第1話:婚約破棄
薔薇の香りが満ちる大広間で、リディア・ローゼンベルクの世界は終わった。
王立学園の卒業パーティ。
シャンデリアの光がドレスを照らし、貴族の子息令嬢たちが笑顔でグラスを傾けるなか、第一王子セドリック・ヴァルムが舞台中央で声を張り上げた。
「リディア・ローゼンベルク。そなたとの婚約を、この場をもって破棄する」
静寂が落ちた。
さっきまで演奏していた楽団が、指揮者ごと固まっている。リディアは三秒かけて状況を整理した。元・日本人のSNSマーケターとして培ったデータ処理能力が、今この瞬間だけは役に立たなかった。
「理由を聞かせてもらえますか、殿下」
「魔力ゼロ。それが理由だ。公爵家の血筋でありながら魔力の欠片もない女を、王妃に迎えるわけにはいかない」
隣にいたイザベラ・ハートマンが、いかにも申し訳なさそうな顔でリディアを見ていたが、目が笑っていた。
前世の社会人経験を含めるとアラフォーのメンタルを持つリディアには〜その顔の解像度がはっきりわかった。
(やってくれたわね。完璧な演出じゃない)
怒るより先に、職業病が頭をもたげた。大広間の全員がこちらを見ている。注目度ならば最高。ここで泣き崩れれば「憐れな悪役令嬢」として消費されて終わる。
リディアは背筋を伸ばした。
「承知しました」
それだけ言った。ただそれだけ言って、セドリックの顔が予想外にひきつるのを確認してから、優雅にお辞儀をした。
追放令が出たのはそのすぐ後だった。
廃ダンジョン。
王都の外れに口を開ける、百年前に閉鎖された旧式の遺跡群。魔物の巣窟であり、ろくな資源もなく、何より薄暗くて湿っている。
リディアは今そこにいた。ドレスのまま。ハイヒールのまま。晩餐会のフルコースを食べ損ねたまま。
「最悪」
呟きが石壁に反響した。松明を模した魔石灯がぽつぽつと浮かんでいる浅層だったが、足元は悪く、ヒールのかかとが石畳の隙間にはまるたびに心の中で罵倒した。
お腹が盛大に鳴った。
リディアは立ち止まり、天井を仰いだ。王立学園でパーティ用に用意されていたカナッペを一口も食べられなかったのが今になって響いている。怒りよりも先に空腹が来るあたり、自分は案外タフだと思った。
「食べ物。まず食べ物を確保しないと」
マーケターとしての思考回路が動き出す。現状の把握。リソースの確認。優先順位の設定。着の身着のまま追放されたので手持ちは皆無。魔力もゼロ。武器もなし。あるのは知識と根性だけ。
浅層なら凶悪な魔物は少ないはずだが、何かしら食料になるものを探さなければ体が保たない。
そう考えながら歩いていると、突然、光が見えた。
祭壇のような石組みの奥。淡く青白い光が揺らいでいる。
(魔石か、何かの罠か)
警戒しながら近づいたリディアは、石の台座の上に鎮座する存在を見て、目を瞬かせた。
猫だった。
茶トラに白が混じった、丸々と太った猫。ふかふかの尻尾を台座の縁に垂らし、前足でなにかを器用につかんでいる。細長い、金属の棒のような物体を。
棒の先端には、小さな水晶板が取りつけられていた。
猫はそれを完璧な角度に固定し、自分の顔に向けていた。水晶板が淡く輝いている。明らかに稼働中だった。
「……」
リディアは状況を把握しようとした。把握しきれなかった。
猫が自撮り棒を持っている。
しかも構え方がプロだった。
光源に対して三十度の角度。顎を軽く引いて顔を小さく見せる。背景は石造りの祭壇で、ミステリアスな雰囲気が出ている。
水晶板の端に、数字が流れていた。コメントらしきものが高速スクロールしている。
「……配信してる」
リディアが呟いた瞬間、猫の耳がぴくりと動いた。
琥珀色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
沈黙。
数秒の沈黙のあと、猫は渋い中年男性のような声で言った。
「おいそこの女。画角に入り込んでんぞ」
リディアは固まった。
「今『ソロキャン風絶望配信』の最中なんだから邪魔すんな」
水晶板の向こうで数字が跳ね上がった。
コメントが爆速で流れている。文字は読めなかったが、明らかに盛り上がっていた。
猫は舌打ちした。猫が舌打ちした。
「チッ。ビュー数が乱れる。おい、さっさとどいてくれ。邪魔なんだよ、そのドレス」
「……猫が喋ってる」
「神獣だ。失礼な」
お腹がもう一度鳴った。今度は静寂のなかで、よく響いた。
猫が眉根を寄せた。猫に眉根があるかはともかく、そういう顔をした。
「……お前、飯も食ってないのか」
「追放されたばかりなので」
「は?」
「婚約破棄と追放が同日に来ました。パーティの料理は一口も食べてません」
水晶板のコメント欄が、また跳ねた。
水晶板からほんのり温かい光(魔力オーラ)が漏れている
猫は長い沈黙のあと、自撮り棒を台座に立てかけた。そして盛大にため息をついた。
「……今夜は飯テロ回に変更だな。ったく、予定が狂う」
リディアは首を傾けた。
「あなた、今の状況を配信の素材にしようとしてますか」
「神獣は効率的なんだよ」
猫は尻尾をぴんと立てて、祭壇の奥へ歩いていった。
「ついてこい。多少の食材はある。ただし画角の邪魔はするな。あと名乗れ、カメラに映る以上は素性がいる」
「リディア・ローゼンベルクです」
「俺はにゃん吉。配信者だ。神獣としての本名は主夜神だが、覚えなくていい」
リディアは今日何度目かの深呼吸をした。婚約破棄、追放、廃ダンジョン、喋る猫、配信。
(まあ、なんとかなるか)
前世でもっと修羅場な案件を何十本も捌いてきた。自撮り棒を持つ神獣くらい、どうということはない。
リディアはハイヒールの踵を鳴らして、にゃん吉のあとを追った。




