後日談 「俺たちは、間違えたのだろうか」——レイド視点
あの日から、どれくらい経つのだろうと、レイドはぼんやりと考えた。
王城の調査委員会が終わって、証言が記録されて、アルトとその女がさっさと立ち去って——それから世界は、なにひとつ良くなっていない。むしろ、着実に悪くなっている。レイドはベッドの上に仰向けになりながら、石造りの天井を眺めた。宿の天井は染みだらけで、どこから見ても見どころがない。それでも今の自分には、それを眺めることしかできなかった。
右手を持ち上げた。握る。開く。それだけの動作なのに、指の関節が鈍く痛んだ。昨日の訓練で少し無理をしたせいだ。
「少し無理をした」
——三年前の自分がこの言葉を聞いたら笑い飛ばしただろう。訓練で素振りを繰り返す程度のことで、翌日まで関節が痛む男が、どこの世界に勇者だと名乗れる。
「起きてますか」
扉の向こうからエリアの声がした。
「ああ」
とレイドは答えた。
「入れ」
扉が開いて、エリアが入ってきた。細い顔に、いつもの笑みを貼り付けている。だがその笑みが、最近は少し薄い。正確には、レイドに向ける笑みだけが薄い。それ以外の誰かに対しては、変わらず完璧に笑えている。レイドはそれに気づいていたが、何も言わなかった。言えなかった、という方が近いかもしれない。
「今日の依頼の件ですが」
エリアが椅子を引いて座りながら言った。
「ギルドから改めて連絡が来ました。Dランクの依頼でも、現状のパーティ編成では受注を断られる可能性があると」
「断られる」
とレイドは繰り返した。
「俺は勇者だぞ」
「それは、ギルドも理解しています。ただ、実績として最近の失敗が続いていることが問題で——」
「分かった」
レイドは遮った。
「俺が弱いということだろう」
エリアは何も言わなかった。否定もしなかった。それが答えだと、レイドには分かった。
三年前まで、痛みというものを知らなかった。本当の意味で、知らなかったのだと、今では分かる。魔物に切られても「ちょっと深かったか」と笑えていたのは、強かったからではない。ただ、感じなかっただけだ。感じない人間は怯まない。怯まない人間は止まらない。止まらない人間は、強く見える。それだけのことだった。
アルトが言っていた言葉が、頭から離れない。「お前のための容れ物じゃない」。あの静かな声が、何度も何度も耳の奥で再生される。怒鳴られた言葉でも、泣きながら言われた言葉でもない。ただ事実を告げるような、感情の薄い声だった。だからこそ、消えない。
「エリア」
とレイドは言った。
「お前は、アルトを追放することに賛成だったな」
「……状況の判断として、そう判断しました」
「お前が主導したんだろう。俺はお前に言われて、そうしたんだ」
「レイド様が最終的に決めたことです」
エリアの声が、わずかに固くなった。
「私に責任を押し付けるのは、筋が違います」
レイドは天井を見たまま、何も言わなかった。エリアの言う通りだ。決めたのは俺だ。公衆の前で宣言したのも俺だ。荷物を蹴ったのも俺だ。「感謝しろ」と言ったのも、俺だ。
あの言葉は、なぜ言ったのだろう。今考えれば、意味がない。感謝しろ、とは何に対して言ったのか。パーティにいさせてやった、という意味か。だがアルトがいなければ、俺はとっくの昔に死んでいた可能性がある。感謝すべきは俺の方ではないか。
頭では分かっている。だが、あの場ではそれが分からなかった。
なぜか。
レイドは目を閉じた。答えは出ていた。ずっと出ていたが、認めたくなかった。アルトの存在が、怖かったのだ。地味で無口で、何をしているのかよく分からない男が、なぜかいつもパーティの後方に立っていた。他の三人が活躍する中で、アルトだけが何もしていないように見えた。それが、なぜか引っかかっていた。自分でも説明できない引っかかりだった。今ならその理由が分かる。俺は本能的に感じていたのだ。あいつが何かをしている、と。それを認めることが、自分の強さの神話を壊すことになると、どこかで知っていた。
だから、追い出した。
エリアはその俺の気持ちを巧みに利用した。「イメージが悪い」「役立たず」——俺が聞きたかった言葉を、エリアは並べた。俺はそれに乗った。自分から乗りに行った。
「私は今日の昼から、少し外出します」
とエリアが言った。
「王室の知人と会う約束があって」
「王室の知人」
レイドは目を開けた。
「誰だ」
「以前から面識のある、第二王子の側近の方です。このパーティの今後について、少し相談したいと思っていて」
「……このパーティの今後を、俺ではなく王室の側近に相談するのか」
エリアは少し間を置いた。
「レイド様に相談しても、今は良い答えが出ないと思ったので」
レイドは何も言えなかった。反論しようとして、口が動かなかった。反論の中身が、どこにも見当たらなかった。
エリアは立ち上がり、「では、後ほど」とだけ言って部屋を出ていった。扉が閉まる音がして、部屋に沈黙が戻った。
ひとりになると、余計に静かだった。
ガラムはもういない。調査委員会の翌日、「すみません、俺は別の道を行きます」と一言残して、荷物をまとめて去った。引き止めなかった。引き止める言葉が、見つからなかった。エリアはまだいるが、今の会話を聞けば、それもそう長くはないだろうと分かった。
勇者パーティが、三人から一人になるのに、二週間もかからなかった。
レイドはゆっくりとベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。王都の街並みが広がっている。晴れた午後で、通りには人が多い。その人々の顔に、憂いの色があった。魔王軍の残党が各地で活動を再開しているという話が出ている。勇者が役立たずになったという噂は、もう王都の外まで届いているかもしれない。
俺は、この街を守るために選ばれた勇者だったはずだ。
そのために三年間、戦い続けてきたはずだ。
だがその三年間の実態は——アルトが俺の痛みを九割引き受けながら、俺の後ろをついてきていた。それだけのことだった。俺は強かったのではなく、強く振る舞えていただけだった。本当の強さというのが何なのか、俺はまだ一つも持っていないのかもしれない。
窓の外で、子供が走っていた。転んで、膝を擦りむいて、泣き始めた。傍にいた母親が抱き上げて、「大丈夫、大丈夫」と言いながら傷口を見ていた。子供はしばらく泣いてから、「痛い」と言った。母親は「そうね、痛いね」と答えた。
レイドはその光景を、しばらく眺めた。
痛い、という言葉を、俺は三年間使ったことがなかった。使う機会がなかった。今は毎日使っている。痛い、という感覚がこれほど日常に溢れているものだとは知らなかった。人間というのは、生まれてからずっとこれと付き合いながら生きているのか。それを知らずに二十三年生きてきた俺は、いったい何者だったのだろう。
立ち上がって、剣を手に取った。訓練場へ行こうと思った。関節が痛くても、動かすしかない。強さを取り戻す方法があるとしたら、痛みに慣れることを積み重ねる以外にない。アルトが三年かけてやったことを、俺は今から始めなければならない。
扉を開けようとした手が、止まった。
廊下の向こうから、エリアの声が聞こえた。誰かと話している。内容は聞こえないが、笑っている。さっき俺に向けていた薄い笑みとは違う、本物の笑い声だ。レイドは手を下ろした。扉は開けなかった。
エリアが離れていく。自分でもそれが分かる。引き止める気力も、引き止めるべき理由も、今の俺には見つからない。あの女は最初から、俺ではなくパーティという看板が必要だったのだ。看板の価値が落ちれば、次の看板に移る。それだけのことだ。それを利用した俺が、今さら何を言える。
あの日、追放の広間で笑い声が起きた。アルトの荷物を蹴り飛ばした時、貴族たちがくすくすと笑った。俺もその笑いに乗っていた。英雄が役立たずを追い出す、痛快な場面として消費された。今になって思う。あの笑いの中に、俺自身も含まれていたのかもしれない。強さの中身を持たない男が、強さの幻想を守るために本物を追い出した——そういう滑稽な話として。
「俺たちは、間違えたのだろうか」
声に出してみた。誰もいない部屋で、誰にも届かない言葉だった。
答えは当然、返ってこなかった。ただ、石造りの壁が静かに音を吸い込んで、また沈黙が戻ってきた。レイドは剣を壁に立てかけて、もう一度ベッドに腰を下ろした。訓練場へ行くのは、少し後でいい。今は、もう少しだけこの静けさの中に座っていたかった。
間違えた、という言葉では、たぶん軽すぎる。俺がしたことは、それより重い。だがそれを正確に表現する言葉を、レイドはまだ持っていなかった。持っていなかった、ということに気づいたのも、今日が初めてだった。
窓の外で、さっきの子供がまた走り始めていた。もう泣いていなかった。




