第27話 朝になって慌てない準備
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
宿の土間は、朝から混んでいた。
旅人たちが黒パンをかじり、湯気の立つ粥を急いで食べている。
馬車の出立を待つ者。
荷を預ける者。
昨夜飲みすぎたらしい男。
人の流れは夜よりも速い。
真司は宿の奥へは入らず、土間の端に座らせてもらった。
布で包まれた丸い手は、どう見ても普通ではない。
余計な目を引く必要はない。
女将が木椀を置いた。
「ほら。あんたはここで食べな」
「ありがたい」
「手は使えないんだろ。匙を持たせるのも危なそうだね」
「そこまで来ると、人としての尊厳がまた削れるんだが」
「昨日の湯場でだいぶ削れてたから、今さらだよ」
「宿場町の朝から傷をえぐるな」
女将は鼻で笑った。
結局、真司は木椀を口元へ近づけてもらい、なんとか粥をすすった。
薄い味だった。
だが、温かかった。
「うまい」
そう言うと、女将が少しだけ目を細めた。
「なら、ちゃんと生きてるね」
「飯の感想で生存判定するのか」
「食えるうちは大丈夫だよ」
妙な説得力があった。
ルカも隣で粥を食べていた。
昨夜より顔色がいい。
湯浴みと睡眠は、ちゃんと人を戻すらしい。
ただ、ルカの視線は何度も宿の入口脇へ向いていた。
そこには、昨日並べた小袋が置かれている。
簡易応急セット。
夜間備えセット。
道中修繕セット。
出立準備セット。
木片には、セレーナの字で商品名が書かれていた。
朝になって慌てない準備が、ここにある。
その言葉の前で、出立前の旅人が一人足を止める。
「これ、まだあるか」
旅人が指したのは、出立準備セットだった。
ルカが椀を置き、慌てて立ち上がる。
「あります」
声が少し裏返った。
女将が横から言う。
「朝に紐が足りない、油紙がない、水袋の口が緩いって騒ぐくらいなら、持っていきな」
「昨日それで困った」
「なら買いな」
商売が早い。
旅人は苦笑し、銅貨を出した。
ルカが袋を渡す。
銅貨が鳴る。
一枚。
二枚。
真司は粥をすすりながら、その音を聞いた。
昨日の最初の一枚ほど、世界は止まらなかった。
けれど、今度は少し違う。
一度だけの奇跡ではない。
次も売れた。
それが、ルカの顔にゆっくり広がっていく。
「売れました」
「見れば分かる」
「はい」
ルカは笑った。
昨日と同じ言葉だった。
だが、今朝の笑顔は少しだけ違う。
驚きよりも、確かめるような嬉しさがあった。
女将は棚を見て、指で残りを数える。
「夜間備えも減ってる。出立準備は朝に出るね。次に同じ荷を持ってこられるなら、また置いていきな」
ルカは一瞬、言葉を失った。
「次も、ですか」
「売れるものは、次も置く。宿の棚は飾りじゃないよ」
ルカは胸の前で手を握った。
「はい。持ってきます」
真司は粥を飲み込み、小さく頷く。
昨日の売れ残りは、今日の注文になった。
それは、ただ銅貨が増えた以上の意味を持っていた。
◇
馬車溜まりへ持ち帰る食べ物は、木椀の粥ではなかった。
女将は黒パンをいくつか切り、干し肉と焼いた芋を布に包んだ。
小さな果物も二つ入れてくれる。
「馬車番の二人の分だよ。あんたたちはここで食べただろ」
「助かる」
「汁物を馬車溜まりへ持っていこうなんて考えるんじゃないよ。こぼすし、冷めるし、ろくなことにならない」
「そこは俺も同意見だ」
「ならいい」
女将は包みをルカへ渡した。
ルカは大事そうに抱える。
「ありがとうございます」
「礼は次の商品で返しな」
女将はそう言って、真司を見る。
「それと、ぬくみ石の籠の話。忘れてないだろうね」
「忘れてない。籠に入れて、四つくらいで回す。湯場と火のそばを、滑車か車輪で動かす。石を直接持たない。落とさない。ぶつけない。腰を壊さない」
女将の目が光った。
「やっぱり、詳しく聞く価値はありそうだ」
「今は無理だ。出立が先だろ」
「ああ。だから戻ってきたら聞く。戻ってこなくても、誰かに伝言を預けな」
「商魂が強いな」
「宿場町の女将だからね」
女将は笑った。
その笑い方は豪快だったが、目は本気だった。
真司は思う。
この世界には、便利なものがある。
ぬくみ石。
灯文鳥。
封じ札。
光る瓶。
けれど、その使い方はまだ人の手に頼っている部分が多い。
頑張る。
運ぶ。
持ち上げる。
見張る。
繰り返す。
それを、仕組みに変える。
自分ができることは、そういうことなのかもしれない。
◇
出立の準備は、馬車溜まりの端で静かに進められた。
昨日より荷は軽い。
ただし、馬車が直ったわけではない。
職人に添え木を増やしてもらい、縄を替えただけだ。
車軸はまだ不安を残している。
直した、ではない。
持たせる。
レグフォードまで。
ただそこまで壊れずに進めばいい。
荷台の奥では、ガレンが戸板ごと固定されている。
朝になっても、封じ布の黒い染みは大きく広がっていなかった。
セレーナが確認し、短く息を吐く。
それだけで、場の空気が少しだけ軽くなった。
御者とアースは、女将の包みを受け取るとすぐに黒パンをかじった。
夜通し見張りに立っていたのだ。
言葉は少なかったが、食べる速度で腹の具合は分かった。
セレーナは荷台の端、ガレンから少し離れた場所を指した。
「シンジ、ここに座って」
真司は自分の丸い手を軽く持ち上げて見せる。
「ここでいいのか? あんまり触らない方がいいだろ」
言ったあとで、少しだけ驚いた。
短く返したつもりだった。
だが、口から出た言葉は、思ったより自然だった。
ルカが頷く。
「うん。その位置なら大丈夫だよ」
通じている。
昨日よりも、ずっと当たり前のように。
真司は額の仮界紋に意識を向けた。
言葉が分かる。
話せる。
それだけで、世界は少しだけ近くなる。
「領都は、もう近いんだったな」
「はい。レグフォードには治療師がいます」
ルカの言葉も、自然に意味が入ってくる。
領都には正式な治療師がいる。
黒いものに詳しい者もいる。
だから、そこまで運ぶ。
それが全員の目的だった。
馬車がゆっくり動き出した。
ローデン宿場町の女将が、店先から手を振っている。
ルカが大きく手を振り返した。
真司は丸い手を少しだけ上げようとして、うまく上がらず、結局顎で挨拶した。
「また寄りな!」
女将の声が飛ぶ。
「次はその変な手じゃなく、ちゃんと商売の話をしに来な!」
「手は俺のせいじゃない!」
「それも含めて変なんだよ!」
馬車溜まりに笑いが起きた。
真司はため息をついた。
だが、悪い気分ではなかった。
売れ残りは、売り物になった。
湯場には、改善の余地と商売の匂いが残った。
身体はC+になった。
精神も、少しだけ太くなったらしい。
魔力と戦闘は変わらない。
それでも、やっとスキルらしいスキルを手に入れた。
そして次の段階へ、確実に進んでいる。
馬車は馬車溜まりを抜け、領都へ向かう道へ入った。
朝の光が、車輪の先に伸びている。
レグフォードは、もう遠くない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
魔法と剣のファンタジーなのに、どこまでも実務な中年の物語。
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