0-3 虚無
王都オルディア。
世界樹の枝葉が城を包み込むように広がる王城は、いつもと変わらぬ威厳を湛えていた。だが、その一室だけは違っていた。
城内医務室。窓から差し込む柔らかな陽光が、白い寝台を照らしている。部屋に響く音は二つだけだった。規則正しい呼吸と、ときおり揺れる木々の葉擦れ。
寝台には、一人の少女が眠っていた。雪乃銀華。
戦場から戻って三日。肩をかすめた矢傷も、腕や脚に残る裂傷も、医師たちの治療によって少しずつ癒え始めている。疲労による高熱もようやく落ち着いた。
だが、医師たちの表情は晴れなかった。
「外傷だけを見れば、命に別状はありません」
老医師が静へ頭を下げる。
「しかし……銀華様は極度の精神的消耗を起こされています。肉体よりも心への負荷が、あまりに大きい」
「今後どのような影響が残るか……正直、誰にも分かりません」
静は黙って寝台を見る。銀華は眠ったまま微動だにしない。静かな寝顔は、幼い頃と変わらなかった。
「いつ目を覚ます」
医師は首を振る。
「今日かもしれません。一月後かもしれません。あるいは……」
その先は口にしなかった。
静は頷く。
「分かった」
医師たちが退室し、扉が閉まる。再び静寂が戻る。
静は椅子へ腰を下ろし、銀華の手を見る。十年前、まだ幼かったその手を初めて握った日のことを思い出す。
泣き虫で、負けず嫌いで、誰かが傷つけば自分のことのように泣いてしまう子だった。
「……君」
返事はない。
「修行を始めた頃、君はよく言っていたな」
『先生。もっと強くなりたいです。誰も泣かないように』
静は目を閉じる。
「君は……十分すぎるほど、強くなった」
沈黙。
「だから、こんな形で折れてほしくはなかった」
その言葉は、誰にも届かない。
窓の外では、世界樹の葉が風に揺れている。王都の人々は今日も平和に暮らしていた。銀華が守り続けてきた日常は、今も変わらず続いている。
ただ一人。その日常を守ってきた剣士だけが、静かな眠りの中に取り残されていた。
◇
医務室の扉が叩かれた。
「入れ」
入室したのは、深紅の王衣をまとった女性だった。腰まで流れる蒼みを帯びた黒髪。鋭く、理知的な紅い瞳。
蒼緑国女王――紅蒼瑠璃。
瑠璃は静へ一礼する。
「静」
「ああ」
形式ばった挨拶はない。長年、国を支えてきた信頼がそこにはあった。
瑠璃は寝台へ視線を向ける。銀華は眠ったまま、微動だにしない。数秒見つめただけで、それ以上近づくことはなかった。
「容態は」
「命に別状はない。ただし、目を覚ましても、以前の銀華とは違うだろう」
瑠璃は息を吐く。
「医師からも報告は受けている。精神への負荷……か」
「そうだ」
瑠璃は窓際まで歩き、王都を見下ろす。街には人が行き交い、いつもと変わらぬ営みが続いている。その平和は、誰かの犠牲の上に成り立っている。
「……皮肉なものだ。銀華が守った王都は、今日も平和だ。誰も知らぬまま。一人の英雄が折れたことも」
静は何も返さない。
瑠璃は目を閉じる。
「今回の作戦。私が許可した。帝国軍をこの地で迎え撃つ。村を後方支援拠点とする。すべて、私が決裁した」
「君だけの責任ではない」
「違う。責任を分け合えば、責任は軽くなる。そんな慰めは要らない」
女王の言葉だった。厳しく、揺るがない。それでも、その横顔には微かな疲労が滲んでいた。
「私は王だ。守れなかった命があるなら、それは私の責任でもある」
静は立ち上がり、瑠璃の隣へ並ぶ。
「だからこそ。銀華だけに背負わせるな」
瑠璃は答えない。ただ窓の外を見つめ続ける。
やがて 瑠璃は振り返り、再び銀華を見る。
「銀華」
名を呼ぶ。それだけ。慰めも励ましも、優しい微笑みもない。
「早く目を覚ませ」
命令とも願いともつかない、短い言葉だった。
瑠璃は踵を返す。部屋を出る直前、一度だけ足を止める。
「静。目を覚ましたら知らせてくれ」
「分かった」
扉が閉まる。
静は息を吐く。
「……君も無理をする」
王も。剣聖も。そして英雄も。誰一人として、自分の痛みを口にできなかった。だからこそ、この部屋には言葉よりも重い沈黙が残り続けていた。
◇
医務室へ朝の光が差し込む。窓辺の花瓶には、数日前に侍女が生けた白い花。風に揺れる世界樹の葉が、その影を部屋の床へ落としていた。
静は椅子に腰掛け、本を閉じる。ここ数日、銀華の傍を離れることはほとんどなかった。
ふと、布団の上に置かれた銀華の指先が小さく震えた。
静の視線が動く。銀華の長い睫毛がゆっくりと揺れ、薄く閉じられていた瞼が少しずつ開いていく。
蒼緑と紅紫。二色の瞳が、ぼんやりと天井を映した。しばらく瞬きもない。焦点が合わないまま、ただ白い天井を見つめている。
「……君」
静が声を掛ける。銀華の視線がゆっくりと動いた。静を見る。その表情には驚きも安堵もなかった。まるで、目の前にいる相手が誰なのかを思い出そうとしているような静けさだった。
「しず……」
掠れた声。静は頷く。
「ああ」
「ここは……」
「王都オルディアの医務室だ」
銀華は部屋を見回す。白い天井。窓。木の机。椅子。見慣れた景色。やがて 、小さく息を吐いた。
「そうですか」
それだけだった。
静は銀華の様子を注意深く見つめる。意識ははっきりしている。受け答えも問題ない。だが、どこか決定的なものが欠けている。
以前なら目を覚ました瞬間、「先生、ご心配をお掛けしました」と困ったように笑ったはずだ。今の銀華には、それがない。
静は表情を変えずに尋ねる。
「身体はどうだ」
銀華はゆっくり腕を動かす。指を握り、開く。足先にも力を入れてみる。
「……動きます」
「痛みは」
「少し」
静は頷いた。
「無理はするな」
「はい」
返事は素直だった。それでも、どこか他人事のようだった。
そのとき、扉が開く。老医師が部屋へ入ってきた。
「おお……!」
老医師の顔が明るくなる。当然の安堵だった。
「お目覚めになられましたか」
銀華は医師へ視線を向け、小さく頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ」
医師は安心したように笑う。
「脈も安定しております。外傷も順調に回復しております。あと数日もすれば歩くこともできるでしょう」
「そうですか」
銀華は穏やかに答えた。あまりに穏やかで、医師の安堵とは明らかに温度が違っていた。
診察を終えた医師は静へ小さく目配せする。静も立ち上がり、部屋の外へ出た。扉が閉まる。
廊下。医師の表情から笑みが消えた。
「……いかがでした」
静が問う。医師は慎重に言葉を選ぶ。
「身体は順調です。ですが。銀華様は、感情の起伏がほとんど見られません。喜びも、安堵も、怒りも、悲しみも。極端に薄い」
医師は視線を落とした。
「無理に感情を引き出そうとはなさらぬよう。今は心が、自らを守るために閉じているのでしょう」
静は医務室の扉を見る。その向こうでは、銀華が窓の外を眺めている。世界樹の葉が風に揺れていた。その景色を見ても、銀華の瞳は何一つ揺れることはなかった。
部屋の中。銀華は窓の外を見つめ続ける。子どもたちの笑い声が遠くから聞こえてくる。兵士たちが訓練する掛け声も聞こえる。守り続けてきた王都の日常。その音は確かに耳へ届いていた。
それなのに。胸の中には、何も浮かばない。嬉しくも、悲しくもない。ただ、静かな空白だけが広がっていた。
銀華は自分の胸へ手を当てる。鼓動はある。命もある。それでも。心だけが、あの日の焼け跡に置き去りになってしまったようだった。
◇
昼下がり。医務室には静かな陽光が差し込み、窓辺の白い花が揺れていた。
銀華は寝台へ身を起こしたまま、窓の外を眺めている。王都の空は青く澄み渡り、世界樹の葉が風を受けて優しくざわめいていた。
扉が控えめに叩かれる。
「入る」
紅蒼瑠璃が部屋へ入る。その姿を認めると、銀華はゆっくりと頭を下げた。
「……陛下」
「身体は」
「問題ありません」
短い問答。それだけで終わる。
瑠璃は寝台から少し距離を置いた場所で立ち止まった。静も口を挟まない。部屋に重い沈黙が落ちる。
やがて 銀華が口を開いた。
「陛下。村の復興は、進んでいますか」
その問いに、静は目を閉じた。瑠璃の表情は変わらない。だが、その紅い瞳だけがわずかに揺れた。
「銀華」
その声は、王としての声だった。
「報告する」
銀華は真っ直ぐ瑠璃を見る。瑠璃もまた、その視線から逃げなかった。
「……あの村は滅んだ」
短い一言だった。余計な飾りも、遠回しな表現もない。それが事実だった。
部屋は静まり返る。
銀華は何も言わない。瞬きすらしないまま、瑠璃を見つめていた。
一秒。二秒。三秒。
時間が、異常に長く感じられた。
誰も息をしない。誰も動かない。ただ、銀華の瞳だけが、何も映さないままそこにあった。
やがて 銀華は、小さく頷いた。
「……そうですか」
それだけだった。
涙は流れない。声も震えない。怒りも見えない。あまりに静かな反応だった。あまりに自然で、だからこそ、静の胸の奥が冷たく縮む。
瑠璃もまた、銀華から視線を逸らさなかった。その瞳の奥に、わずかな動揺が過った。
「生存者は救出した。負傷者も王都で保護している。だが、失われた命は戻らない」
銀華は静かに耳を傾けている。まるで、自分とは関係のない報告を聞いているかのようだった。
「……分かりました」
返事は、それだけ。
瑠璃は一歩だけ銀華へ近づく。
「銀華」
「はい」
「今のお前に必要なのは、戦うことではない。まず身体を治せ。それが王命だ」
一瞬だけ、銀華の瞳が揺れた。
「……承知しました」
深く頭を下げる。それは将として、王命を受ける礼だった。
瑠璃はそれ以上何も言わない。慰めれば、この礼は崩れてしまう。今の銀華は、将として立つことで、かろうじて自分を保っている。その均衡を壊してはならない。
瑠璃は静へ視線を向ける。静も小さく頷くだけだった。二人の思いは同じだった。今は支えるしかない。救おうとしてはいけない。
そのとき、銀華はふと、自分の両手を見つめた。剣だこが残る掌。無数の傷跡。守るために鍛え続けた手。その手を静かに握り締める。
力は入る。指も動く。それなのに、胸の奥から浮かんできたのは、たった一つの言葉だった。
――守れなかった。
その言葉は口にはならない。誰にも聞こえない。ただ心の奥底へ沈み、音もなく積み重なっていく。
瑠璃は踵を返した。
「静」
「ああ」
「任せる」
「承知した」
扉が閉じる。部屋には再び静寂だけが残る。
銀華は窓の外を見つめたまま動かなかった。世界樹は今日も変わらず風に揺れている。王都は平和だった。その平和を守るために戦った剣士だけが、自分の心をどこかへ置き忘れたまま、静かにそこへ座り続けていた。
◇
翌朝。医務室には、柔らかな朝日が差し込んでいた。窓の外では、小鳥が世界樹の枝を渡り、遠くから兵士たちの朝稽古の声が聞こえてくる。
銀華は寝台の縁へ腰を掛け、床を見つめていた。医師からは、もう立っても問題ないと告げられている。外傷は順調に癒え始めていた。静も、少し離れた場所からその様子を見守っている。
「……立ってみます」
銀華が小さく呟く。静は何も言わず頷いた。
銀華は両足を床へ下ろす。ひんやりとした感触が足裏へ伝わる。両手で寝台を支えながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。足に力が入る。膝は震えない。傷口も思っていたほど痛まない。
静かに、一歩。もう一歩。医務室の床を歩く。
その姿を見た老医師は安堵したように微笑んだ。
「順調ですな」
「ええ」
銀華も穏やかに返事をする。
「身体は、思ったより動きます」
「若いですからな」
医師は笑う。
「あと数日もすれば、普段どおり歩けるでしょう」
「ありがとうございます」
礼を述べる銀華の声は穏やかだった。だが、その穏やかさに喜びはない。静はその違和感を見逃さなかった。
診察を終えた医師が部屋を出る。再び静かな時間が流れる。
銀華は窓際まで歩き、王都の街並みを見下ろした。石畳の道を行き交う人々。荷車を押す商人。井戸端で談笑する女性たち。剣を肩に掛けて歩く若い兵士。守ってきた日常が、そこにはあった。
「しず」
銀華が不意に口を開く。
「何だ」
「皆さん、笑っていますね」
「ああ」
「……良かったです」
その一言は、本心だった。人々の日常が守られたことを、銀華は確かに喜んでいる。しかし、その声に温もりはなかった。まるで、正しい感想を口にしているだけのようだった。
静は銀華の横顔を見る。以前なら、子どもたちが笑っているだけで、自分まで嬉しそうに笑う弟子だった。今は違う。笑顔を見ても、自分は笑えない。その事実を、銀華自身も理解しているようだった。
「しず」
しばらくして、銀華はもう一度口を開く。
「私……」
言葉が途切れる。窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。
「前と同じように剣を振れるでしょうか」
静はすぐには答えなかった。その問いは、身体のことではない。心のことだ。
「身体は戻る」
静は言う。
銀華は黙って聞いていた。
「無理に立ち上がろうとすれば、傷は開く」
銀華は小さく目を伏せる。
「……はい」
短い返事だった。
その時、窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。思わず銀華は視線を向ける。広場で追いかけっこをしている二人の幼い兄妹。その姿が、一瞬だけ村の子どもたちと重なった。
胸の奥で何かが揺れる。けれど。涙は出なかった。ただ、指先がわずかに震えただけだった。銀華はその震えに気づき、そっと拳を握る。
静も何も言わない。言葉を掛ければ、その小さな揺らぎまで消えてしまう気がした。
部屋には再び静寂が戻る。だが、その静寂は数日前とは少しだけ違っていた。完全な空白ではない。痛みはまだ深い。それでも、心の奥底で何かがかすかに動き始めている。
それは希望とは呼べないほど小さな変化だった。けれど静は、その小さな揺らぎを見逃さなかった。
◇
数日後。銀華は医務室の窓を開けていた。夏の終わりを思わせる柔らかな風が部屋へ流れ込み、世界樹の葉を揺らす。
身体は回復していた。歩くこともできる。木剣を持てば、軽く振ることもできた。医師はもう安静の必要はないと言う。それでも銀華は、一度も剣を握ろうとはしなかった。剣に触れれば、あの日の光景が脳裏に蘇る気がした。
静は、その様子をただ見守り続けていた。
「しず」
銀華が口を開く。
「何だ」
「お願いがあります」
静は本を閉じ、銀華へ視線を向ける。その瞳には、以前のような優しさも、今までの空虚さもあった。そして、その奥に、ごくわずかな意志が宿っていることに気付く。
「……聞こう」
銀華は一度目を閉じ、小さく息を吸った。
「村へ行かせてください」
静は何も言わなかった。予想していた言葉だった。それでも、その重みは変わらない。
「理由は」
銀華は窓の外を見る。王都の平和な街並み。笑い声。市場の喧騒。そのすべてが、自分とは遠い世界のように感じられた。
「私は……前へ進めません」
静かに続ける。
「しずの言うとおり、無理に忘れようとは思いません。ですが。このままでは、何も感じないまま、自分が消えていくような気がするんです」
「向き合わないままでは、もっと進めない。それどころか、この空白が、このまま私を飲み込む気がして」
静は銀華を見つめる。その言葉に、逃避はなかった。自分を許そうという甘さもない。あるのは、傷つくと分かっていても、その傷から目を逸らしたくないという覚悟だけだった。そして、わずかな焦り。
「……そうか」
静は立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。二人並んで世界樹を見上げる。
「君は昔からそうだった。怖いものほど、自分の目で確かめなければ気が済まない」
銀華は少しだけ目を伏せた。
「困った弟子でしょうか」
「いや」
静は穏やかに首を振る。
「だからこそ、君はここまで強くなれた」
しばらく沈黙が続く。やがて 静は銀華へ向き直った。
「私も同行する」
銀華はゆっくり首を横に振る。
「いいえ。これは、私が一人で向き合わなければならないことです」
静の表情がわずかに動く。弟子の言葉を否定したい気持ちはあった。だが、その瞳を見てしまえば分かる。これは誰かに支えてもらうための旅ではない。銀華自身が、あの日から目を逸らさないための道なのだと。
「……分かった」
静は頷いた。
「だが、一つだけ約束しなさい」
「はい」
「帰ってくることだ」
銀華は少しだけ驚いたように静を見る。静の眼差しは、師としてではなく、一人の家族を案じるように優しかった。
「君はまだ、生きなければならない。君の剣を待っている人がいる。そのことだけは、忘れるな」
銀華は長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「……約束します」
その返事を聞き、静はようやく息をつく。
夕刻。銀華は医務室を後にした。長く過ごした部屋を一度だけ振り返る。ここは傷を癒やす場所だった。だが、心を癒やす場所ではなかった。その傷と向き合える場所は、一つしかない。
夕日に染まる廊下を、銀華は静かに歩いていく。その足取りは決して軽くない。それでも、自らの意志で踏み出した一歩だった。
その先に待つのは、焼け跡となった村。英雄が目を背けてきた場所。そして、一人の剣士が初めて自分自身と向き合う場所だった。
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序章 0-3『虚無』 完
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