山の天候は変わりやすいとは言っても
急に夜の空を黒い雲が覆い始めたなと思っていたら、ぽつりと冷たいものがトウマ・ライナスの頬にあたった。驚いて空を見上げると雨が降り始め、やがてそれは激しく勢いを増して森や草木をみるみるうちに濡らしていった。
「さっきまで、あんなに晴れてたのによ……!」
トウマは舌打ちして手綱を打った。トウマを乗せた馬が鋭くいななきを上げて森の中を疾駆していく。雨具をきちんと用意をする間もないほどの降雨で、トウマはようやく馬に備え付けたリュックから雨具を取り出し、手紙の入った鞄を包むと後は馬に身をゆだねるように顔を伏せて走った。
トウマはミーガという町までの配達が終わり、トウマはアオルタまで帰路につくところだった。しかし、ここ数日、ミーガ周辺は気候が不順で大雨と快晴を繰り返す日々が続いていた。トウマが出発する前日も大雨が降りしきり、翌朝いざ出発する段になって、来た時の橋が大雨の影響ですっかり流されてしまっていたのだった。復旧にかなりの時間が掛かるのは明白で、呆然と破壊された橋を眺めていたのだが、同じく橋の様子を見に来た町の人間から、険しい山道だが近道があるという話を聞きだすことができた。
ミーガからアオルタに抜ける道は他にもいくつかあって、最も早い道でミーガのさらに東の街道から大回りして行けば、アオルタへと繋がる街道に出られる。それでも少なくとも1週間はかかってしまう。ミーガ周辺はトウマにも初めての土地で不案内ではあったが、険しくとも近道があると聞けばわざわざ大回りするほどトウマは辛抱強くなかった。
「だけど天候も変わりやすい山でな。危なくて以前から利用する奴が少ないんだが、魔物も増えてきて危なくてここ一年は利用する奴もいない。大人しくちゃんとした道から行ったほうが良いぜ」
近道を教えてくれた町の人が心配そうに言ったが、荒れた天候の中でも働くのが〝配達士〟である。天候くらいで弱音など吐いていられず、礼だけ言ってトウマは近道となる山を選んだわけである。
「……おとなしく、言うことを聞いておけばよかった」
叩きつけてくるような激しい雨に耐えながら、トウマは馬上で思わず弱音を吐いた。
東からまわれば途中に村や町もいくつか点在していて、このような急な雨に見舞われても宿に困ることはない。雨に降られても深い森と聞いていたので、どこかで雨宿りするくらいできるだろうと軽く考えていたのだが、降り注いでくる大粒の雨は重く激しく、葉をかき分けてトウマと馬を濡らしてくるので雨宿りに役立ちそうもなかった。
トウマは激しく後悔しながら鞄を懐で抱えるようにして馬をはしらせた。とにかく雨宿りになりそうな場所をと、叩きつけてくるような雨を睨むようにして周囲を見渡していると、左手の森の奥、闇の中にちらりと光が揺れたのをトウマは捉えた。建物を連想させる四角いシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
「やった、家だ……!」
トウマは馬の進路を急いで変え、森の中を貫くようにして駆け抜けた。光に近づくにつれ、次第にそのシルエットも明確なものへと変わっていく。小ぶりではあるがレンガづくりの古びた屋敷で傍に巨大な樹木が立っている。広げた木の枝に守られているようにして樹木の根元に墓石のようなものがチラと見えたが確認する余裕などなく、馬から降りるとそのまま馬を連れて玄関の軒先に駆け込んだ。家人には失礼ではあったが、軒先は高く馬を入れるだけの余裕があったし、雨に打たれさせたままは可哀想だと思ったからだ。
トウマが目にした光は玄関に灯された明かりのようだった。窓はカーテンが閉じられ、その隙間からほんの光が溢れてくるに過ぎない。
「ごめんください。……ごめんください!」
嵐のような夜にふさわしく、トウマはドアを激しく叩いて中に呼び掛けた。不躾なのは百も承知だがかまってはいられない。人家を見つけて気が緩んだせいもあるのか、体に少し寒気を感じはじめていた。
何度もドアを打っては手を止め中の様子を探る。人の動く気配もなく、やがて焦りを感じ始めた時だった。屋敷の中でドアの開く音がして、それとともに足音が近づいてくる。スリッパのようだった。
「……こんな夜更けにどなたでしょうか」
緊張した若い声がした。
少年の声のようだったが、トウマは口調を改めてドアに向かって言った。。
「俺……、いや私はアオルタ郵便局職員のトウマ・ライナスと申します。帰局の途中でこの山道を通っていたのですが、豪雨にやられて雨宿りする場所に困っております。納屋でもいいので一晩、ここで夜を明けさせていただけませんか」
「〝配達士〟の方ですか」
中で驚く声がし、少し待つようにと言い残してから、玄関から遠ざかる気配がした。
時間がさらに過ぎ、いよいよ体が凍えてくる。
祈るような気持ちでドアを睨んでいると、窓のカーテンが揺れて、その隙間から人の視線を感じた。人物を確かめるつもりだろうと察してトウマは気がつかないふりをして、じっとドアに視線を注いでいる。居心地悪くはあったが不躾なのはトウマにあり、不審者を安易に屋敷の敷地内に招き入れるわけにもいかない。トウマとしては黙って耐えておくしかなかった。一時の不愉快さよりも早く休む場所が欲しかった。
濡れた体が寒気を増し、早く早くと震えながら立ちすくんでいるとキイと高い音が鳴って扉がゆっくりと開いた。屋敷内の灯りを背に現れたのは寝間着姿の少年で、歳は10歳くらいに思えた。栗色の髪をし、鮮やかな緑の瞳は宝石のようだった。
緊張した面持ちのまままっすぐに見上げていたが、上流階級の子供らしく言葉遣いは丁寧だった。
「この雨でポストマンさんもお困りでしょう。どうぞ中へ」
「いや、汚してしまっては申し訳ないからここでいいですよ。あとは毛布と納屋を一晩、貸してもらえればけっこうですから」
「トウマさん……でしたっけ。見たところ体も震えていますし、外では風邪を引いてしまいますよ。お馬さんはさすがに無理ですが、部屋もたくさん空いておりますから、どうぞ中でお休みになってください」
「いや、ありがたいけれど……」
夜中に押しかけたという身でもある。
トウマは少年とどうぞといやいやの問答を繰り返していると、頭上から扉の開く音がした。見ると二階の部屋の前にガウンを着た男が立っている。男は立派な髭を蓄えていかにもこの家の主という風格がある。
お客人と男の重厚な声が2階から響いた。
「ルークいう通りだ。この屋敷には私たち2人しかいない寂しい家です。たまの来客は私たちにとってもありがたい」
「いいんですか」
「私どもの家に強盗に来たわけではないのだろう? なにもいじわるしたくて、あなたを長い間、玄関先で待たせたわけではないよ」
「……では、お言葉に甘えて一晩お世話になります」
「私はこの家の主、ヴァイル・ターレスと申します。そこにいるのが息子のルーク」
ヴァイルが顎でルークという少年を示すと、ルークは姿勢を正して会釈をした。
「改めまして。僕はルーク・ターレスです。よろしくお願いします」
「じゃあ俺も改めて……。アオルタ郵便局職員トウマ・ライナスです。よろしくお願いいたします」
頭を下げるトウマに、ルークはいいんですよと照れ笑いを浮かべて手を振った。
「僕はトウマさんより年下なんだから、そんなかしこまった口調じゃなくて」
「そう……かな」
これまでの人生で軍隊の生活がほとんどだったトウマには、その加減がいまいちよくわからない。軍隊のような厳しい上下関係まではないとは言っても、なれなれしく同等の口ぶりで接するよりも丁寧な言葉遣いを心掛けた方がいいというのは除隊してから学んだことだ。
戸惑いを見せるトウマに、そうですよとルークが明るく言った。
「父が言っていたように、トウマさんはもうお客様なんだから」




