二話 救いの女神は危機的状況でこそ現れる
風が吹くと木の葉が揺れる音が聞こえる。
それほど都会に縁がない場所にも同じように月は現れる。
赤焼けの空にほんのり浮かぶ自己主張の弱い月を眺めながらその男子学生は帰路についていた。
駅に向かい、住宅街の曲がり角を進むと、男がいきなり現れた。
「よお。朝方ぶりだな」
「ひっ……!」
光一を見た男子学生は朝と同じように短い悲鳴をあげて横を抜けようとするがあっけなく首根っこを掴まれた。
驚くほど軽く、いよいよ本当にテニスなんてやっているのか疑わしくなってきた。
彼と同じように帰宅中の他の学生の何人かが二人に視線を向けた。光一はそれを避けるようにして男子学生を道路の端に寄せた。
「逃げるな。取って食おうなんて思っちゃいない。ちょっと話を聞きたいだけだ」
男子学生は少しの間じたばたしていたが、やがて観念し大人しくなった。
「本当ですね……?」
「ああ、だから逃げるなよ」
「わかりました」
光一は手を放し、男子学生は襟元を整えた。
身長は光一よりも低い。百七十ぐらいだろう。よく見れば顔の造形が整っていることが分かる。服装と姿勢さえ正せば光一ほどではないがかなりモテそうだ。
光一は場所が学校などでなければかなりモテる。
「名前は?」
「入沢」
「そうか。入沢。なら聞かせてくれ。お前のとこのサークルで喧嘩とかそんなことはなかったか?」
光一は細かい説明を抜きにして要点だけを尋ねた。
男子学生も事件のことだと理解し、より表情が険しくなった。彼にも思うところがあるのか、事件のことを聞く怪しい男に警戒心が上がったのか。
「……別に、ないです」
「そうか」
入沢はあくまで光一と話すことを避けたいらしく、あまり目を合わせようとしない。
「ならいい。悪かったな」
光一は話を切り上げ、入沢を送り出した。
短時間で話が終わったことに拍子抜けしたらしく、入沢は腑に落ちない様子で歩いて行った。
角を曲がったところを確認して光一も歩き出した。
曲がり角で一度止まり、革ジャンの内ポケットから手鏡を取り出す。鏡を使って入沢が見えるように手を伸ばす。
数十メートル離れたところで光一は鏡をしまった。
これだけ距離があればそう簡単には見つからない。
光一は歩き出し、入沢の後を追った。
黒、そうでなくとも黒に近い何かがある。
光一はそう確信している。
入沢の反応から見て間違いない。朝もさっきもただ不審者に驚いたにしては怯えすぎている。
質問に答える際も何かためらっているようだった。
駅に着き、電車に乗る。
光一は数万円入ったICカードを常備している為、行き先不明でも自由に乗れる。
やがて住宅が集中している駅で入沢が降車し、光一も続く。
学校を離れてから一時間ほどたっていた。空は明るさを失い、闇に抵抗するように月だけが空に浮かんでいた。
意図して作ったとしか思えないほど入り組んだ道を何度か左右に進んだところで入沢は青い屋根の家に入った。
それほど大きくない、ごく平均的な一軒家だ。
表札には入沢と書いてある。実家だろう。
「やはり匂うな」
鬼に憑りつかれた人間、あるいは人間に化けた鬼は特有の匂いを発する。邪気のようなもので、光一のような人種は「鬼の痕跡」と呼んでいる。
光一は訓練によりそれを感じる技を手に入れていた。普段は光一でもわからないほどに薄いが、鬼が表面化するとあっという間に匂いが濃くなる。
これと同じものを学校でも感じていた。
充満していて発生源は不明だったが、今は間違いなくこの入沢の家から発せられている。
であれば、入沢が関わっているのはもう確定だ。
光一は次にどうするか考えた。
このまま家に突入するという手もある。一応拳銃は持っているが、決定打に欠ける。ヒイラギで作られたナイフでも持ってくればよかったのだが、それは車の中にある。
それに無関係である可能性が高い入沢夫妻まで巻き込んでしまう。
最悪それもありだが、そんなことをすれば妖怪退治の前に光一が警察に退治されかねない。
釈放金とやらを払うこともできるが、その手段はあまりとりたくない。
大人しく監視するに留まるか、と思考を固めていたところだった。
ガチャ。
入沢家のドアの鍵が開いた音がした。
光一は音を立てずにその場から離れた。
出て来たのは入沢だった。
(今帰ったばかりだぞ?)
入沢は急ぎ気味に今来た道をそのまま辿って行った。
光一は後を追い、また一時間ほど電車に揺られた。心の中で時間と電車賃と労力を無駄にしたことに舌打ちをした。
電車を降りた途端、入沢は弾かれた様に走り出した。明らかに何か焦っている。
光一は一定の距離をとりつつ、入沢の後を追った。
やがて学校に到着すると、入沢はそのまま一直線にどこかに向かった。
光一は一度駐車場で足を止めた。見逃してしまうのは惜しいが、武器がなければ戦えない。
インパラのトランクを開いた。
その中には大きな道具箱が入っている。箱の中には様々なものが入っていた。
お札、銀の銃弾、鉈、線香、木製の弓と鏃、刀、そしてヒイラギのナイフ。
光一はナイフをポケットにしまい、トランクを閉めた。
「――ぁぁぁぁ……!」
短い悲鳴。女の声。
考える前に光一は駆け出した。
校舎の前まで来たが、光一は逡巡した。何号館かわからない。先程入沢を見失ったことが痛い。いや、武器を手に入れるためだ。仕方がなかった。
道路を挟んで右側に三つ。左側に一つ建物がある。
左側の建物はまだ明かりが点いている場所がある。特別講習でもしているのだろうか。
「ああああ……!」
再び悲鳴。
そのおかげで道路の右側にある校舎だとわかった。三つのうち左にある一番小さな建物だ。ここからではどこも明かりは点いていないように見えるが間違いないだろう。
光一は自動ドアを潜り、中に入る。
声は三階から聞こえていた。
階段を駆け上がり、光一は足を止めた。
右側。
そっちの方で微かに光が点いている。足音を立てないようにして、光一は近づいた。
その部屋は小さな部屋だった。
大人数を相手に講義する場所ではないようだ。
その中から声が聞こえた。
「……ねえ。もう鬼ごっこは終わり? あ、これがほんとの鬼ごっこってね」
くっく、と女が笑う。
「……あんたたちのことはずっと前から、化け物だと思ってたけど、まさか本当に化け物なんてね」
別の女の声だ。こちらが襲われている方だろう。声が途切れ途切れになっている。どこかで聞いた声だった。
「まあねー。でも、ヒヨミが悪いんだよ? 気づかないふりをしていれば見逃していたものを、わざわざ警察に行くなんて言い始めるから」
「……どんな人間でも、やり直せるチャンスは、あるべきだと。私はそう思ってるの。昔みたいにまた……」
弱々しい声に対し、もう一人がハッと鼻で笑った。
どうやらこの二人は初対面ではないらしい。
だが、それよりも光一には気になることがある。
(入沢はいないのか?)
口ぶりから察するに、襲っている方は鬼だ。
「馬鹿だねえ。本当に馬鹿。あの妙な男もそう。まんまと私の撒いたエサに食いついて」
あの妙な男、とは光一のことを指しているのだろう。
それならば、エサとはなんだ。考えられるのは、入沢。入沢が鬼だと確信したのは実家に強い匂いを感じたからだ。それが、エサ。だとすれば入沢は無関係?
光一は部屋の中を見るため、鏡を使った。
そこでようやく思いだした。声は、朝最初に会った女子大生のものだった。それも二つとも。襲っている方の女子大生には二本の角が生えていた。
鬼である証だ。
驚くべきはさらに部屋の奥。そこには入沢が放り出された様に転がっていた。
「……なんの、話。ふざ、けんな」
ドン、と重い音が鳴った。
鬼が女子大生の腹を蹴ったのだ。
「ま、いいや。死ね」
腕がみるみる肥大する。女子大生の細い二の腕はあっという間に醜悪な鬼の手へと変化した。
それを見て、光一は飛び出した。
タイミングを計ろうとしていたが猶予は無くなった。
ポケットのコルトを構え、即座に狙いをつける。人差し指で引き金を引き、銃弾を放つ。
わずか二秒の間に動作を終え、銃弾は狙い通りに着弾した。
銃声が校内に響き、鬼は後退した。
だが、ダメージはない。鬼は冷徹な瞳で光一を睨んだ。
女子大生は突然の事態に目を回している。パニックになっているようだ。
「お前、なぜここに」
「そりゃ入沢君を追ってさ。そいつがここにいりゃ俺もこっちに来る」
「……それもそうか」
光一は続けて二発、三発、と発砲した。鬼のどす黒い血が床に流れる。
距離を詰める。ヒイラギのナイフを使うためだ。
さらに四発、五発と銃を撃つ。鬼を貫通し、窓が割れる音がしたが光一は止まらない。
鬼は右腕を後ろに振りかぶっていた。
空気を切り裂き、樹木を抉り取る威力を秘めた一撃が光一の頭蓋を粉砕するべく振るわれた。
光一は素早く身を伏せ、必殺の一撃を避ける。
鬼はさらに左の腕で拳を作り、正拳を放った。
不利な体勢だった。
だが、当たらない。避けたのではない。攻撃したのだ。最後の一発の弾丸を拳に食らわせ、一撃を凌ぐ。
「遺言はあるか?」
光一はすでにヒイラギのナイフを構えている。
「……くそくらえ」
刺した。
心臓を一突き。
それだけであっさりと鬼は死んだ。
脱力したため、巨大化した体が光一にのしかかり、光一は適当にそれを横にやった。
女子大生に近づき、声をかけた。
「おい、大丈夫か」
「――――」
女子大生は息が苦しいのか話すこともできないようだ。
さっきの蹴りが効いているのだろう。それ以外にも外傷が酷い。服は所々破れているし、血もかなり流れている。左足の傷は見るにも耐えられない。
「とにかく。もう大丈夫だ。とりあえず、歩けるか? 外に俺の車がある。それで病院に行こう。ん? なんだ?」
「――――」
女子大生は倒れたまま動かないが、何か言おうとしている。
それが何かはわからないが、何かを訴えているということはわかった。
視線だ。
その先に何がいるのか。
「――――う、しろ」
光一は振り返った。
彼女の言葉が意味するもの。それが何か、瞬時に勘づいたのだ。だが、そんなことがありえるのか。
これまで光一は数回鬼と戦ったことがあるが、すべて一匹ずつだ。複数の鬼と戦ったことはない。
もし、彼女の言葉がその前提を覆しうる言葉なら。
今回の事件は鬼が二匹いたということになる。
衝撃が頭に走る。続けて腹。
投げた枕のように光一の体は吹っ飛んだ。壁に激突した。その拍子に右脚が折れてしまったようだ。
「ったくよー」
朦朧とする意識の中、光一は悠然と立ち上がる入沢の姿を見た。
「まさかマジでやられるとか、使えねえな」
入沢は呆れたように息を吐く。
まるで眠りから覚めた時のように右手で目を覆い、頭を振る。その頭には角が二本生えていた。
入沢はやはり鬼だった。
「あ、困惑してるな。いいぜ教えてやる。さっき陽が言った餌だのなんだのは嘘だ。あれ一人でやれると踏んでいたが、まさかやられるとはな。俺にやらせるなんてマジで無能だよな。雑魚だよ雑魚」
げははは、と入沢は汚く笑う。昼間の怯えた姿もすべて演技だったということだ。
「……はっ」
「何笑ってんだ?」
「何が、雑魚だ。お前は地べたで死んだふりをしてた。雑魚以下だ。カスが」
うまく肺に空気が入らない。かなり臓器がやられたようだ。
これ以上はもう話すこともできないだろう。
「……遺言はあるか、だったか。お前のは今のがそれでいいな」
入沢が近づく。
おいおいまじかよ。
俺は頬に感じる床の冷たさを感じながら、暢気にそんなことを思った。
意識ももうはっきりとしない。
ダメージはあるのになぜか痛みを感じない。
視界にはたまたま知り合った大学生の女の子がぐったりしながら俺の方を見ている。
俺と、目の前にいる「妖怪」を。
危機的状況であることは分かってるのに、体は動かない。
頭と鳩尾に一発いいのをもらったせいだ。潰された右足なんてもはや感覚がない。
ようやく、復讐の糸口を掴んだと思ったのにこのザマだ。
そしていよいよその妖怪が俺に近づく。
ああ、俺の人生、ここで終わりなのか。何も成し遂げぬまま何もかも中途半端なまま、終わってしまうのか。
そこまで考えたところで、俺の視界は閉ざされてしまった。
「何とか間に合った、ってとこかな」
最後に、聞き覚えのある女の声が聞こえた気がした。




