第167話 勇者の墜落
「……な、なんだよこれ……! 俺の、俺たちの闇の力が、なんで効かねえんだよッ!!」
ケンヤが絶叫し、漆黒の瘴気を纏った魔剣を狂ったように振り下ろす。
魔神の加護を得た【絶対切断】。触れるものすべてを腐食させ、因果ごと断ち切るはずのその一撃が、ガイウスが手にした一本の『クワ』に触れた瞬間、パチンと小さな音を立てて霧散してしまった。
「……当然です。害獣の牙など、農具の敵ではありませんよ」
ガイウスは、表情一つ変えずにクワを軽く一振りした。
ただの動作。
しかし、そこにはガイウスの演算能力のすべてを注ぎ込んだ『魔力構成の強制解体』が込められていた。
勇者たちの纏う闇の力は、その圧倒的な緻密さの前に、まるで泥水に落とした墨汁のように薄まり、消えていく。
「リカ! ゴウ! 全力でやれ!!」
「燃えろぉぉぉッ!!」
「死ねぇぇぇッ!!」
リカが自身の魂を削るようにして放った最大級の闇の炎が、ゴウの巨体による突撃が、ガイウスに迫る。
だが、ガイウスは一歩も引かず、ただ静かに指を弾いた。
「生活魔術――『害虫除け』」
パァンッ!!
という乾いた衝撃波と共に、リカの炎は逆流して彼女自身を焼き、ゴウの拳は目に見えない壁に弾かれて自らの腕を粉砕した。
「あ、アギィィィッ!!?」
「熱い! 熱いよぉぉッ!!」
無様にのたうち回る仲間を見て、ケンヤは恐怖に顔を歪ませた。
魔神の闇。
それらすべてを注ぎ込んでも、目の前の『農家』には傷一つどころか、服の汚れ一つ増やすことができない。
「く、来るな……! 来るんじゃねえッ!!」
追い詰められたケンヤの視界に、近くで震えていた少女エルが映った。
「……そうだ。まだ手はある……ッ!」
ケンヤは【神速】を無理やり発動させ、エルの背後に回り込むと、その細い首筋に折れかけた魔剣を突き立てた。
「動くなよ……! チョロチョロ動いたら、このガキの首が飛ぶぜ!!」
その瞬間。
開拓地に流れていた風が、ピタリと止まった。
魔王ヴァルドやカイン、そして四大精霊たちですら、あまりの殺気に背筋を凍らせて数歩後ずさる。
「……ケンヤさん。今、あなたは何をしましたか?」
ガイウスの声は、もはや怒りすら通り越し、無機質な『宣告』のように響いた。
「は、ははっ! 怖いか!? このガキが死んでもいいのかよ! 助けたければ、その武器を捨てて土下座し――」
「作物を作り、大地を耕す。その営みを支えるのは『人』です。……その大切な働き手であるエルに、刃を向ける。それは、俺の畑そのものに傷をつけるのと同じですよ」
ガイウスが静かに一歩、足を踏み出す。
「――看過できませんね。あなたたちは、もはや害獣ですらなく、ただの『毒』です」
「く、来るなと言って――」
ケンヤがエルの首を切り裂こうとした、その刹那。
ケンヤの全身に、『数百単位』の不可視の鎖が絡みついた。
「……え?」
「魔力封印、筋肉弛緩、神経遮断。……おまけに、二度と武器を握れないよう、あなたの魂の形を少し『植え替え』ておきました」
「あ、が……っ……ぁ……」
ケンヤの手から魔剣が滑り落ち、彼は人形のように糸の切れた状態で崩れ落ちた。
リカもゴウも同様だ。ガイウスの指先一つで、最強を誇った勇者たちの『全機能』が完全に沈黙させられたのである。
これで脅威は去ったと皆が思ったその時、声が聞こえた。
「……あーあ。せっかく面白いおもちゃをあげたのに。これじゃあ、不良品もいいところだね」
不意に、軽薄で親げな、しかし凍りつくような声が響いた。
燃え盛る畑の向こう。闇の中から、漆黒の衣を纏った男――ヤマトが姿を現した。
「ヤ、ヤマト……さん……! 助けて、くれ……ッ! こいつ、こいつがおかしいんだ……!」
地面を這いずりながら、ケンヤが縋るように手を伸ばす。
しかし、ヤマトは彼らに一切の情けを向けることなく、退屈そうに鼻を鳴らした。
「助ける? なんで? 俺、役立たずのゴミを回収する趣味はないんだよね。……同郷のよしみで力をあげたのに、こんな農家一人にボコボコにされるなんて。君たち、本当に『勇者』としての才能がなかったんだね」
「な……ッ!?」
「まあいいや。せっかく君たちに注ぎ込んだ俺の『闇』、そのまま捨てちゃうのは勿体無いからさ。……最後くらい、俺のために役立ってよ」
ヤマトが指先をクルリと回すと、勇者たちの体内に残っていた闇の力が、突如として激しく脈打ち始めた。
「あ、熱い……っ! なんだ、これ!? 体が、溶ける……!!」
「ケンヤ君! 助けて、助けてぇぇぇッ!!」
絶叫と共に、勇者たちの体がドス黒い粘液に包まれ、膨れ上がっていく。
骨が砕け、肉が捻じ曲がり、彼らの意識が闇に飲み込まれていく。
数秒後、そこには人間の姿はなかった。
複数の腕と目、そして絶え間ない飢餓感を剥き出しにした『異形の魔物』へと、勇者たちは姿を変えた。
「くくく、いい形だ。これなら少しはガイウス君の暇つぶしになるかな?」
ヤマトは満足げに頷くと、作業着姿のガイウスをチラリと見た。
「……ガイウス・ノア君。君、本当に最高だよ。俺の計画をここまで狂わせてくれるのは、君くらいだ」
「……お褒めいただき光栄です。……ですが、俺の村をこれ以上荒らすなら、容赦はしませんよ」
「ははっ、怖いね。……でも、今日はここまで。次に会う時は、君のその大切な『平和な箱庭』が、もっとドロドロに溶けている頃かな」
ヤマトはそう言い残すと、夜の闇に溶けるようにして姿を消した。
「……また会おうね、農家君。……くくく、あははははははッ!!」
狂気に満ちた笑い声が風に乗り、北の開拓地に響き渡る。
残されたのは、自我を失い咆哮を上げる三体の異形。そして、それを見据えるガイウス。
「……皆さん。収穫前の大事な時期に、とんだ邪魔が入りましたが」
ガイウスは再びクワを構え、背後の仲間に向かって静かに告げた。
「さっさと片付けて、畑の消火と修復を行いましょう。……明日の朝の収穫には、遅れたくありませんからね」
エーデル村のスローライフを守るための戦いは、魔神という真の敵の登場により、新たな、そしてより過酷な局面を迎えようとしていた。
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