窓の外には、いつもと変わらない2026年の東京の超高層ビル群が、初夏の眩しい太陽を浴びて輝いている。だが、この大都会の国境線の向こうは、173年前の暗黒の世界なのだ。


柳田晴臣(63)は、手元に残された冷めかけた緑茶を、一気に飲み干した。

LEDの照明が虚しく照らす誰もいない空間に向かって、所属政党である『平和維持党』の事なかれ主義で、心からの本音を呟いた。


「……遺憾の意を表明する相手すら、まだ生まれてないじゃないか」


現代日本の歴史上、最も孤独で、最も不条理で、最も滑稽な「2ヶ月のカウントダウン」が、静かに幕を開けたのだった。




転移時国外にいた日本人は? 消えた外国人は? もともと居た江戸時代の人たちは? いろいろと不明な点や整合性の取れないこともありますが、あまり気にせず気軽に楽しんでいただければと思います。

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