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表と裏騒動記  作者: 美祢林太郎
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8 校長椎名修の事情

8 校長椎名修の事情


 ネットにあがった変態教師はすぐに保護者たちの知るところとなった。校長の椎名修のところに何があったのか状況説明を訊きにきたPTAの会長以下幹部4名に対して校長は一人で対応した。校長室のソファに座って、出された番茶を飲みながら、にこやかに校長は「ただのネットのいたずらですから、騒ぐに及びませんよ。わが校に変態教師がいるわけないじゃありませんか。それともみなさんに何か心当たりでもおありですか」と言ってのけた。機先を制せられたようで、保護者たちは二の句が継げなかった。保護者に昼行燈と陰口をたたかれている椎名であるが、校長の立場にある人間としては当然と言えば当然な毅然とした対応であった。それでも、ただの昼行燈ではなく、相当に肝っ玉の据わっている人物なのかもしれないと居合わせたうちの一人は思った。だが、校長室を出てみんなで喫茶店でお茶を飲んでいる時、PTA会長が「やっぱり校長は昼行燈だな」という言葉を聞き、即座に他のメンバーと一緒に同意してしまった。それでも、内心では校長は捉えどころのない人間に間違いないと思っていた。

 校長はPTAの前では大見得を切ったが、ネットに書き込まれている変態教師は自分のことかも知れない、という不安を持っていた。校長には女装の趣味があったからだ。

 結婚後3年で、校長は妻を交通事故でなくしている。その時妻は妊娠3ヶ月だった。校長は再婚せずに仕事一筋で今日までやって来た。校長になれたのは、野心があったわけでも能力があったわけでもなく、人並みに仕事をしてきて、ただ運に恵まれていただけだ。そんな彼が十年前頃からふとしたことがきっかけで、女装にはまることになってしまった。

 亡くなった妻の妹が久しぶりに彼の自宅に来て、すでに妻が亡くなって10年も経つのだからいらなくなった妻の物はそろそろ処分した方が良いだろうと忠告してくれた。もし義兄が女性の下着を見たりそれを片付けたりするのがいやだったら、それは自分が処分してあげてもいいからと申し出てくれた。校長はそのうちに自分でするから大丈夫だとやんわりと断った。彼は妻の衣類の入った箪笥を彼女が亡くなって10年間一度も開けたことがなかった。箪笥の引き出しを引いてみると、薄いピンク色のブラジャーが最初に目に入った。彼女はこんな若々しいブラジャーを身に着けていたのだろうか? 記憶を呼び起こせなかった。ブラジャーは購入した時のままのようにきれいだった。ブラジャーを見つめていた時、ワイシャツのボタンをはずし始め、下着まで脱いで上半身裸になって、貧相な胸にブラジャーを装着した。ひんやりとした感触が心地よかった。箪笥の鏡にブラジャー姿の自分を写した。自然と涙が溢れてきた。それから何を思ったか、ズボンとパンツを脱いで裸になり、若い頃妻が身に着けていただろうピンク色のパンティを履き、ブラウスとスカートを身に着けた。若かった妻と一体になったように感じた。この日から彼の女装趣味が始まった。

 最初のうちは妻が残した衣類を身に着けて楽しんでいたが、そのうちそれだけでは満足しなくなり、インターネットの通販で女性ものの最新の下着の中から自分の好きなものを選んで手に入れるようになるまでに、それほど長い時間はかからなかった。こんな小さなパンティが入るのだろうかと思ったが、不思議なほど伸びてぴったりとした。どんどん派手なものを買っていった。それは単に妻への思慕からでなく、彼の隠されていた趣味が開花したものだった。

 一人っ子だった椎名は小学校に上がる前に親の興味本位でかわいらしいフリルのついたスカートを身に着けさせられたが、自分も気に入って、得意げに両親の前でモデルのように振る舞って有頂天になっていたことを思い出した。

 小学校低学年の頃、同級生が自宅に遊びに来て、彼の写真を一緒に見ていた時、彼が女の子の衣装を身に着けた写真が何ページにもわたって出てきた。中には口紅を差し、カールした長い髪のかつらを被った写真もあった。翌日、友だちがこのことを学校でばらして、クラスのみんなからからかわれた。彼は帰宅して女装の写真をすべてハサミで小さく切ってゴミ箱に捨てた。そして女装のことは中学生にあがる頃にはすっかり忘れてしまっていた。彼の明るかった性格が暗いものになったのは、この他愛無い事件がきっかけだった。彼は明るい性格だった幼き日々を思い出すことはなく、心の奥深くにずっと封印されてしまっていた。

 こうして彼は大人になって偶然女装と再会することになったが、最初の頃はそれでも自制が効いて一か月に一度くらいしか女装をしなかったが、そのうち女装をしないことに耐えられなくなって、自宅でほぼ毎夜のごとく女装を楽しむようになった。

 そのうち妻のピンクのネグリジェを発見し、それを着て寝るようになった。妻は生前パジャマで寝ていたので、ネグリジェを持っていることは知らなかった。彼女はネグリジェを着たかったのに、僕に遠慮してネグリジェを着なかったのだろうか? 遠慮することはなかったのに。ぼくが謹厳実直の堅物だとでも思っていたのだろうか? そう言えば、彼女に冗談の一つも言ったことがないかもしれない。ぼくは面白みに欠ける人間だ。生徒や教師たちもそう思っていることだろう。

 彼は頭の周囲に少し髪が残っている程度だが、妻が生きていた頃は髪もふさふさしていた。彼の死んだ父親は剥げていなかったので、いま禿げているのは遺伝ではなく妻が亡くなったショックなのかもしれないと思った。

 しばらくすると女装姿で外を歩いてみたくなり、東京のシティホテルに派手なドレスとカツラ、帽子、ハイヒールを持ち込んで着替え、サングラスをかけて銀座を歩いた。空気が新鮮に感じられた。これこそが僕の自由なんだと思った。

 副校長になった時に、もう女装は止めようと誓って、それまで持っていた女性ものの服や下着を思い切って全部はさみで小さく切ってゴミに出したが、それでもネグリジェだけは捨てられなくて、ネグリジェで寝るのは止めなかった。もはやネグリジェを着なくては寝られなくなっていた。それでもしばらくすると、手足の震えなどの禁断症状が出て、女装せずにいることが耐えられなくなった。こうして彼は再び女装するようになった。以前よりももっと過激に。

 校長就任が決まった時、今度こそ本当に女装をやめようと思ったが、東京で何かの用事があった時、六本木を歩いている時にショーケースに飾られていた女性用の高級な毛皮のコートを見つけて、それを店員に妻へのプレゼントのためにと説明してその場で購入してしまった。シティホテルの一室で、香水を身に着け、深紅の小さな下着を上下に着けて、その上から直接コートを身にまとった。ホテルの部屋のガラス窓に立ち、眼下に広がる東京の夜景を見下ろしながら、街行く人々に女装した自分を見上げてもらいたいという衝動に駆られ、コートの前をはだけた。最高の夜だった。


 自分は別にトランスジェンダーではない。ただの変身願望なだけだ。その変身した姿が知り合いに見られたらと思うと不安で胸が押しつぶされそうだ。しかし、矛盾するかもしれないが、その不安な気持ちがより大きな快楽を生み出してしまう。女装は何の法律に触れることもない。誰にも迷惑をかけてはいない。だけど、校長がこんなことをしていると知ったら、PTAや教育委員会は責任を問うてきて、私は校長を辞めるはめになってしまうだろう。一人暮らしなので、今更首になっても生活に困ることはない。しかし、くだらない騒動に巻き込まれるのはいやだ。それに、騒動が終わった後も、女装をしていた校長だと烙印を押されて、一生白眼視されて暮らすのも嫌だ。

 待てよ。私は校長だ。もしネットに書かれていることが私だったら変態教師という言葉を使うだろうか? もし私にあてたものだったら普通は変態校長と書くのではないだろうか? やっぱりあれは私にあてたものではないのではなかろうか?


 校長がシティホテルに入るのを偶然見た者がいた。あの新任教員の若菜舞とその愛人和泉陽子だった。若菜は校長が仕事で東京に出張できたのかもしれないと思った。若菜は校長に挨拶をしようと思って近づいていったが、校長は彼女に気づかずにエレベーターに乗った。和泉はフロントでホテルのチェックインを済ませていた。ホテルに滞在中、若菜は校長と隣の部屋だったのに、二人は顔を合わせることがなかった。

 校長は女装する衣装をすべてスーツケースに詰めて、あらかじめ宅配便でホテルに送るようにしていた。シティホテルにしたのは、女装した男が部屋からロビーに出てもたくさんの人が行きかっているので、不審に思われることがなかったからだ。ホテルの客は互いを気に掛けたりはしない。シティホテルの部屋の中では、毎度ひときわ派手な下着とネグリジェを身に着け、香水も振りかけて寝た。至上の喜びだった。

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