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痛いの痛いの飛んでいけ  作者: 川崎 春
3/3

清算、その後

 加賀美さんは滅多に怒らない。

 だから自分が指摘した事で怒り出して、僕を置き去りにした時には物凄く怒っているのだと思った。

 メールを出しても返信が無い。無視されているのだと思うと凄くいたたまれない気分になった。

 九歳の時からの因縁の相手が警察に無事逮捕されたのだから、喜んで当たり前だったのに、現実を直視しろと言ってしまった自分に嫌気が差す。

 そこに電話が来る。相手は陽介だった。

 がっかりして出ると、

『加賀美さん思ったよりしっかりしてて、元気そうだった』

 と言う話になった。

「会ったのか?」

『うん。これから産休中の友達の家に行くからって、お誘い断られた』

「お誘い?」

『ドライブでもしないかって』

 一昨日点滴して、昨日事件に巻き込まれた人に何を言っているんだ?

「何も言わずに家に送ってやれよ。大変だったんだから」

『帰っても一人なんだろう?辛い事のあった後だから、誰かに思わず身を任せたいかなぁ……とか思って』

 馬鹿じゃないのか?そう言う事言ってがっつくから、上手く行かないんだよ。

「あんまり言いたくないけれど、陽介、頭の中がお花畑だぞ?」

『加賀美さん優しそうだし。抱いたら流されてくれそうだからさ、早く自分のモノにしたくって』

 加賀美さんは、そう言う考えの男を素敵だと思う質ではない。断じて。どちらかと言うと、嫌いなのではなかろうか。

 ほんわかしているし押しに弱いが、ちゃんと自分の稼ぎで自立している人だ。モノとか、呼ばれるのに抵抗があるだろう。

「強引なのは嫌われるよ?」

『でもあの人多分、処女だ。年齢も年齢だし、上手く妊娠したら一生俺に従うと思う』

「陽介!」

 色々と頭に暴言が湧いたけれど……何をどう返したらいいのか、良く分からないので結局それ以上言葉を継げなかった。……里美の兄なのだと改めて思う。

 陽介にとって女は所有物で、子供を産ませて家に縛り付けるものなのだ。

 僕はただ振られた話を何度も聞いていたけれど、いつも陽介主体の言い分だけで、相手女性の言い分なんて聞いていなかった。

 自分の家の家業を受け入れて、ちゃんと継ごうとする意志の立派さに憧れていた僕は、多忙である上に、実家付きの家庭環境に問題があると思っていた。

 でも、今初めて気付く。それだけじゃない。……いや、そうじゃなかったのだ。

 陽介本人に、問題があったのだ。

「あのさ、モラル・ハラスメントって言葉、知ってるか?」

『あ?知ってるけど、どうでもいいよ。それよりも、加賀美さんを何とかしたい。今回の事件の話を聞かせろよ』

 知ってどうする?……加賀美さんに同情する風を装って、言い寄る材料として使うだけのつもりだ。

「警察がまだ話すなって言ってるから、言えない」

『俺とお前の仲だろう?ちょっと位、いいじゃないか』

 陽介は医者として仕事をしているから恰好良いのであって、そうでない部分は男から見ても、自分勝手だな、と改めて思う。

「僕の父親の仕事を知っていて、それを言うの?」

 陽介は、ようやく諦めた。

『分かったよ。じゃあな』

 陽介がそう言って、通話は終了した。

 僕は、陽介は良い奴だとずっと思っていた。強くて明るくて前向きで、里美みたいな妹を嫌がりもせず可愛がって……。

 そうじゃなかったのだ。面倒見がいいのは認める。確かにそうだと思う。けれど、面倒を見ようとする相手との間に、上下関係があるのだ。

 里美と対峙する際も僕に対しても、陽介は自分が上だと思っている。僕は年下で、それを当たり前に受け入れて来た。

 けれど、加賀美さんにそのルールを適用された途端、陽介に失望した自分が居た。

 もっと、人の気持ちの分かる奴だと思っていたのに。

 とりあえず、がっかりしても友達だからフォローしておこうと加賀美さんに電話をした。返事の来ないメールを待たずに済むからと電話をしたが……三コール目で切った。

 僕自身、加賀美さんの心理に立ち入る権利があるのだろうか?そもそも、どうしてこんなに気になってしまうのか。

 加賀美さんは、自分を『おばちゃん』だと言った。加賀美さんはまだ若い。全然そうじゃないのに、自分をおばちゃんと言った。

 おばちゃんだから放って置いて。無事事件も終わったし、職場でまた普通に会いましょう。そんな風な事を、さも嬉しそうに言うのだ。関係をリセットされた気がして、僕は焦ったし腹が立ったのだ。

 おばちゃんじゃありません。十分若いです。

 そう言いそうになって止めたのだ。でも、六歳年上の別の女を見て、同じ事を考えて言えるかどうか。

 ……これは、まずい。

 両手で口を覆って、ため息を吐く。

 これでは陽介と変らない。酷い有様だ。僕も気付けば頭の中はお花畑だったのだ。

 どうしようか。

 混乱していると電話が鳴った。加賀美さんだった。

 出ないと言う選択肢は無くて、当然出る。こんなに脈拍の高い、緊張した状態での通話は、生れて初めてかも知れない。

 最初から加賀美さんは、自分が悪いと謝罪してきた。喜び過ぎて悪かったって……。

 理由が可愛いんですけど!

 思わず、口に手を当てて黙ってしまった。

 もっと三十三歳に相応しい、社会人らしい堅い謝り方をしてくれれば頭の中の花畑も、多少茂る勢いが削がれた筈なのに、今一気に茂った気がする。

 とか、考えていたら、不機嫌そうに電話した理由を問われた。

 それで陽介の今日の行動の話になり、とんでもない事実を知った。

 陽介は、加賀美さんを誘って断られたんじゃなくて、拉致しようとして失敗しただけだったのだ。

 僕の前に加賀美さんと薬局で仕事をしていた林原と言う女性は、誘拐未遂だと言ったらしい。

 正にその通りだと言っておく。正確には、拉致した挙句の強姦未遂だ。本人がそうするつもりだったと言っていたから間違いない。成功するまでやる予定である事も分かっている。

 これは許せない。絶対に。

 陽介との付き合いは長い。けれど、徹底的にやり込めて、加賀美さんから手を引かせる方を即選んだ。

 里美の時、僕は全て被って引き受けた。別に感謝して欲しかった訳じゃない。ただ陽介の事を考え、立派な医者になって欲しかったから、細工しただけだ。

 けれど、僕の中の陽介と現実の陽介は気づけばかけ離れていた。加賀美さんを陽介に任せたいなんて、とても思えなかった。

 だったら、里美のやらかした事は『椿木家への借り』として扱い、きっちり清算し、立場を改めるべきだ。

 加賀美さんは、自分の事だけを考えてもう少し我が儘になっても良いのに。

 そう思って言葉を告げると、自分の事だけで精一杯だと言う苦笑交じりの声が聞こえて来て、思わず笑ってしまった。

 あなたがそうなのは、人が怖いからだけど、それだけじゃない。人の日常を壊さない様にと、心を砕いているからでしょうに。

 人の平穏を願う気持ちを持ち続ける優しさを捨てられないから、無防備なのだ。

 とりあえず加賀美さんにとって、僕はただ事情を知っているだけの後輩でしかない。守りたいと思うがそんな権利はまだ無い。

 まずは、陽介を何とかしなくては。

 僕は大きく伸びをして、部屋の窓を開けた。

 建て直す前の古い二階の部屋で、陽介に勉強を教えてもらっていた頃を思い出す。あの頃は、こんな風になるなんて思ってもみなかった。……どこでこんな事になってしまったのだろう。

 たった二日前、偶然拾っただけの加賀美さんに肩入れして陽介と関係を断つのは、凄く辛い。里美と別れた時よりも重くて苦しい。

 加賀美さんとは、ほんのちょっと前まで職場の先輩と後輩だったのだ。それすら日が浅い。しかも僕は片思いだ。間違いなく。

 馬鹿な事をしでかさない様にしなくては。

 まず里美の夫である木崎に、メールをして年内に何処かで会えないか聞いてみた。もし木崎が上手く里美を支配下に置いていた場合、僕はやり方を変えなくてはならない。借りを返してもらうのは、陽介限定に絞り、椿木先生やおばさんは、巻き込まない様に慎重になる必要がある。

 すると木崎はわざわざ夜に電話をして来て、今日にでも会いたいと言い出した。……これはきな臭い。

 早速、合流場所を決めて、部屋を出た。上着を持って外に行こうとすると、母が台所から顔を出した。

「あんた何処に行くの?晩御飯は?」

「いらない。友達と食べて来る」

「そう言うのは早く言ってちょうだい!から揚げにしたのに食べないの?」

 事件に巻き込まれた僕を、元気付けるつもりだったのだろう。見なくても分かる。大皿に一杯、から揚げが盛ってある筈だ。昔から僕の大好物だ。匂いでそうだろうとは思っていたけれど、すっかり忘れていた。

「ごめん。明日食べるから、置いておいて」

「出来たてがおいしいのに」

 文句を言いつつ、母は台所に引っ込んだ。

 僕は外に出て、白い息を吐いた。ポケットに手をつっこんで駅に向かう。以前通勤していた路線に途中で乗り換える。

 数か月前に話をした、個室のある居酒屋に向かったのだ。

 中に通されると、木崎は既に待っていた。以前と違う部屋で、しかも左右の隣も人が入っていて、笑い声が聞こえてくる。

「遅くなってすいません」

「いや、こっちこそ、いきなりで悪かったね。四人用の個室でも、この時期はすぐ部屋を取らないと満席になるんだ」

 木崎は相変わらず人の良さそうな顔で笑った。……少し、やつれた気がする。

「丁度良かったよ。俺から連絡しようかと思っていたんだ。今、どうしてる?」

 そんな感じで話が始まって、僕は派遣明けに正社員になる事を話した。

「山本は真面目だもんな。お前なら大丈夫だと思っていたけれど直に聞いて安心したよ」

 嬉しそうにそう言って笑う。……けれど、乾杯した時だけで酒も食事も一切手を付けない。

「木崎さんは、今どうですか?」

 聞いてみると、木崎は一瞬黙り込んだ。

 そしてボロボロと涙を溢れ出させ、鼻水を垂らし始めた。……最近、人の泣いているのをよく見る気がする。正直、男の涙とか、どうでもいいのだが。

 おしぼりを渡すと、それで顔を覆う。それからくぐもった声がした。

「里美が浮気してる」

「え?」

 予想外の展開に頭が追い付かない。

 聞いてみると、状況が見えて来た。

 仕事を辞めた里美は専業主婦になった。

 僕と木崎にやった事を二人が知っていると知って、大人しく暮らしていたそうだ。しかし、飽きたらしくスポーツジムに通いたいと言い出したそうだ。妊活の一種だと言うので、木崎は気楽にそれを許した。

 すると早速友達が出来たそうで、ジムに毎日行く様になり、昼にSNSで連絡を入れても、夕方まで返信が来ない様になった。

『ジムで気付かなかった』

 返信はいつもそんな感じで、絵文字や可愛いスタンプと共に、許して欲しい、あなたが好きだから捨てないで、と言う文章が書かれていた。

 それが繰り返され、スタンプも絵文字も無くなり、文章もすっかり短くなって、定例文と化した。現状がその状態らしい。

「真っ黒じゃないですか」

 SNSのやり取りを見せてくれたので見るが、呆れる程に返信がおざなりな物に変化していた。

「うん。やっぱり山本もそう思うんだ……」

 木崎の新居は、この近辺にある家族向けの賃貸マンションだった筈だ。椿木医院とは少し距離がある。

 里美は結婚するまで、実家で家族の目に晒されていたが、結婚して木崎の居ない時間帯に野放しになっている自分に気付いてしまったのだろう。遅くなっても駅まで迎えに来る兄も居ないし、家族と土日だって別だ。

 それで今まで見た事の無い世界を覗いてみようとして、目覚めてしまったのだ。

「何も言ってないんですか?」

「言ったよ。ジムなんてやめてしまえ、とね」

 僕は呆れて木崎さんを見た。

「それじゃ、浮気は認めないし、やめたって、昼間に浮気を継続します。浮気をやめさせないと」

「俺、もう疲れた」

 木崎は大きくため息を吐いた。

「山本が折角色々してくれたのに、どれだけ一緒に暮らしても、里美とは信頼関係が築ける気がしない」

「証拠は、あるんですか?」

「ある。すぐに証拠は見つかったよ……」

 里美のスマホの中身は、実はパソコンから丸見えだった。どれだけ鍵をかけても、スマホと同じアカウントでパソコンにログインすれば、メールの中身だって見えてしまう。

 木崎は結婚当初にそう言う設定をパソコンにしたのだそうだ。

「万一山本に連絡をしていても、気づかないのは嫌だったからやった仕掛けだったんだ。だから、SNSがどうなっているか知らない。……メールだけなのに、想像を絶するものが沢山出て来たよ」

 少し赤くなった鼻を鳴らしながら、木崎はしょんぼりと告げた。

 何を見たんですか?とは、さすがに聞けなかった。僕も聞きたいとは思わなかった。

「実は、僕も陽介とちょっと関係を仕切り直したいと思っていまして……。一緒に椿木家に洗いざらい、話をしに行きませんか?」

「一緒に、来てくれるのか?」

「木崎さんが居ないと証明できませんから。僕の転職理由」

 木崎は、目に見えてほっとした顔をしていた。

「弁護士とか呼んだ方がいいのかな」

 椿木家は示談を望むだろうし、懇意にしている弁護士が居る。だったらこちらも弁護士が必要だろう。

 暫く考えて、僕は父に電話をした。

「何処に電話してるんだ?」

「僕の父親です」

 そう素早く答えると、通話になった。

『どうした?大智』

「父さん、話があるんだけど弁護士の知り合いって居ない?」

『いないよ。……何かあったのか?』

「実は今、民事……離婚とかそう言うのに強い弁護士を探しているんだ」

 父のため息が聞こえた。

『いい年をして、親に心配ばかりかけるもんじゃないよ。昨日の今日で今度は何なんだ』

「ここじゃ話せない。帰ったら話すよ。弁護士は自分で探す。ありがとう」

 そう言って通話を切ると、木崎が心配そうにこちらを見ていた。

「そう言えば、山本のお父さんって、警察官だったっけ」

「そうです。だから伝手が無いか聞いてみたんです。そう都合よくは行かないものですね」

 いい年をした男二人で相談に行けば、証拠もあるしあちらも対応が丁寧になるだろうと言う事で話がまとまり、木崎さんがネットで弁護士を探す事になった。

「雇うのに幾ら掛かるとか、そう言うのはどうでもいいよ。明日中に弁護士に会えるように動く。一緒に来てくれるか?」

「いいですよ」

 木崎は、現状を親に話せていないそうだ。

 木崎の親は、地元で高齢者向けのマンションに入って暮らしているそうだ。

 家を壊して売り払い、それに自分の貯金を足して、年金で生涯暮らせるマンションに移したのはお兄さんなのだそうだ。年が八歳離れていて、普通に会社員をしているお兄さんは転勤族なのだとか。

「親父の調子が悪くてね。元の家に居たら大変だったと思う」

 今居るのは、管理者やヘルパーまで居る施設だそうで、全室バリアフリーになっているそうだ。

「兄貴は凄い男でね、俺はどうやっても勝てなかった。今回も思うよ。……俺の結婚は失敗だった」

 木崎は、寂しそうに笑った。

「親にも兄貴にも、できるだけ迷惑を掛けないようにしたいから頑張るよ」

 僕も、頑張らないとな……。

 木崎と別れて家に帰ると、から揚げと両親が待っていた。かなり遅い時間なのに、母も起きていた。

 里美と僕に関する一部始終を吐き出し、今木崎が離婚をしたがっている事を説明した。

 父が渋い顔をして言った。

「お前は弁護士を使って、慰謝料を取るのか?」

「取らない。いらないよ。僕はただ、昨日の事件で一緒に居た加賀美さんに、陽介が近づかない様にしたいだけなんだよ」

 そこで偶然具合の悪そうな加賀美さんに出会い、陽介に介抱を手伝ってもらった事から、陽介が加賀美さんを気に入った事、加賀美さんに対して、かなり強引な扱いを考えている事を手短に話した。……加賀美さんの過去の事情は一切話さない。話せない。

 父も、加賀美さんを待ち伏せて強引に車に乗せた陽介の行動には眉根を寄せた。

「加賀美さんが陽介絡みで酷い目に遭ったら、僕はマツノ薬局で正社員になっても、ずっと後悔すると思う。……里美にも酷い目に遭わされたし、椿木家との関係に線を引こうと思っているんだ」

 母は不服そうに言った。

「奥さんは、本当に良い人なのよ?先生だって優しくて、お爺ちゃんもお婆ちゃんも看取ってもらったのに。あんただって陽介君には良くしてもらったじゃない」

 そんな事は僕だって分かっている。身を持って知っている。子供の頃からの付き合いだ。

 けれど性的にだらしないとか、モラルが戦前並と言うのはここ最近で身を持って知った事だ。

 そんな奴らと昔なじみだからって、目を逸らして付き合うのは……きっと間違えているし出来ない。

「職場の女上司が、強姦まがいの方法で陽介の嫁にされるのを僕が見過ごしたら、きっと椿木先生が頭を下げてバツイチの里美を僕に押し付けてくると思う。いいの?」

 母は、青くなって首を左右に振る。父も渋い顔をしている。

「そんな、滅多な事言うもんじゃないわ。そんな事起こらないわよ」

 小さな幸せを当たり前に守って来た人達に、こんなドロドロした話はしたくなかった。

「ごめん。でも、起こってからじゃ、手遅れなんだ」

 母が、我慢出来なくなって泣き出した。

 父は、母の背中をさすりながら言った。

「母さんを泣かせるな。……とにかく、私はお前を信じる。好きにやりなさい」

「父さん……」

「ただ一つだけ条件がある。私も同行させてもらう」

 思い掛けない言葉に、僕は驚いて声が出なかった。

「別にお前の為じゃない。お前と里美ちゃんの旦那さんだけでは、母さんの立場を守ってくれないだろう?私が母さんを守らないといけないからね。……それが結婚の時の約束だから」

 母はぐずぐず泣きながら、父を見ていた。

「お前には教えていなかったけれど、母さんは交通事故の被害者遺族なんだ」

 母方の祖父母は、両親が結婚する前に亡くなったと聞いていたけれど、詳しく話を聞いた事が無かった。……どうやらその事故が馴れ初めだった様だ。

「これ以上傷つく必要のない人だと思って、一生守ると決めている。……もう大人なんだから、子供の喧嘩を家に持ち込んで親を困らせるな」

「……分かった。母さん、ごめん」

 母は涙を拭きながら、ぽつりと言った。

「そうね。起こってからじゃ、遅いんだわ。私、結婚してからずっと幸せだったから忘れていたわ」

 父みたいに、加賀美さんを守れたらいいのに。本気で思った。

 翌日、木崎から連絡があって、弁護士の所に行く事になった。

 四十代の岡と言う男性弁護士は、年末にいきなり押し掛けた割には、笑顔で親切に対応してくれた。

 弁護士との打ち合わせをすると、木崎は結構な額を、慰謝料として里美に請求できると言う話になった。

「結婚してすぐに浮気している証拠は揃っているので,離婚は出来ると思います」

 木崎がほっとした表情になる。

 出されたコーヒーを飲みながら、手続きに必要な書類や経費なんかの話をされて、木崎は素直に応じている。……僕も、この経費が妥当なのか、良く分からない。

「木崎さんの場合、長く結婚されている訳でもありませんし……早めに離婚された方がいいです」

 そして僕の方を向く。

「山本さんも、木崎さんの奥さんを訴えるのは可能ですよ」

「僕はただの元カレです。婚約もしていませんでした」

「そこは、問題じゃないんです。木崎さんがプリントアウトしてきたメールは、去年の分からあるんです」

 つまり、木崎と僕、二人と同時に付き合っていた頃の証拠があると言う事だ。

「あなたは木崎さんの結婚式に出た後、職場を辞められています。非常に不名誉な理由だった事は、お勤めだった会社の上司もご存知ですよね?訴える事は十分に可能です」

 里美に二股された挙句、職場を辞めた事は名誉棄損だと言うのだ。

「どうなるんですか?」

 木崎に提示された慰謝料の金額とは、桁が違う少ないものだった。当然、そんな物はいらない。

「僕は訴えません。元々、家が近所で家族ぐるみの付き合いをしていました。今までの関係は改めるつもりですが……お手を煩わせる事は無いと思います」

「そうでしたか。では、木崎さんの方だけ手続きをさせて頂きますね。もし、何かお困りになられたら私の方へご連絡下さい。相談は無料ですので」

 岡はそう言って僕に名刺を渡すと、具体的にどうしたいのか木崎の話を詰め始めた。

 あっさりと、弁護士の知り合いが出来てしまった。

 加賀美さんの為になるかも知れない。……大月の刑罰が決まって服役をしたその後、万一を考えると弁護士の知り合いも必要だろうから。

 大晦日、僕は父と一緒に椿木家を訪れた。

 木崎が離婚の話を切り出して、里美を家から追い出した後だったので里美も椿木家に居たし、家族全員、憔悴しきった様子だった。

 陽介も、加賀美さんにまで目が行っていない様子だった。

 木崎には、今の浮気の話だけで離婚の話をする様に、岡と話している時に打ち合わせていた。僕も同意した。

 悪い話が複数出てくると、相手が開き直って長引くので、結婚前の話とは分けた方が良いと岡が勧めて来たのだ。木崎の望みはより多くの慰謝料を取る事では無い。速やかな離婚だ。その意思を汲んでくれたのだろう。

 だから、僕の話は僕が片付けなくてはならない。父は母の為だと言っていたが、結局僕を守る為に付いて来たのだ。

 免許更新窓口のおじさんだが、歴とした警察官だ。側に居るだけで椿木家には十二分に重たくて怖い存在だった様だ。

 僕が話があるから父と一緒に行くと陽介に連絡すると、居間に全員が集まって青い顔をして固まっていた。陽介と里美は、二人掛けのソファーで両親の後ろに立っている。

 反対側のソファーに、僕は父と座った。

「改まって、どうしたんですか?」

 陽介と里美の父である椿木先生が、僕じゃなくて父を見て言った。

 父は何も言わなかった。僕が言うべき事だからだ。

「僕が陽介に話をしに来たんです。父はその立会人です。聞きたいなら皆さん聞いて構いません」

 陽介が、変な顔をして僕を見ている。

 僕は砕けた口調で、陽介に向かって話を始めた。

「僕が勤め先を辞めた事は知ってるよな。里美との事は、僕が振られて木崎さんと結婚したって事で丸く収めたんだよ」

 里美の顔が真っ白になって行く。

「本当は里美が入籍を拒んで、僕と二股をしていた事実を木崎さんに暴露した。それまで僕も木崎さんも、何も知らなかった。里美が言わなければね。それで木崎さんは、僕にわざわざ謝罪に来たんだ。良い人だったしお世話になった人だから、僕が辞める事にしたんだ」

 僕は、木崎にもらった里美のメールのプリントアウトの一部をリュックから取り出して机の上に置いた。去年の今頃のやり取りだ。二股していた事が、見ればわかる部分を少しだけもらったのだ。

「陽介には世話になっていたし、先生にはお爺ちゃん達が世話になった。だから僕が全てを被って、表向き、椿木家に迷惑を掛けないようにしたんだ」

「何で今更言うんだよ。もしかして木崎とグルなのか?」

 陽介が、噛みつきそうな表情で僕に言う。

 椿木先生とおばさんは、ただただ青くなって俯いている。

「そうじゃないよ。僕は慰謝料も取らないし、この話を外でする気は一切無い」

「じゃあ、わざわざ親父さん引き連れて何しに来たんだよ」

「加賀美さんに近づくな」

 椿木先生達が、誰だ?と言う顔をしているので、僕の転職先の女性上司とだけ告げる。

 陽介は一瞬驚いた後、引きつった顔でにやっと笑った。

「何だ、惚れたのか?だったら、そう言ってくれれば良かったのに。分かったよ。手は出さない」

 陽介が、両手を挙げてそう告げる。

「悪いんだけど、信用できない。前、加賀美さんをドライブに誘ったって話、していたよね?」

「ああ……」

「連絡先を交換していたのに黙って待ち伏せて、車に乗せたそうじゃないか」

 椿木先生が、ぎょっとして陽介を振り返る。

 陽介が父の顔を一瞬見て目を逸らした。……警察官を見て、初めて犯罪に近い行動だったと理解したのだ。

「加賀美さんはね、陽介から逃げる方法を考えて、産休中の同僚を頼って押しかけてしまったんだ。その同僚は話を聞いて、誘拐未遂だと言ったそうだよ」

「そんなつもりは無かった!」

「なら強姦未遂だ。僕に加賀美さんは多分処女だから、抱いて運よく妊娠すれば、一生付いて来るとか言っていたよね?」

「ただの男同士の話だろうに。何で、そんなに怒ってるんだよ」

 椿木先生もおばさんも、陽介の決定的に間違えている部分に気付いたらしい。真っ青になって僕を見ている。

「僕は里美に対して、そんな風に考えた事、無かったよ」

 里美が泣き崩れ、陽介は硬直した。

「自分の妹がそんな目に遭ったら許せないのに、どうして自分は良いと思うんだよ!僕は陽介を尊敬していたのに、何でそんな風に裏切ったんだよ!お前が尊敬できる存在のままなら、こんな事言わなくても良かったのに!」

 喉から嗚咽混じりの大声が出た。こんなに感情的にならない筈だったのに……。気付けば立っていて、掌には短くした筈の爪が食い込んでいる。

「すいません!私の責任です。どうか赦してください」

 椿木先生がソファーから下りて、土下座する。

「先生は悪くありません」

 僕はそう言ったけれど、先生は土下座したままだった。おばさんまで先生の横に来て土下座を始める。

「赦して下さい!」

 そんな事……していらない。見たくない。僕はこんな展開をぼんやりと想像していたが、目の当たりにすると、胸が痛くて苦しくなった。

 僕は、茫然と立っている陽介を睨んだ。里美はソファーで見えない場所にしゃがんで泣いている。

「ちゃんとやってくれよ。……これが幼馴染としての最後の忠告だ。僕はこの事を誰にも言わない」

 里美の泣き声だけが響き、誰も動かない。先生もおばさんも丸くなったままだ。

 父が初めて声を発した。

「私も、この秘密は絶対に他言しません。勿論、妻も同じです。これは警察官だからではありません。今まで椿木先生や先代の先生に、両親がお世話になった事、陽介君の影響で自分の夢を持てた大智がその夢を叶えて仕事をしている事、妻がこれまで奥さんに親切に接して頂いた事、これらに対する感謝の気持ちからです。ただ……今後、我が家は交流を断たせて頂きます」

 言い終わると同時に、父は僕の背中を軽く叩いた。

 それを合図に僕達は椿木家から出た。

 父が少し前を歩く。僕はその後ろに続いた。

 結局、僕は何が出来たんだろう。そう思うと悔しい気分になった。……やはり、二十七歳は若造なのだと思う。

「加賀美さんは良い人か?」

 父に思いがけない事を言われて、少し黙る。

「良い人と言うよりも……不当な扱いに対して、上手く立ち回れないから、見ていてハラハラする」

「そうか……」

 父が少し笑った気がした。

 少し歩いて、元々言おうと思っていた事を告げる。

「僕、家を出るよ」

 家で母の食事を食べて、こうして父に守られている暮らしを終わらせたいと思ったのだ。

「大人なんだから、何処でも行きたい場所に行けば良い。お前を家に縛る為に育てた訳じゃない」

「ありがとう」

 こうして、僕の波乱づくめだった一年は幕を閉じた。


 大月は、執行猶予付きの懲役刑が決定した。

 家に隠し持っている覚せい剤も無くて、買う金欲しさに私からお金を巻き上げようとしていたらしい。医師免許をはく奪されたのかどうかは……知らない。

 ただ麻薬中毒患者専門の施設で、薬を断ち切ろうと治療をしている情報だけは教えてもらった。

 そんな施設があるのだから、麻薬中毒患者と言うのは多いのだと思う。怖い話だ。

 コアラ小児科クリニックは閉められて、そのまま数か月を待つ事になった。

 皮膚科だけの静かな時間が過ぎて、春になった。

 コアラ小児科クリニックの内部に工事が施され、新たに『とうまち耳鼻咽喉科』と言う病院になった。……結局、小児科を開業する医者が居なかったのだ。

 小児科の患者は、別の小児科に流れる事になった。

 元々小児科のあった場所だから、耳鼻咽喉科に子供の患者は相変わらず良く来る。急性中耳炎の子供達が、カラフルな抗生物質の粉薬を受け取って帰って行く。

 そして大人の患者が増えた。

 花粉症は今や春だけではないのだ。秋にもアレルギー性鼻炎と診断された患者が来る。その場合、まとめて一か月分の内服薬を処方されるので、数えるのが大変な日々を過ごしている。

 皆、コアラ小児科の話を一切しない。

 正月に安藤先生が危篤になり、意識が無いと、橋本から教えられたからだ。

 代診の医師がなかなか見つからなかったから大月が来たのだと、事情が分かった以上、聞く事など無かったのだ。

 自分の治療よりも子供達を優先し、癌の進行を知っていながらぎりぎりまで我慢して働いていた安藤先生が、ようやく見つけられたのが大月の様な医者であったと言う事実を口にするのは、憚られたのだ。

 派遣社員で来ていた二人の内、山本君はそのまま正社員になって薬局に残った。

 コアラ小児科の患者が居なくなり耳鼻科の客がまだ少ない事もあり、もう一人の派遣社員は期間終了と同時にこの薬局を去った。

 橋本は退職を引き延ばし、社員のまま様子を見る事になった。何でもこなす三村がそれを聞いてとても喜んでいたのが意外だった。新しい病院との関係や薬の事を考えれば橋本の存在は心強かったから、同じ気持ちだった事が嬉しかった。

 そして、季節は廻っていく。

 また寒い季節になり、忙しくはなったけれど、胃腸風邪の様な症状の患者は来なくなった。来るのは、主に喉の痛みや、咳、鼻水などの症状を訴える人だ。子供も大人もやって来る。

 抗生物質と抗炎症剤の在庫チェックが欠かせない。

「加賀美さん、そろそろ帰りませんか?」

 山本君の声で顔を上げると、八時近かった。

「そうだね」

 私は立ち上がって、

「更衣室で着替えてくる」

 と、山本君に告げると、待っていますと返って来た。

 正社員になって間もなく、山本君は一人暮らしを始めた。場所は私と同じ駅で、私の部屋とは駅の反対側にある、賃貸マンションだった。

「家から通うと、ここは一時間以上かかるので出てきました。同じ駅で場所はこれです。見かけたら、声でもかけてください」

 なんて言いながら駅からの道程を書いた、手書きの地図を渡してくれた。

 私は何故か少しだけ、ほっとした気分になっていた。

 万一大月が現れても、椿木が現れても、この道筋を辿れば山本君の家に辿り着ける。そう思ったら、安心してしまったのだ。

 素直に受け取って、ずっと財布に入れている。お守り代わりになっているのは内緒だ。

 山本君はよく一緒に帰ろうと誘って来るが、部屋まで送って行くとか、何処かに行こうなんて事は言って来ない。

 女性の一人歩きは危険です。なんて言ってしょっちゅう送って来てもらったら、家に上げなくてはならない気分になる。そういう息苦しい事を山本君はして来ない。

 何かあったら、すぐ連絡してください。と言うだけだ。

 そんな気安さもあって、駅周辺で夕ご飯はよく一緒に食べる。男性と二人でご飯を食べると言うのはもっと緊張すると思っていたのに、うんと年下である上に、色々と知られている事もあって案外居心地が良い。

 色気も何もない、中華料理屋だったり、チェーンの居酒屋だったりする訳だが、それも私としてはありがたかった。

 駅への帰り道、白い息を吐きながら、今日三村に聞いた話をする。

「産休だった林原さん、復帰するからよろしくね」

「いつからですか?」

「千奈ちゃんは、保育園に四月から行くから、四月だね」

 千奈ちゃんとは、林原の娘だ。小川を説得し、千奈ちゃんの為に家を建て直す事はすぐに決まった。

 そうなるとお金が必要と言う事で、林原はさっさと復帰すると宣言、旦那である小川を黙らせた。

 実際、出張(昆虫の採取)以外は、家で仕事をしている小川は、千奈ちゃんが居ると仕事にならないらしく、家を建て替えて仕事部屋をきっちり確保する事と、千奈ちゃんの保育園入りをあっさり認めたと言っていた。

 保育園の申請も無事に通ったそうだ。

「当分は時短勤務だけど、仕事大好きだから、来てくれたら助かると思うよ」

「そうですか」

 山本君と林原は、私から互いの話を聞いているだけで、まだ一度も会った事が無い。

 二人の気が合えば、職場はより気楽に過ごせる場所になる。しかし、林原はズケズケと物を言うし、山本君も一見大人しそうだが芯が強い。どうなるんだろう……。

 そんな事を考えつつ歩いていると、

「そう言えば、あの事件から一年経ちますね」

 と、山本君が言った。

 あの事件……。私達の知っている事件は一つしかない。

「事件発生は一年前の明日だよ」

 私がそう言うと、山本君は立ち止まった。つられて私も立ち止まる。

「違います。僕にとっては今日からなんです」

「そうなの?」

「今日は、加賀美さんを拾った日です」

 一年前と同じリュックを背負って、今と同じ様に目の前に立っていた山本君を思い出す。

 急に恥ずかしくなって俯く。

「あの時は、お世話になったね」

 そう言えば、椿木はぱったりと連絡も待ち伏せもして来なくなった。

 点滴代も、持って来た請求書の代金を山本君から払っておくと言うので、お金を渡したきりだ。最近は椿木の事などすっかり忘れていた。

「あのとき助けてもらえて良かったよ。お陰で今こうして居られる。ありがとう」

 私が笑うと、山本君は何とも形容しがたい表情になった。怒っている様な、それでいて、にやけている様な。

「加賀美さん……前から言おうと思っていたんですが」

「何?」

「僕の前で、あまり無防備にならない方がいいです」

「どうして?山本君はいい人だよ」

 一体、どうしたのだろう?

「僕は善人じゃありませんよ」

 山本君はそう言うと、駅に歩き出した。

 何を言いたいのかさっぱり分からないが、その背中を必死で追いかける。

 駅の改札を抜け、電車で同じ車両に乗る。

 人が多いから、何も聞けない。

 電車を降りても山本君はこちらを見ないで、駅の南口改札から抜けて出て行ってしまう。私の家は北口側だ。

 一瞬迷って、結局南口を出て行く山本君を追いかけてしまった。

「待って、山本君」

 山本君はこちらを向いてくれない。ただ黙って歩いて行く。

 そのまま彼の一人暮らしのマンションに向かっているのが分かったので、そのまま付いて行く。

 ……善人じゃない?そんな訳ないじゃない。私を助けてくれたのは山本君なのに。

 山本君の住むマンションが見えた頃、山本君は振り返り、忌々しそうな顔で私を見た。

「何で付いて来るんですか?」

「山本君の様子が、ちょっとおかしいから」

「ええ、おかしいですよ」

 山本君は素直に認めた。

「調子、悪いの?」

 心配になって一歩近づくと、山本君は更に顔を歪めた。

「加賀美さん、少しは疑うとか、警戒するとか、覚えてください」

「山本君に、警戒する必要なんてあるの?」

 山本君は、顔をしかめたまま低い声で言った。

「学習しましょうよ。僕が同じ駅に部屋借りて、それを口実に一緒に帰ったり、飯食ったりしているの、全然警戒していないですよね?」

「山本君は、いい人だから大丈夫」

 山本君は不機嫌そうに背中のリュックを下し、何かを出して差し出した。小さな四角い包みだった。リボンが掛けられている。

「いい人は、嫌な事件から一年経った記念にプレゼントして、自分の事を意識させようなんて思いませんから。そんなに信頼されると心が潰されそうです」

 包みを更に押し付けて来るので、私は思わず受け取ってしまった。

「えっと……」

 一体全体、何がどうなっているのか?

「こんな所まで、のこのこ付いて来て……僕が部屋まで行ったら、上がり込む気でしたね?その後どうなるのか考えましたか?僕、男ですよ?」

 私よりも、六歳年下の若い男の子で恩人、職場の後輩。

 そんな風に考えていた相手が、その言葉一つで成人男性へと認識変換されて行く。

 意味を理解するよりも早く、顔が熱くなるのを感じた。

 物をくれる。警戒しろと言う。善人じゃない、男って……もしかして。

「山本君の目には、私が普通の女に映ってるって事?」

「ずっとそうですよ!あなた、自分を何だと思っているんですか!」

「……薬局のおばちゃん」

「今時、三十代で結婚なんてよくある話じゃないですか。その人達、怒りますよ?多分」

 同じ年齢の林原も結婚したのは、三十歳を過ぎてからだった。既婚で子供も居るが、おばちゃんなんて言ったら……恐ろしい報復を受けそうだ。

「加賀美さん、自分で思ってるよりもずっと若いです」

 去年、椿木にそんな風な事を言われた時には、そう言う事を平気で言える人だと思っただけで、何とも思わなかった。

 しかし目の前の山本君に言われるのは、重みが違った。色々あった。一年一緒に仕事をした。軽々しく社交辞令を言う性格じゃないのも知っている。何故、そんな事を知っているのか?帰宅ついでに、食事に何度も行って話をしたからだ。……二人で。

 山本君がごくりと唾を飲み込むのを見た。……私も、喉がカラカラだ。

「僕はいい人を卒業します。それ、いらなかったら捨ててください。返品とか傷つくので止めて下さいね。今日はそれを言いたかっただけです。……おやすみなさい」

 山本君はそう言うと、私に帰れと言わんばかりに背後の駅方面を指さした。

「おやすみ」

 私はそれだけを言うと、小さな包みを手に持ったまま、その場から退散した。

 道を曲がるまで、山本君が背後で見ているのを感じた。

 道を曲がるとその場にうずくまりたくなった。しかし、頑張って家まで歩いた。

 家で鍵を開けて部屋に入って、包みをそっとテーブルに置いてからそこに座り込んだ。

 じわじわとさっきの事を思い出す。

「うわぁぁぁ」

 顔を覆うと同時に、声が出る。

 何なんだ、これ!

 もらった物の事じゃない。今の出来事の事だ。こんな事、自分に起こるなんて夢にも思っていなかった。

 だから訳が分からない。林原に相談しようかと思うが、速攻で却下した。

 一年前から会った事も無いのに、林原は山本君と結婚しろとか言っていた。こんな事を言ったら、凄く喜ぶ。そして職場復帰したらニヤニヤされる。……それは嫌!

 と言うか、山本君、物くれただけで私をどう思っているか、ちゃんと言わなかったよね?

 違う。……言えなかったのだ。言おうとして止めてくれたのだ。私の反応を見て。

 恋愛経験は無いけれど、山本君がどういう人かは良く理解している。それは分かる。

 私の周囲が落ち着き、不安も薄れ、普通に暮らせるようになっているか、山本君は慎重に見極めていたのだ。

 全てが片付いたと判断して、山本君は今回の行動に移ったのだ。

 私は何かが起こっても、起こらなくても、自分の事しか考えていなかった。

 だから近くに住んでいようが、二人で一緒に帰ろうが、食事をしようが、山本君に対する認識は一年前のままだった。それも見抜かれていたのだ。

 六歳も年下なのだ。……同年代とすら恋愛をしてこなかった私が、意識するのは難しい。それに私には傷がある。背中を見られるのは、想像するだけで怖い。

 あれ?……今、山本君に背中を見せるとか考えた?服脱ぐの?山本君の前で?それで何する気?

「うわぁぁぁぁ」

 また声が出た。恥ずかしくて死ねる。

 こんな感情が自分にもあるなんて、思った事も無かった。

 ちょっと、待て。

 私は暴れている自分の気持ちを、無理矢理固めて縛り上げた。

 私だってこの気持ちを深く掘り下げれば、何が出て来るのか分かっている。……こんな人には二度と出会えないだろうから、一生に一度の事になるだろう。

 けれど、どうしたら良いのか分からない。結婚したいとか、子供を産みたいとか、何も考えていなかった。そんなの、全然分からないのだ。

 山本君は二十八歳だ。まだ良い出会いがあるかも知れない。そのとき私の気持ちで、山本君を繋ぎとめる自信は無い。

 私は、山本君の望みを知らない。私とどうなりたいのか、どうしたいのか、それを見ようとしなかったから分からないのだ。

 いらなかったら捨ててくれと言われた、小さな包みをじっと見る。大月のくれた封筒は開けたいと思わなかったけれど、目の前の箱の中には興味がある。

 山本君が私をどんな風に見ているのか、見ればわかる。そう思うと見たいと思った。

 恐る恐るリボンを解いて紙の包みを開けると、某有名メーカーの腕時計が出て来た。

 これ……捨てられないんですけど!

 いらなかったら捨ててくれと言われたけれど、デザインもシンプルながら凝っているし、お値段も素晴らしく張る予感がした。

 しかも使っていなければ、すぐに気付かれる物な訳で……。

 うちの薬局は、染髪、アクセサリーが禁止になっている。例外は結婚指輪と腕時計だけだ。よく患者さんが何時に薬が出来るか確認する事があるので、腕時計は良いと言うか必須アイテムだ。

 思わず手に取って、着けてみた。

『僕は、いい人を卒業します』

 の意味は、

『僕を男として意識してください』

 だったのだ。

 腕時計から、山本君の気持ちが伝わって来る気がした。私は手首に巻き付いた腕時計をじっと見ていた。

 困ると言うには甘い感情が腹の中でうねっている。嫌悪感なんてちっとも湧かない。……死ぬ程恥ずかしいけれど、同じ位、嬉しい。

 無かった事に出来そうにもない自分に、大きくため息を吐いた。何て厄介な感情なんだと、生れて初めて思った。


 加賀美さんは鈍い。

 春、加賀美さんの家の近所にあえて物件を探して引っ越してきたのに、ほっとした顔をされた。

 ある意味、僕が一番危険な存在だ。それなのに何でそんな顔をするのかと、精神的に微妙な感じになった。

 信頼されているのは純粋に嬉しい。しかし、同時に全く意識されていない事も身に染みた。……少し、凹んだ。

 近所だから一緒に帰ろうと誘えば、断らない。ついでだから食事でもどうですか?と、誘えば、酒まで一緒に飲んでしまう。……僕と二人きりなのに。

 加賀美さんは、僕がどんどん勧めて泥酔状態にするなんて微塵も考えていないんだなぁ、と思う。居酒屋に行くのは、やはり複雑だった。

 酒が回って来ると、聞いた事に案外素直に答えてくれる。しかも、自分の言った事を寝ると忘れてしまう。見た目はあまり変わらない。でも酔うと目が少し眠そうになる。

 そんな事が分かる程度には、一緒に酒を呑んだ。

 男に家まで送られるのは嫌い。近くまで来るのも嫌。加賀美さんはそう言った。

 下心の有無に関係なく、自分の生活圏に入って来るのが嫌なのだそうだ。

 十五歳でかなり有名な進学校に合格し、寮で生活していた頃にそうなったとか。寮は男子と女子に別れていて、相部屋は無く全て個室だったそうだ。

 そのまま大学も就職も実家から離れてしたから、もう人生の半分以上が一人暮らしだ。

 自分で自分を守ろうと言う意識がずっと続いているから、相手がどんな人間であれ、自分の内側に招き入れると言う意識が皆無なのだ。

 僕は、少しずつ加賀美さんの日常を聞き出した。

 仕事は手を抜かない。その代わり仕事が終わると緩み切って家に帰り、色々な入浴剤で風呂に入るのが好きだそうだ。

 寮生活の頃と違い、好きな時間に好きな様に風呂に入れるのが嬉しくて、ずっとそれが続いているそうだ。

 てっきり市販の入浴剤だと思っていたら、色々な温泉から通販で取り寄せた『湯の花』が好きらしい。温泉に入った事が無く、江戸時代から湯治があった事から、体に良いのか知りたいと言っていた。

 露天風呂の事も不思議がっていた。景色を見ながら風呂に入ると言う感覚が、全く理解できないらしい。外から見られないのか?雨の日はどうなってしまうのか?不思議そうに聞いて来た。……僕だって入った事はあるけれど、そんなに詳しくない。曖昧に返事をするしか無かった。

 薬剤師は忙しい仕事だ。有給を消化しない事が多い。しかも加賀美さんは幼い頃の傷を気にしているから、人と風呂に入るなんて考えもしないのだろう。

 立ち仕事で足が疲れるから、風呂でいつもふくらはぎをもんでいるそうだ。これを怠ると案外辛いと笑っていた。

 テレビは持っていない。ニュースや天気は、スマホでチェックするそうだ。

 テレビは何となく見続けてしまい、翌日辛くなるから買わない事にしたそうだ。

 某テレビ局から受信料の請求が来るので、渋々受信料を払っているとか。……スマホやパソコンでテレビを見られるから、と、受信料を取りに来た人に言われ、その場で自動引き落としの申し込み用紙を書いてしまったと言っていた。

 何度もそんな人が家に来るのは、加賀美さんの性格からして我慢できないだろう。大月の時と対応が同じだ。

 パソコンも持っているが、ノートパソコンで主に薬のデータや新薬の勉強用に使っている。

 最近、調子が悪いので新しいのに変えたいけれど、新しいパソコンに古いパソコンのファイルを自力で移行できるか心配している。

 そんなの僕がやりますよ。なんて言ったら、信用して僕をあっさり家に入れてしまうのだろう。他の人は入れたくない場所なのに、僕なら入れる。優越感は得られるだろうが、無警戒なのが気に食わない。

 僕はそんなに男らしさに欠けているのだろうか?確かに背は低い。けれど、見た目も線が細い訳じゃない。気が弱い訳でも無い。

 何時になったら、加賀美さんは僕を意識してくれるのだろう?

 そんな風に考えていたら、林原と言う産休の人の話になった。先週の居酒屋での事だ。

 元々は、気が強くて仕事一筋だったらしいが、子供の写真をメールに添付して、ほぼ毎日送って来るらしい。

 加賀美さんは、それを乳児の観察日記を無理やり読まされていると評していた。

「林原さんとは、年取ってからも友達で居られると思っていたけれどなぁ……」

「別に友達で居ればいいじゃないですか」

「多分、今みたいに遠慮の無い関係で居られるのは、もう少しで終わりだと思う」

 加賀美さんの主張によれば、時短勤務で子供優先の生活を始めてしまえば、林原も気付くと。……フルタイムで独身の加賀美さんとは話が合わなくなる事に。

 実際、今も子供の話ばかりになってやり辛い気分になっているらしい。

「男は結婚や育児で変化しないから、分かんないだろうね……。逆に妻子持ちってだけで、独身より待遇良くなるんでしょ?子育ても家事もしないのに。女は同じ様に働いていても、いきなり変わっちゃうんだよ?結婚したり、子供産んだりした途端にさ」

「そうかも、知れませんね」

 珍しく絡んで来る。ちょっと酒量が多めかな?と思って聞いていると、

「まぁ、私には関係のない話だけどね。どっちかと言えば、独身女が定年退職まで働いた後どうなるのか知りたいね」

 軽く笑って日本酒をすする姿に、怒りが湧いた。その怒りは居酒屋を出て、部屋に帰っても続いた。

 加賀美さんの未来には、僕は全く存在していない。二人で一緒に帰り、飯を何度も食ったのにこの関係を何とも思っていないのだ。

 加賀美さんは、人間そのものに興味を全く持っていないのだ、と思い至る。

 家族と疎遠になった経緯は聞いた……居場所が無くて家を出たのは分かる。だから、たった一人の世界に安らぎを求めて、静かに受け止めている。

 そのせいなのだろう。居心地の良い環境さえあれば、感情の揺れる様な強くて深い人間関係はいらないのだ。

 どうして、こんな人を好きになってしまったのだろう。僕自身、自分で自分の事が分からなくなる。

 六歳も年上で、そんな面倒な女やめておけよ。

 心の中で、冷静な自分が告げる。

 止められるなら止めている!

 里美で酷い目に遭ったのに、またおかしな女に惚れて趣味が悪すぎる。

 もう恋愛なんてしないと思っていたのに、気付けば加賀美さんを好きになって、無自覚なまま加賀美さんの事情に首を突っ込んでいた。去年の加賀美さんを帰り道に見かけた時からの数日は、一生忘れられない。

 白い顔をして座っている加賀美さんを見捨てられなかった時から……僕はこの道を選んでいた気がする。

 里美の望んでいた劇的な展開が、加賀美さんと僕の間にはあった……筈だ。それからほぼ一年、信頼関係を強固なものにして、こちらを意識してもらおうと自分なりにかなりギリギリまで攻めたつもりでいた。

 一歩間違えば気持ち悪がられる。ストーカー扱いされる。そう思いながらも、近くに居たくて……緊張しないで、自分の事を話してくれると嬉しくて。

 けれど今のままでは、一生いい人のままだ。性別も何も無い。人間として、加賀美さんの静かな人生を邪魔しない、無害な人間で終わってしまう。

 雄として加賀美さんに求愛行動をすれば、加賀美さんの感情は大きく乱れるだろう。怖がられるかも知れない。煩わしくて逃げ出すかも知れない。嫌われてしまうかも知れない。

 でも伝えなくては、僕の気持ちが収まらない。もしダメなら、僕だって諦める為の区切りが欲しい。

 本当は受け入れて欲しい。小心者で優しいあの人が、仕事人間の皮を被ったままたった一人で生きていくのかと思うと、自分の事の様に辛くなる。

 自惚れかも知れないけれど、僕は加賀美さんを裏切ったりしない。幸せにするとまでは言い切れないけれど、ずっと一緒に生きて行く事は出来ると思っている。

 加賀美さんだって一人に慣れているとは言え、ここ一年、かなりの頻度で一緒に帰ったし食事もした。僕が居なくなれば寂しい筈だ。……多分。

『恋愛とか興味ない。男としてなんて見られないよ。何歳離れてると思ってるの?』

 笑いながらそう言う加賀美さんを想像して、あり得ると頭を抱える。

 悪い方にばかり考えてはいけない。

 だから、速やかに行動に移す事にした。

 残念ながら、薬局ではアクセサリーを身に付けられない。禁止なのだ。

 三村さんとパートさん達が結婚指輪をしている以外、皆ピアスもネックレスも着けていない。加賀美さんも当然そうだ。

 帰宅時に見ても、何も着けていなかった。

 そんな風にお金を使う気が無いのだ。

 ……気楽に受け取ってくれそうな物が無い。僕は湯の花になんて、全く興味が無い。それに消耗品なんて贈りたくない。贈るなら、僕を思い出してもらえるものがいい。

「あ……」

 三つ、加賀美さんが身に着けている物を思い出す。

 一つ目は通勤鞄だ。お気に入りだそうで、長く使っていると言っていた。もう次は同じ物が無いから買いあぐねていると言っていた。

 二つ目は財布。……これも鞄と同じメーカーで、鞄が良かったので買ったそうだ。買い替えたいと言う話は聞いていない。

 三つ目は時計だ。仕事場でも許可されていて、皆、着用しているのだが、加賀美さんはどうもしっくり来ていない様子だった。

 バンドの材質が合わないのだろう。仕事が終わるとすぐ外してポケットにしまってしまう。

 確かに、時計は値段の幅が大きい。色々なメーカーを調べてみたけれど、男性用に比べるとデザインも様々でレパートリーが多い。

 多分、イミテーションであれ、石があしらわれている様な時計は、加賀美さんの好みではない。それを除外して時計を見ていると、目に留まったのは有名メーカーの女性用腕時計。これは加賀美さんに良く似合いそうだと思ったが、定価を見て絶句した。

 ……これを贈っていらないと返品されたら、僕は立ち直れないかも知れない。

 しかもこんな物をいきなりあげたら、加賀美さんがどうなってしまうかも分からない。

 けれどこの時計をもらってくれれば、捨てられる事はまずない。修理しながら、長く使ってもらえる事になるだろう。

 僕があげた物を一生使ってもらえるかも知れない。

 そう思うと、勝手に体が動いていた。平日の休みに僕は勢いのまま直営店に足を運び、実物を見せてもらって、一番良さそうだと思う物を選んで買ってしまった。

 勢いで買って部屋に戻ってから僕は箱の前に正座して、どうやって渡せばいいのか全く考えていなかった事に頭を抱える事になった。

 加賀美さんの誕生日は……知らない。もう三十四歳になったらしいので、過ぎているのは確かだ。

 クリスマスプレゼントだと言えば受け取ってもらえるだろうが、きっとお返しをしようと同等の物を用意しようとするだろう。……価格は聞かれたくない。きっとびっくりする。それにプレゼント交換をしたい訳じゃない。一方的に僕があげたいのだ。

 じゃあ、どうやって渡す?

 何も無いのにいきなり高級腕時計を贈るなんて、頭がおかしい奴としか思われないだろう。

 恋は盲目と言うけれど、僕は自分が完全に馬鹿になっている事を自覚する。頭の中で花畑の花がはびこり過ぎて、正しい思考が出来ないのだ。

 ……もういい。馬鹿なまま渡してしまおう。そうしよう。

 加賀美さんを知れば知る程、物凄く大変な事をしないと意識してもらえない自分に気付いて、今こんな事をしているのだ。だったら、その感覚を信じて突き進むしかない。

 失敗した時の事は、考えない様に必死に思考を止める。今怖気づいたら、きっとこの先も渡せない。

 そして加賀美さんと深い縁の出来た日から一年の記念に渡そうと思って話を切り出せば、本当に『いい人』扱いされている事に絶望して、少し腹が立った。

 純粋な感謝。僕に好かれたいと媚びるでもなく、本当に素直な言葉。

 今から破壊的な行動を起こす僕に、そんな言葉はいらないのだ。

 ちっとも分かっていない加賀美さんに、いきなりは渡せない。これはダメだと直感し、明日まで少し考えてもらおうと思いつつさっさと帰ると、僕の家の方まで付いて来る。

 今度は純粋な心配だった。これもまた腹が立つ。僕は何もしないと思っているのだ。

 僕も男だから、当然加賀美さんに邪な感情を抱いている。家に上げるなんて当然出来ない。……それこそ、どうなるか分からない。

 だから僕は、苦し紛れに腕時計を押し付けて加賀美さんを家に帰した。指を指して、来た道を戻れと強く促した。

 加賀美さんは、素直に帰って行った。

 部屋に帰ると、もう何も考えられなくなっていた。

 明日からどうなるのか、全く分からない。

 とにかく体を動かせば気が紛れるからと、洗濯をしてみたり、風呂に入ったりしていたけれど、すぐにやる事は無くなってしまった。

 こんな時でも腹は減るもので、空腹に耐えかねて冷蔵庫の中を見た。

 ……何も無い。

 一人暮らしを始めて一番困ったのが、食事だった。

 毎日何を食べれば良いのか、ちっとも分からない。母が用意してくれている物をずっと食べていたから、料理なんてした事が無い。

 コンビニ弁当は、気に入ったもののローテーションになった。カップラーメンは、よく昼に食べているから夜は止めている。朝はトーストと青汁に決めている。……野菜を食べなさいと言う母の言葉に応える為に渋々そうしたのだ。もう慣れたが、美味いとも思わない。

 家で作ろうと思って、休みに食材を買って来るものの美味くない。一人で不味い物を作って食べるのは、ある種自虐行為だと思う。

 仕方ない。コンビニに行こう。

 僕はスウェットのズボンだけをジーンズに履き替え、上にコートを羽織って靴下と靴を履くと、駅前のコンビニに行く為に財布を掴んだ。

 外に出ると、雪がちらついている。

 去年も雪だったな。

 あれから一年、加賀美さんを好きだと自覚してから一年。好きになるまでは一瞬だった。そこから先は……何も進んでいない。

 暗い夜道は、静かで誰も居ない。加賀美さんが望んでいる世界がこんな風だとすれば、寂し過ぎる。やはり一人で居て欲しくない。

 小走りで入ったコンビニには、殆ど弁当は無かった。仕方ないので菓子パンを買って帰った。

 菓子パンを食べながら、僕は寂しいです。あなたと居たいです。と心の中で呟いた。


 次の日、山本君のくれた腕時計をして薬局に行った。凄く緊張したけれど、意思表示をする為に頑張ったのだ。

 けれど出勤途中に山本君には会わなかった。着替えて調剤室に行くと、既に三村と一緒に何かを話していた。

 腕時計の有無は嫌でも見える筈だから、これで意思表示になると思っていた。けれど、お昼も帰宅時も、何も言われなかった。

「お疲れ様です」

 今日は三村が在庫のチェックをしていたので、私はさっさと帰る事になった。

 山本君は、三村の作業を手伝っている。

 二人とも、お疲れ様です。と返してすぐに作業に戻ってしまった。

 新しい耳鼻咽喉科になってから、さすがに在庫の調整に慣れないのか、三村も残業をする様になった。

 やはり経験で在庫を把握していたんだなぁと感心しつつ、これならまた数年で傾向を覚えて、残業しなくなってしまいそうだな。とも思う。

 三村は効率重視だ。非効率な事をするのを嫌う姿勢は、ちょっと冷たく映る。要はとっつき難いのだ。

 けれどここ最近知った。実際は早く家に帰って、娘さんとの時間を作りたかっただけなのだ。

 三村は林原に娘が生まれた報告の後、酒の席でぽろっと白状した。

 上の息子さんには、そんな事をした事も無かったそうだ。とにかくまだ若くて、薬剤師として仕事に追われていたし、黙って働いている背中を見せれば良いと思っていたのだとか。

 実際、息子さんは自分から飛びついて来て、遊んで欲しい、おもちゃが欲しいと、欲求を素直に言う子供だったそうだ。

 そこに、少し離れて娘さんが生れた。

「懐かないんだよ……娘は」

 抱っこすれば泣いてのけぞって嫌がる。それ以後も懐かない。

「全部私任せで、何もしないからこうなるのよ」

 と、奥さんにニコニコ笑って言われ、奥さんの愛も失いそうな自分に気付いたそうだ。

 そこで連休が簡単に取れない仕事だから、せめて残業を減らそうと必死になったのだとか。

 そんな合理主義者で、家族を大事にする三村が残業をしている。元々在庫把握の下手な私はこの先どうなるのやら。

 山本君は元の職場が大学病院のすぐ外の薬局だっただけあって、在庫把握の仕方が全く違う。在庫管理そのものは殆どしていなかったそうだが、流れは把握していた。三村はその話を参考に聞きながら、私ではなく山本君に自分のノウハウを教えている。

 私の方が長く勤めているのに、山本君の方に色々教えるんだと思うと少し嫌な気分になる。男社会だな、と思ったのは確かだ。

 けれど、私も悪かったのだ。山本君にもらった腕時計を着けていた事もあって、彼を気にして一日過ごして気が付いた。

 今までも思っていたけれど、山本君は本当に仕事が正確で速いのだ。

 子供の体重に合わせて粉薬を調剤して分包するのも速い。

 小児科の処方で慣れている作業だが、山本君は最初から私と同じ位のスピードでこなしていたと思う。……今は私よりも速い。

 最近、大人の患者が増えた。

 仕事帰りや昼休みに駆け込んだ男性の処方などしていると、早く薬が欲しいと言われる。

「何分くらいで、出来ますか?」

 なんてよく聞かれる。

 そういう人達は仕方なく病院に来たから、時間をかけたくないのだ。……市販薬が効かない程こじらせているのだから、薬はかなり強烈な物になってしまう。用法や分量を間違わない様にちゃんと伝えなくてはならない。

 とうまち耳鼻咽喉科の、籐町先生は、五十歳近い元勤務医で耳鼻科の専門医だ。そう言う患者さんのニーズに対応して、一度に複数の種類の薬を大量に処方する。

 私は、そう言う大人向けの服用薬を大量に用意するのに慣れていない。だから遅い。

 そんな薬や患者の違いにも、山本君は真っ先に順応していた。

 私がもたもたしていると、その間に数人の患者の処方と受け渡しを終わらせていく。

 ピッキング、速っ!

 心の中で叫ぶ。

 ピッキングとは、薬を処方箋通りに棚から集めて用意する事を言うのだが……八年やっている私よりも、速いのだ。

 更にその後の作業も、手元を見て驚いた。数を確認し、シートを重ねて束ねて……あのスピードで間違わないとか、私には無理だ。

 思い返せば調剤室が小さいと言っていた気がする。……薬の位置さえ覚えてしまえば、最初から全ての作業が簡単に出来たのだ。

 前に居た大学病院の側にある薬局は、扱う薬の種類から患者の数まで、色々な意味で殺人的な職場だったと言っていたから、そこで培われた技術だろう。

 何故、彼がその職場を辞めて派遣社員になったのか、それすら知らない。椿木の妹との関係がこじれて辞めたと椿木は言っていたが……人の事情に首を突っ込む余裕は無くて、聞こうともしなかった。

 一緒に仕事をしたりする中、彼が面倒見の良い事を実感しているだけに、前の職場がいくら劣悪な環境だったとしても、放り出したとは考え辛い。……これだけの腕に育てた薬局も、手放すのを惜しんだ筈だ。

 そこまで元カノの事を好きだったのだろうか?

 今更聞けない。私はこの時計を貰うまで、自分の気持ちにも山本君の気持ちにも無頓着だったのだから。

 我が儘な部分が囁く。

 好きになるなんて思ってなかったんだから、仕方ないじゃない。今から素直になって、身も心も預けてみれば?仕事も出来て面倒見の良い人だから、受け止めてくれるかもよ。

 一瞬考えて、強く頭を振った。

 馬鹿じゃない?もう三十四だよ?二十代の男に本気で寄りかかって捨てられたら立ち治れない。死んじゃうわよ!

 完全に寄りかかったら、後が怖い。でも少しだけ、この気持ちを表に出して、山本君に伝えたい。私はこの誘惑に勝てなかった。

 こう言う感情を知らなかった。だから、制御の仕方なんて分からない。全部を包み隠して平然と暮らすのは無理だ。

 今日だって、十分に挙動不審だっただろう。いい年をして恥ずかしいが、どうにもならなかった。

 あれだけの事を言っておきながら、平然としている山本君の方が不思議だった。何を考えているのか、全然分からなかった。

 駅から家に帰る途中、その事を思い出して悲しくなった。ちょっと泣きそうになっている自分が情けなくて、更に悲しくなった。

 時計くれたのに、どうして何も言ってくれないの?私、好かれていると思ったのに、間違えていた?

 立ち止まると、視界が歪んでぐちゃぐちゃだったのでハンカチを目に当てた。

 これ、ありがとう。凄く嬉しかった。

 笑ってそう明るく言うつもりだった。けれど実際に山本君を目の前にしたら、何も言えなかった。他の人も居たし、喉がカラカラで声なんて出なかった。

 私の仕事が遅れていく中、山本君は平然とハイスペックぶりを発揮して仕事をこなしていた。

 スペックの違いに愕然として、年齢だけ上で、人としての経験値でも負けている事に気付いて、打ちのめされた。

 今日の挙動不審っぷりを見て、山本君は幻滅したに違いない。もう、好かれている気がしない。私の好きはどうなってしまうのだろう?

「……泣いているんですか?」

 背後から声がした。

 荒い息をして、走って来たらしい声に体が跳ねた。

「何でもない」

 振り返らずにそれだけ言うと、ため息が聞こえた。

「スマホにメールしたんですが、見ましたか?」

 へ?……メール?

「帰りに駅で待ち合わせしましょうって、メールしたんですけど返信が無くて、電話にも出ないし……焦ってここまで来たら……泣いてるし」

「泣いてない!」

 嘘ばっかり。……何だか滅茶苦茶だ。

「だったら、こっち向いてください」

 情けない。本当は目が真っ赤な筈だ。完全に負けている。渋々振り向くと、肩で息をしている山本君が居た。私は暗がりである事から、泣いてない、を貫く事にした。

「泣いてない」

 山本君は返事をしない。……当たり前だ。暗いとは言え、街灯の下だ。見えない訳が無いのだ。

「とにかくここは人目もあるし、寒いです。何処かで飯でも食いましょう」

「分かった……」

 そんな訳で、駅に引き返す事になった。

 入ったのはファミレスだった。

 メイクが崩れているからトイレに寄りたいと言うと、山本君はちょっと笑った。

 やっぱり泣いていた癖に。と言いた気な視線から逃げる様にトイレに向かう。

 今日一日で、立場が大きく変わってしまった気がする。仕事場でもプライベートでも。

 もう、山本君は私を先輩とは思っていないだろう。

「何、食べますか?」

 メニューを渡してくれるのは、いつも通りだ。私がグラタンを単品で頼むと、注文時に山本君がケーキとドリンクバーを付けた。

「山本君、ケーキ食べるの?」

「二個注文しました。後で一緒に食べましょう」

 そう言われてしまうと頷くしかない。

 会話が途切れて俯くと、

「机の上に、腕出してください」

 と言われる。

 少し迷っておずおずと両手を机の上に出すと、山本君の手が伸びて来て、私の手を向かい側から握った。

 一瞬で耳まで赤くなったと思う。けれど山本君は気にしていなかった。目線は手首に集中している。腕時計をしている左手首に。

「バンドとか、違和感ありませんか?」

「ないよ。これ、凄くいい時計だね」

 ゴワゴワもゴロゴロもしない。いつも仕事が終わると疲れてくる。手首が重くて外したくなるのに、これは外したいと思わなかった。

 山本君は、手を握ったまま言った。

「僕がどれだけ嬉しかったか、加賀美さん、分かっていないんじゃないですか?」

「分かったよ。だから、手を離そうか」

 ここにも人目がある。正直、手を握られているのは恥ずかしい。

 素直に手を離してくれてほっとする。

 喉がカラカラで水を飲んでいると、

「泣かれるくらいなら、薬局で言うんでした。……付き合って下さいって」

 水を噴くのは、辛うじて防げたけれど咳き込む事になった。

 山本君は、自然な動きでこちら側に座ると、密着して私の背中を撫でた。どさくさに手まで握る。水を飲んでいるタイミングを狙って言った、確信犯だと悟った。

 咳が収まると、壁際に押しやられてボックス席に閉じ込められた格好になっていた。

「山本君?」

 引きつって声をかけると、山本君は笑った。

 今まで見た事の無い様な笑い方だった。

「人目があるから何もしません。ただ……一年はちょっと長かったかなって思って」

「一年?」

「僕が加賀美さんを好きになってからの期間です」

 そんなに前から……そう思ってドキドキする反面、何だか怖い。

 口元は笑っているのに、目が怖いのだ。……本能的にザワザワして何だか逃げ出したくなる。山本君も本能的に、私が逃げ出そうとするのを察知して逃げられない様にしているのだ。

 これは人格の枠を超えた部分の何かが作用している。脳内ホルモンの仕業だ!

「ここに入った時はこんな事をするなんて、僕も思っていませんでした。でも時計している手を見たら……ちょっとおかしな気分になりました」

 手は握られたままだ。山本君の親指が手の甲を撫でている。これは……性的な何かではなかろうか?何だかムズムズする。

「料理が来る前に、席に戻って。逃げないから。お願い」

 かなり弱々しい声だったと思う。山本君は大きく息を吐くと手を離し、元の席に戻ってくれた。

 やっぱり、山本君はいい人だ。

 表情で読み取ったのか、

「僕は、いい人じゃありませんからね」

 忌々しそうに山本君が言う。エスパーか!

「それで、返事は?」

 山本君がこちらをじっと見て言った。

 付き合ってくれだの、好きだの言われていたのを忘れていた。返事の代わりに腕時計をしていたつもりだが……どうやらそれではダメらしい。

「分かるよね?」

 へへっと笑うと、山本君が物凄く冷たい表情になった。

「知っていますか?男にもらう物だけもらって、別れる女って言うのが居るのを」

「そんな事しない!しないから!」

 そうは言うものの、確かに私は山本君の言葉に答えていない。

「ここは……ちょっと」

 周囲を見回してそう言うと、山本君が冷たい表情のまま言った。

「じゃあ、何処なら言えるんですか?僕は既にここで色々言っているんですが。誰も気にしていませんよ」

 ……あ。

 自分の部屋、アウト。山本君の部屋、アウト。薬局、論外。他の場所って、何処?

「ちょ、ちょっと待って!」

 私は無い知恵を振り絞ってスマホを取り出すと、慌ててメールを打った。

『私も同じ気持ちです』

 すぐに山本君のリュックから、着信音がした。

「メール来てるよ」

 山本君は一瞬ぽかんとした後、また冷たい表情になった。さっきよりも目が据わっている。

「そう来ますか。僕のメールを見ないで勝手に泣いていた人が」

「泣いてない!」

 山本君が言い返す前に、料理が来た。

「エビグラタンと、チーズハンバーグのセットです」

 単品のグラタン、サラダ、スープ、ハンバーグとご飯が置かれて、店員は去って行った。

 ナイス店員!いいぞ。

「食べようよ。冷めちゃうし」

 よし、これで今日は切り抜けた!食べたら解散だ。

 そう思っていたら、山本君が不穏な表情で言った。

「僕はいい人を卒業すると昨日言いました。……ちゃんと予告しましたからね」

 そんな事を言っていても、山本君はきっと私の逃げを許してくれる。私はそう信じていた。


 この人は何なんだ?

 僕は心の中で、頭を抱えていた。

 朝からかなりおかしな動きをしていた。何か言いたそうにしながらこっちを見ているのに、何も言わない。……でも、ちゃっかり腕時計をしている。

 ガチガチで仕事になっていなかった。周囲もおかしいのは分かっていたのだろうが、誰も声を掛けられない程のテンパりっぷりだった。

 昼休みに駅で待ち合わせようとメールをしたけれど、返事は無かった。

 三村は、本当は加賀美さんと来年からの在庫管理について話をしたかったらしいが、目に余る挙動不審ぶりに、そのお鉢は僕に回って来た。……これでは一緒に帰れない。またメールしなくては。

「新人の頃から見ているけれど、あんな加賀美さんは初めて見たよ」

 僕のせいです。すいません。とは言えなかったので、

「僕もです」

 と応じると、三村はにやっと笑った。

「山本君もおかしかったよ。加賀美さんが凄過ぎて霞んでいたけど」

 そりゃ、おかしくもなる。仕事は仕事って割り切っていたつもりだけれど、少し漏れていたらしい。

「そうですか?ははっ」

 笑って誤魔化すと、三村はダンボール箱の中を覗きながら言った。

「寝たの?」

 こんな事言う人だったのか!

 驚いて見ていると、ちらっとこちらを見て笑った。

「まぁ、仕事に差し支えない程度にね」

 ……激しく誤解された気がする。そこまで行ってない。まだそんな段階では無い。

 丁度そこで、

「お疲れ様です」

 加賀美さんが、ぎこちない様子で帰りの挨拶をしてきた。

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 僕と三村の返事を聞くと、見るからに青ざめて去って行った。

 三村もそれに気付いたらしい。と言うか、全然何も隠せていない。加賀美さんはダダ洩れだった。明らかに何か誤解をしているのが、誰の目にも明らかって……。

「放って置いたら、ちょっとまずくないか?」

「僕もそう思います。あの、この話は明日でもいいですか?」

「いいよ。何か俺もムラムラしてきたし、帰るわ。閉めておくから行っていいよ」

 エロオヤジですか!人の恋愛を肴に、奥さんと盛り上がるつもりですか!

 とは言えないので、

「すいません。お疲れ様です」

 と、頭を下げてロッカーに戻る。

 スマホを見たが、返信は無かった。電話もしてみたが、出ない。

 きっと一杯一杯で、何も見えていないし、聞こえていないのだ。

 本当に三十四歳か?あの人。

 恋愛経験はゼロだろうと予測していたが、ほぼ確定した。

 とにかくちゃんと伝えないと、変な風に考えそうな事だけは分かった。

 電車は同じにならなくて、一本乗り遅れた。北口を出て走って行くと、見覚えのある背中が立ち止まっているのが見えた。

 ……泣いてるし。

 年下の僕に対するプライドが許さないのか、最後まで泣いているのは認めなかった。

 とにかく捕まえられてほっとする。部屋に入っていたら、出て来ないし、電話にも出ない状態になっていた筈だ。そして明日からは、無視されていたに違いない。危なかった。

 ファミレスに引きずって行くと、告白の返事を目の前でメールを打って返すと言う、斜め上を行く方法でもらった。

 そんな物、認めるか!

 僕は一年間、加賀美さんの望むいい人に徹して我慢した。その返事がそれか?それなのか?

 ここで、たった二文字の返事を声に出していれば良かったのに。……後悔させてやる。

 密室で二人になったら問題があるから気遣ってここに来たのに、そこまでして言わないなら言わせるまでだ。

 そうだ。全部三村が悪い。あんな事を言うから、加賀美さんの服の下を想像してしまった。前々から想像していたのは否定しない。けれどエロオヤジが盛大に着火したから、僕の頭の中のいい人は灰になった。

 試しに触っても、加賀美さんが赤くなるだけで手を引っ込めて逃げない。……タガが外れた。それでも耐えようと思っていたのに、さっきの態度はあんまりだ。

 コーヒーを持って来て飲んでいると、加賀美さんは笑って言った。

「明日からよろしくね」

 きっと関係を仕切り直すのは、明日からだと言いたいのだ。

 ……このまま帰る気だ。この人。

「はい。じゃあ、帰りましょうか?」

 とりあえず、表向きは普通に振る舞っておく。薬剤師は接客業でもある。

 笑わなくてもいいが、嫌そうな顔は出来ない。職業病で、隠そうと思えば不機嫌な態度は外に出なくなる。

「うん」

 微塵も疑っていない顔に、昨日まで抱いていた罪悪感は……無い。

 警告はした。だからもういい。

 ファミレスでは、いつもの割り勘を拒否して僕が全部支払った。

「今日から加賀美さんは僕の彼女なんですから、当然です」

 加賀美さんが赤くなって固まっている内に、支払いを済ませた。今日から、と言う部分に力を入れた事に気付いていない。

 外で、素早く手を繫ぐ。ここで逃げられたら終わりだ。絶対に逃がさない。

「山本君、手……」

「彼女だったら、普通です」

 そうなのかどうか、必死に考えているのがダダ洩れの加賀美さんに爆弾を投下した。

「それで、どちらに帰りますか?」

 目を皿にする、と言う表現がぴったりの顔で、僕をまじまじと見た加賀美さんは、俯いて小さな声で言った。

「私の家に決まってるじゃない」

 送ってもらうだけのつもりでいる!

 営業用の顔もほぼ崩れた。とりあえず笑顔だけ作って言った。

「じゃあ、髭剃りとパンツ欲しいので、コンビニ寄って行きますね」

 避妊具を買う事は言わない。せめてもの慈悲だ。

 加賀美さんが絶句してから、悲鳴の様な声で言った。

「じゃあ、ここで解散しようよ!」

「嫌です」

「まだ、早いよ!」

「遅かれ早かれ同意があればやる事です。……避けられません。避ける気もありません」

 事実を指摘すると、加賀美さんが青い顔で言った。

「じゃあ、彼女やめる」

 言うと思った。子供か!

「死にませんから」

「でも」

 僕は加賀美さんに顔を近づけた。加賀美さんはのけぞっている。

 そんなに怖がらなくても、公道でキスするつもりは無い。

「ここでする話じゃありません。分かりますよね?部屋に行きませんか?」

 止めてやるとは、絶対に言わない。

 それに気付いているのか、いないのか、加賀美さんは小さく頷いた。

 コンビニでも逃げられると困るので、手を繫いだまま買い物をした。避妊具をカゴに入れる様に頼むと、泣きそうな顔をしていた。……結局、その場所にずっと立っているのに耐えられず、入れてくれた。

 加賀美さんは、僕が酷いと思っているかも知れないが、酷いのは加賀美さんも同じだ。

 一年片思いをしていた挙句、告白の返事をメールでされた僕の生殺しは、年明け後まで続いたのだ。

 結局、加賀美さんの部屋に泊ったけれど、薬局が冬期休暇に入るまで、最後までやるのは我慢したのだ。

 こういう事が原因で仕事を休んで噂になるのは、きっと加賀美さんのダメージになるから。僕も嫌だ。節操無しのレッテルは張られたくない。三村が察知している以上、下手な事は出来なかったのだ。

 三村に煽られ、三村に抑止された。ちょっと恨む。

 ……我慢したと言っても、既成事実を作る一歩手前までは試運転として一方的に色々とやらせてもらったから、我慢とは言えないのかも知れない。

 抵抗らしい抵抗は無かった。声を出さない様に必死に力を入れて固まっていたから、その状態を止めてもらう事から始めなくてはならなかった。別に遠慮したつもりは無い。ただ僕はサドでは無いから、痛がられたり泣かれたりすると、萎えるのだ。

 その代わり、女の嫌がりそうな行為を普通の行為だと言い張って、最初からやったしやらせた。加賀美さんは、それを丸々信じた。

 信頼関係を一年かけて作った成果だと自分に言い聞かせ、背徳感を抱きつつも僕専用の加賀美さんを作るのに没頭し、生殺しをひたすら我慢した。

 年が明けて、加賀美さんが僕に触られる事に慣れて来たのを見計らって、ようやく避妊具は開封された。

 背中の痣は、思っていた程のものでは無かった。けれど女性が気にするには十分なものなのも分かった。これでは温泉に行った事が無いのも頷けた。

 僕が、傷は殆ど消えているし気にしない。と言ったら、加賀美さんは本当に嬉しそうに笑った。

「山本君がそう言うなら、もう平気」

 なんて言うから、すぐ触りたくなる。

 もっとサバサバした付き合いになると予想していたのに、思っていた以上に加賀美さんにハマっている自分に驚く。

 加賀美さんは恋愛経験が無いから、よく、それは普通なのか?と言う事を聞いて来る。

 様々な場面でこの質問が飛んでくるのだが……その時の不安そうな顔が堪らないと思っているのは内緒だ。

 僕はいつも、

「普通です」

 と、答える。

 加賀美さんは僕を信頼しきっているから、その一言で安心してしまう。

 ……それで、他の女が躊躇って超えないハードルをあっさり超えている事は黙っておく。

 年明け早々、指輪を一緒に下見に行ったり(ただのペアリングだから普通だと言ったら信じた)、付き合って一か月経たない内に僕の実家に連れて行ったり(付き合ったら挨拶するのが普通だと言ったら信じた)……山本君が普通だと言うなら仕方ない、と加賀美さんはのこのこ付いて来る。

 加賀美さんの親について聞いてみると、去年から交流が再会されたとの事だった。

 去年の事件の後、久々に連絡を取って、大月が捕まり無事に暮らしている事など、色々話した事で関係はだいぶ修復されている様子だった。……ただお母さんの方は、加賀美さんに会わせる顔が無いと言っていて、電話口にもあまり出ない。

 挨拶だけでも、と、お父さんとは電話で話をしたが、僕は同じ薬局に務めている事だけを告げて、あえて自分の年齢を言わなかった。

 何をしている人間なのかはっきりしたから、安心したのか、

「何もしてやれなかった娘です。私達の分までどうぞよろしくお願いします」

 なんて大層喜んでくれた。明らかに婚約者だと勘違いしているのが分かった。

 単に一人で寂しく暮らしていないから安心してくださいと言うつもりの挨拶だったのだが、加賀美さんの年齢を考えれば、そうなるのは自然だろう。

 あっさりと外堀が埋まったので、僕は満足した。もっと時間がかかると思っていたのだ。

 別に焦って結婚したいと思っていた訳じゃないけれど、変な知恵がつく前に家族になる契約が必須だと思う様になったのだ。

 僕が、何も分かっていない加賀美さんを凄い勢いで捕獲した事実は、後で気付かれる。

 四月に薬局に復帰すると言う、林原と言う人なら、その辺に間違いなく気付く。そして加賀美さんに言ってしまうだろう。そうなる前に何とかしたかったのだ。

 今は二月になったばかりだ。

 できるならそうなる前に、入籍したい。

 結婚しましょう。なんて言ったら絶対に拒否されるので、『結婚』の単語を外すのはもう決めている。

 『ダイヤの指輪を用意して、夜景の見えるホテルの部屋で跪いてするのがプロポーズ』なんて事は、加賀美さんは言わないから、これでいい筈だ。

 加賀美さんが、僕にハメられたと気付いて何か言って来てから、式はどうするか相談するつもりだ。僕はやってもやらなくてもいい。加賀美さんの意向を反映するつもりだ。きっと、より普通なのがどっちなのか悩んで、僕に文句を言うどころでは無くなるだろう。

 とにかく人生の重大な局面である事を意識させないで、あっさり決めさせる事が僕の目的だ。

「部屋二つを借りておくのは、不経済だと思いませんか?」

 隣に座ってパソコンを見ている加賀美さんに言う。今日は、加賀美さんの部屋に居る。僕が新しいパソコンを選んでデータを移行した。(パソコンの購入費は断られた)電源を入れてからの立ち上がりが早くなったと喜んで、今も薬のデータを閲覧していた。

 僕の言葉で、加賀美さんは手を止めてこちらを見た。

「うん。まぁ……そうだね」

 年末以来、ほぼ一緒にどちらかの部屋に居る。

 帰り道も一緒で、食事もしょっちゅうしていた仲だった事は無駄では無かった。

 加賀美さんは、まだいい人だと思い込んで僕を信用している。だからこうしてリラックスして側に居てくれるのだ。……告白に応じた途端、部屋に上がり込んで服の中に手を突っ込んだのだから、いい人の訳が無いのだが、まだ気付いていない。

「ついでに、入籍しませんか?」

 加賀美さんが目を丸くした。それって結婚するって事?なんて、聞かれる前に、僕は言った。

「ほら、補助とかも色々受けられて便利でしょ?同棲と違って筋も通しているから、薬局にも報告しやすいです。会社側が同じ薬局がまずいと考えた場合にも、僕か加賀美さんが別の薬局に四月から移動できると思います。早い方が薬局側にとっても、いいと思ったんですが」

 理詰め。邪悪な理詰め。年齢差とか、結婚準備とか諸々周囲への挨拶とか、そう言う面倒そうな部分を一切考えさせない、都合の良い部分だけをアピールした、理詰め。

「それはそうだけど……これって、普通なの?」

 僕は笑顔で答える。

「普通です」

 普通がどう言うものなのか、本当の所、僕にも分からない。異常だろうが何だろうが、僕はそれを悟らせずに突き進むのみだ。

「僕の事、好きならそうしてくれませんか?」

 捕まえたつもりでも不安になる。だから、不安な気持ちをそのまま声にも表情にも出す。

 加賀美さんは、僕の肩に頭を、こてん、と乗せて言った。

「……いいよ」

 内心、ガッツポーズをする。

 これで婚姻届けを出せば、捕獲は完了だ。

 何かを知らずにやらかして逃げられるかも、と考えながら付き合うのは辛い。国の法律による縛りの中に囲い込んで、落ち着きたかったのだ。……こんな無茶は二度としない。する気も無い。

 僕のやった事に怒りだしたら、部屋に露天風呂の付いている温泉旅館にでも行って、許してもらう予定だ。

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