#031『ひとすじの黒』
『ひとすじの黒』
1
遠くでシィーーーと、地面から湧き上がるような低い声が聞こえる。
窓の外で今年初めて鳴く蝉の声だ。
鼓膜の奥にじりじりと熱が溜まるようなその音は、長かった梅雨の終わりと、暴力的なまでの夏の始まりを告げていた。
五時間目の後の短い休み時間。
次の教室へ移動する生徒たちでごった返す廊下の真ん中で、僕、篠原蓮の足は完全にすくんでいた。
「おい、篠原。おまえ、マジで目障りなんだけど」
頭上から降ってきた低く粘り気のある声に、肩がビクンと跳ねる。
むせ返るような湿気と、周囲の生徒たちが放つ熱気が肌にまとわりつく。鼻をつくのは、生乾きの制服の匂いと、甘ったるい制汗剤の匂い。
目の前に立つ桐谷幹太とその取り巻きたちは、僕の退路を塞ぐように半円を描いて立ち塞がっていた。廊下を行き交う他学年の生徒やクラスメイトたちは、遠巻きにこちらをチラリと見るものの、すぐに見なかったふりをして通り過ぎていく。
誰も僕と目を合わせない。誰も僕を助けない。
それが、入学から二ヶ月で完成してしまった、この学校における絶対的なルールだった。
僕は震える指先を隠すように、右手に持っていた一本のシャープペンシルを強く握りしめた。
ドイツ製の、銀色に光る製図用のシャープペンシル。ずっしりとした金属の重みと、指先に吸い付くような冷たい感触だけが、いまの僕をこの現実に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。春休み、建築士だった祖父が『これで、おまえだけの線を引け』と贈ってくれたものだ。
その時だった。
「おっ、なにそれ。生意気にも高そうなペン使ってんじゃん」
桐谷の日焼けした腕が伸び、僕の手から無造作にシャープペンシルをひったくった。
「あ……」
口から漏れたのは、情けない空気の抜けるような音だけだった。
桐谷はニヤニヤと笑いながら、僕の大切なペンを指先でくるくると回す。窓からの光を反射して、銀色の軸が残酷にギラギラと光った。
「返してよ……それ、大事なもの、だから」
心臓が早鐘を打ち、口の中は極度の緊張でカラカラに乾いていた。
「はぁ? 大事なもの? おまえみたいな底辺が、こんな立派なモン使ってどうすんの?」
取り巻きの二人が、ゲラゲラといやらしい笑い声を上げる。
「返して、……ください」
僕が震えながら手を伸ばした瞬間、桐谷の目がスッと細められた。獲物をいたぶる捕食者の目だった。
「そんなに欲しいなら、返してやるよ」
桐谷はそう言うと、シャープペンシルを胸の高さまで持ち上げ、わざと指の力を抜いた。
カシャン。
硬いリノリウムの床に金属が打ち付けられる音が響く。
だが、それだけでは終わらなかった。床に転がった銀色のペンに向かって、桐谷は体重を乗せた右足の踵を、無慈悲に振り下ろしたのだ。
バキッという、プラスチックの内部機構と金属の管が同時に潰れる、生々しく乾いた破裂音が僕の心に響いた。
「あっ、ごめーん。足滑ったわ」
感情の欠片もない声。
僕は自分の足元に散らばったそれから、目を離すことができなかった。
美しい流線型を描いていた銀色の軸は無惨にひしゃげ、中央から「くの字」に折れ曲がっている。内部から飛び出した細い真鍮のパイプと、砕けた黒い芯の粉が散乱していた。
頭の中が真っ白になった。怒りよりも先に、絶対的な暴力に対する恐怖と、自分の一部を切り落とされたような喪失感が僕の膝を折った。
僕は床に這いつくばるように座り込み、ただガタガタと震えることしかできなかった。
桐谷が僕を見下ろして、満足そうに鼻で笑う。
何も聞こえない。
何も見えない。
ただ目の前にある残酷な結果だけが、僕の心を痛めつけていた。
「そこを退いてくれないか。――通行の邪魔だ」
ふいに、騒然としていた廊下の空気を凍らせるような、低く、抑揚のない声が響いた。
人垣が割れ、一人の男子生徒が現れる。
生徒会副会長の杉本先輩だった。
神経質そうな眼鏡の奥の瞳は、足元に這いつくばる僕ではなく、ただ一直線に桐谷を見据えていた。何の感情もなく、ただ見据えていた。
「あ? なんだテメェ」
桐谷が顔をしかめ、威圧するように肩を怒らせる。
「おい、よせよ。相手は二年生だぞ」
「関係ねぇよ。いま俺たち、ちょっと込み入った話してんだけど」
「込み入った話?」
杉本先輩は表情を一切動かさず、ひんやりとした声で言葉を重ねた。
「他者の所有物を物理的に破壊することで、自らの矮小な自尊心を満たそうとする行為が、この学校において優先されるべき『込み入った話』に該当するのか? ……理解に苦しむな」
「……うっ。生徒会だからって調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「調子に乗っているのは、どちらだろうな。そもそも、生徒は全員生徒会の一員だが、そんなことも理解していないのか?」
「てめえ……!」
激昂して詰め寄ろうとする桐谷に対し、杉本先輩は一歩も引かず、氷のように冷たい視線を射抜いた。
「共有スペースの不当な占拠。きみのその非論理的な八つ当たりのせいで、僕の移動時間がすでに三十秒奪われている。きみの安っぽい猿芝居に、これ以上僕に時間を使わせるな」
「たった三十秒だろ」
「その『たった三十秒』があれば、英単語を三つ暗記できる。あるいは数学の公式の証明が一つ完了する。きみの無価値な人生における三十秒と、僕の三十秒を等価だと考えないでもらいたい」
言ってから杉本先輩は足元のひしゃげたペンを一瞥した。そして一瞬の後に再び桐谷を見た。そこにあるのは怒りではなく、話の通じない動物を見るような、完全なる軽蔑だった。
「……その精巧なペンの構造の価値も、器物損壊という法的リスクすらも計算できないきみの頭脳は、著しく処理能力が欠如しているようだ」
「なんだと!」
「大きな声は聴覚的ノイズだ。不快指数が上がる。……道を開けろ。その姿は視覚的ノイズだ」
桐谷の顔が、みるみるうちに朱に染まっていく。握りしめた拳が震えているのが見えた。しかし、杉本先輩の放つ圧倒的な冷たさと、周囲の生徒たちの「桐谷が一方的に論破されている」という冷やかな視線の圧に耐えきれなくなったのだろう。
「……チッ、覚えてろよ」
桐谷は吐き捨てるようにそう言うと、取り巻きたちを引き連れて足早にその場を立ち去っていった。
張り詰めていた糸が切れ、廊下にざわざわとした不穏な空気が戻る。
「……」
杉本先輩は、床に座り込む僕に声をかけることもなく、ましてや手を差し伸べることもなく。ただ障害物が排除された直線を歩くように、足元の残骸を避けて通り過ぎていった。それと同時に出来ていた人垣も消える。
人が動き出した廊下。
僕は一人、震える手で、折れ曲がった銀色の残骸を拾い集め始めた。
鋭利に裂けた金属の断面が、人差し指の腹を浅く切った。チクリとした痛みの後、赤い血の玉が浮かび上がる。
もう綺麗な直線を引くことはできない。
だけど、血の滲む指先でこの無骨な金属の塊を握りしめた時、僕の中に、冷たくて硬い「境界線」のようなものが、確かに引かれたのを感じていた。
2
放課後の人気のなくなった廊下を僕は一人で歩いていた。
右手のポケットには、ひしゃげた銀色の残骸が重く沈んでいる。
生徒会室の前を通りかかった時、開け放たれているドアの隙間から声が聞こえた。
「……以上の理由から、次回の各委員会への予算配分を見直すべきだと提案します」
氷のように冷たく平坦な声が聞こえてきた。
杉本先輩だ。
「提案ありがとう。でも、相変わらず容赦ないわね、杉本くんは。OK、承認します」
それに答えるのは、生徒会長である月島先輩の、凛とした余裕のある声だ。
その淡々とした日常のやり取りを耳にした瞬間、僕の中で、先ほどの出来事がフラッシュバックした。
桐谷の歪んだ顔。
振り下ろされた踵。
床に散らばった僕の大切なもの。
しかし、杉本先輩にとってあの暴力は、やはりただの「ノイズ」でしかなかったのだ。彼らは彼らの当たり前の時間を進めている。そんな冷徹な事実が、いまの僕には救いに感じられた。
哀れみなど微塵もない。ただそこにある現実。
僕の世界はあの一瞬で壊されたが、学校という世界そのものが壊れたわけではないのだ。
歩みを進め、薄暗い生物準備室の前を通りかかった時のことだ。
ギィ、と古い扉が開き、男子生徒が一人出てきた。
二年生だ。緑のネクタイでわかる。どこか影が薄く、風景に溶け込むような不思議な雰囲気の人だった。
すれ違いざまに彼の視線が、僕が半分無意識にポケットから出して握りしめていたペンの残骸に落ちた。
「……それ」
独り言のような、ボソリとした声だった。
「パイプの歪みさえペンチで取れば、直せそうだな」
えっ、と僕が顔を上げた時、彼はもう僕のことなど見ていなかった。ただの「壊れたパーツ」の構造を瞬時に分析しただけ、というように、そのまま足早に廊下の奥へと消えていった。
直せそうだな。
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
そうだ。これは「壊されて使い物にならなくなったゴミ」じゃない。まだ、直せるんだ。
僕って本当に下しか見ていないんだな。情けない。
なぜか、小さな笑いが込み上げてきた。
その日の深夜。自室の机の上で、僕は電気スタンドの明かりの下、散らばった銀色のパーツと向き合っていた。
祖父の太くて温かい手が脳裏をよぎる。
『これで、おまえだけの線を引け』
(ごめんなさい、おじいちゃん。僕が弱かったから、こんなふうにされちゃった)
じわりと目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。だが、僕は唇を強く噛み締め、涙がこぼれ落ちる前に袖で乱暴に目を拭った。
泣いていても、ペンは元通りにはならない。桐谷も消えはしない。
僕は机の上に置いてある、古いペンチと黒いビニールテープを手に取った。親の工具箱に入っていたものを借りてきたのだ。
ひしゃげた真鍮のパイプをティッシュで包み、ペンチで挟んで無理やり押し広げる。
メキッ、と嫌な音がした。ティッシュのおかげで美しい銀色の表面にこれ以上の傷がつくことは防げた。しかし、手先が滑り、鋭利な金属の断面で再び指を切ってしまう。それでも、僕は構わずに力を込めた。
完全に真っ直ぐにはならない。
でも、芯が通る道だけは確保する。
折れ曲がった軸を強引に繋ぎ合わせ、上から黒いビニールテープで幾重にもきつく巻いた。
一時間後。僕の手の中には、まるで黒い包帯を巻かれたような、いびつで不格好なペンがあった。金属の美しい流線型は見る影もなく、重心も狂ってしまっている。
震える親指で、ノックボタンを押し込んだ。
ギチッ、ギチッ。
以前の硬く小気味良い音とは違う、軋むような重い音。だが、ペンの先端から、黒い芯が確実に顔を出した。
僕は机にあった真っ白なノートを開き、そこにペン先を落とした。
定規も使わず、ただ筆圧を込めて、右から左へ。
少し歪んでいるけれど、決して途切れることのない、力強い黒い一本の線。
その泥臭い軌跡を見つめながら、僕の中にあった恐怖は、静かな熱へと変わっていた。
明日、僕はこれを持って学校へ行く。
もう二度と下を……、靴の先端を見ない。
前を見て、未来へ進むんだ。
3
うだるような湿気は昨日と変わらないはずなのに、教室を吹き抜ける風を、僕はどこか遠くの出来事のように感じていた。
自分の席で、真っ白なノートを開く。
右手には、黒いビニールテープが不格好に巻かれたシャープペンシル。手汗で少しベタつくその感触が、いまの僕を現実に繋ぎ止める、新しい錨だった。
不意に、鼻をつく甘ったるい制汗剤の匂いがした。
「……おまえ、まだそんなゴミ使ってんの?」
頭上から降ってきた、低く粘り気のある声。桐谷だった。
一瞬、背筋が粟立ち、心臓が跳ねる。染み付いた恐怖が「下を向け」と警鐘を鳴らす。
だけど、僕はもう靴の先端を見ないと決めたのだ。
ペンを握る右手に力を込め、ゆっくりと顔を上げる。
桐谷の苛立った瞳と、正面からぶつかる。
「……うん。僕の大切なペンだから」
声は少し震えていたかもしれない。それでも、絶対に目を逸らさなかった。
桐谷の顔に、明らかな戸惑いが浮かんだ。永遠に怯え続ける底辺だと思っていた相手からの予期せぬ反抗に、彼の薄っぺらいプライドが逆撫でされたのだろう。
「あ……? 生意気言ってんじゃねえぞ!」
怒声と共に、桐谷の大きな右手が僕の机に伸びてきた。昨日、僕のすべてを壊したあの暴力の気配。
僕は逃げなかった。
ダンッ、と鈍い音を立てて、両手で机の上のペンを覆い隠すように押さえつけた。
「……!」
桐谷の手が、僕の腕のわずか数センチ上で止まる。
「……もう、触らないで」
絞り出すような、けれど確かな芯のある僕の声が教室に落ちた。
気がつけば教室は、僕の掠れた抵抗が響き渡るくらいに静まり返っていた。
桐谷の視線が、僕の目から、ペンを覆い隠す両手へと吸い寄せられる。
そこには、昨日ペンチで抉ってしまった指先を隠す、不格好な絆創膏があった。端には赤黒い血が滲んでいる。それは、僕が自分の手で、痛みを伴いながら引き直した「境界線」そのものだった。
数秒の沈黙。
僕が絶対に譲らないことを悟ったのか、あるいは自分の血を流してまでひとつの物に執着する静かな熱に気圧されたのか。
「……チッ、気持ちわりぃな」
桐谷は吐き捨てるようにそう言うと、苛立たしげに踵を返した。
遠ざかっていく彼の背中を、僕は最後まで見届けた。
張り詰めていた糸が少しだけ緩み、塞いだ両手の下で指先が微かに震え始める。
怖かった。いや、いまでも怖い。
でも、僕は自分の世界を自分で守り抜いたのだ。
窓の外から、昨日と同じように蝉の鳴き声が聞こえてくる。それはもう、鼓膜を焼くような暴力的なノイズには聞こえなかった。ただの、夏の音だった。
いつの間にか、教室の中にも日常のざわめきが戻ってきている。昨日までと何も変わらない、けれど確実に違う世界の色と温度。
僕はゆっくりとノートに向き直る。
親指でノックボタンを押し込んだ。
ギチッ。
軋むようないびつな音と共に、黒い芯が顔を出す。
真っ白な紙にペン先を落とし、ゆっくりと右へ滑らせた。
カリ、カリと、不器用な音が耳の奥に響く。
祖父が引いていたような、美しくて真っ直ぐな線ではない。定規も使わない、傷跡だらけで少し歪んだ、不格好な軌跡。でも気にする必要はない。僕は僕の線を引くだけだ。
開け放たれた窓から差し込む眩しい夏の光の中、その真っ黒な線は、どこまでも途切れることなく続いていた。




