仰げば尊死
「っ……かぁああああ」
深夜。
一人の男性がパソコンの前で自分の目を手で覆っている。
彼は、今年大学を卒業した社会人だ。
年間休日120日。残業ほとんどなし。といういわゆるホワイト企業に入社したつもりだったのだが……
実際に入ってみるとそこはブラック企業だった。
入社前に提示されていた条件は、実は入社してから三ヶ月間の研修期間のみで、その後はほとんど強制的に裁量労働制……つまり、勤務時間は完全に自己管理でおこない、仕事が終われば早く帰宅できるし、終わらなければ残業して、休日に出勤してでも終わらせろ。
という雇用条件に変えさせられてしまった。
結果、日々大量の仕事に追われ、実質休日年間30日。残業毎日。
仕事内容は生命の危機に関わるレベルのストレスフルな内容であり、帰宅時間も終電ギリギリで帰ることが出来れば良い方。
一週間以上帰れないことも珍しくない。
そんな彼の癒しが、机に広げられた数多くのお菓子と、彼のパソコンに映されている画像。
「……尊い」
思わず、そうつぶやいてしまうような甘酸っぱい恋愛や友情が書かれているショートストーリーの漫画たちであった。
「はぁ……これはマジで久々の当たりだな。なんだよコレ。ここが理想郷かよ」
まだ中学生くらいの男女が、幼なじみで悪口を言い合いながらも実はお互いの事が好きだった、というよくあるテンプレート的な漫画であったが、その構成と作者の画力が高く、それを読んだ彼のため息は先ほどからずっと止まっていなかった。
「マジでこれはファボとかリツだけじゃ収まらないな。これは、たまらない。ドキドキする」
じゅるじゅるとバナナオレを飲みながら、彼は胸をぎゅっと押さえる。
「早く続きを。そう作者様につたえよう。今までため込み、作成した『尊い』画像フォルダを、解放する時は、今しかない!」
そのまま、彼は天を仰ぎ見た。右手は目を覆い、左手は激しく鼓動する胸を押さえて。
『尊い』
それを全身で彼は表現する。
(ああ、神に、作者に、感謝を)
そして、『尊い』画像フォルダを解放しようとした時だ。
ドクッと、彼の心臓の音が、イヤに大きく響いた。
(あ、あれ?)
彼は、『尊い』姿勢のまま、体が動かなくなる。
「う……あ……」
耳がキーンと鳴っている。
うるさいくらいに鼓動していた心臓の音も聞こえない。
まるで、先ほどの大きな音が、最後の一鳴きであったのではないかと思えるような。
(いや、これ、マジで……)
そのまま、天を仰ぎ見たまま、左手は胸を押さえたまま、彼は床に倒れる。
(これが……尊……)
日々のブラック業務で痛めつけられた彼の精神と肉体。
つまり『ストレス』に耐えられなかったのだ。
『尊さ』に。
仰げば尊死。
それが、彼の死因だった。