第143話 大賢者の終焉と、託された呪い(願い)
その年の冬。
『静寂の谷』に雪が舞う頃、大賢者ソフィアはついに床に伏せるようになった。
彼女の肉体を数百年もの間維持していた生命維持の魔術が、静かに、だが確実に解けようとしていたのだ。
それは病や怪我によるものではなく、薪が燃え尽きるような、純粋で自然な「寿命」だった。
俺は畑作業を最低限に留め、ソフィアの看病に付きっ切りになった。
自身で育てた滋養強壮の薬草と、消化に良いカブを極限までトロトロに煮込んだスープを作り、毎日彼女の口へと運んだ。
「……美味いな。お前の作る飯は、本当に腹の底から温まる」
ベッドの上でスープをすすりながら、ソフィアは力なく微笑んだ。
かつて星空を切り取ったように美しかった群青色のローブは色褪せ、白銀の髪もすっかり細くなっている。
だが、その金色の瞳だけは、最期まで澄み切った知性の光を宿していた。
「師匠、明日は雪下ニンジンを使ったポタージュにしますよ。甘みが増して、すごく美味しくなってるはずですから」
「ふふっ……楽しみだ。だが、その前に……ガイウス、私の話を聞け」
ソフィアは空になった木の器をサイドテーブルに置き、俺の手を弱々しく握った。
ひどく冷たく、軽い手だった。
「私の魔術の知識、古代の術式、そして真理への扉の鍵……。
すべては、あの書庫の魔導書に記しておいた。お前のその異常な魔力と頭脳なら、数年で私以上の『賢者』になれるだろう」
「……俺は、賢者になんてなりたくありません。ただ、師匠と一緒に美味い野菜を作って……」
俺の声が震えた。
前世で孤独な農家として過労死した俺にとって、ソフィアは魔法の師であると同時に、初めて得た「家族」のような存在だったのだ。
「甘えるな、ガイウス」
ソフィアが、かつて俺を厳しく指導した時のような、凛とした声で言った。
「枯れた葉は土に還り、次の命を育む養分となる。お前が一番よく知っている『自然の循環』だろう? 私は十分に生きた。後悔など何一つない」
ソフィアは俺の頬に手を伸ばし、親指で涙を拭った。
「……ガイウス。お前は私の誇りだ。お前のその力は、私が生涯をかけて到達した真理すら凌駕する、まさに『理外の奇跡』だ。……だからこそ、その力を、ただこの小さな谷の土を弄るためだけに終わらせてほしくない」
「……」
「外の世界は、愚かな人間たちで溢れている。欲に目が眩み、争い、無意味に大地を汚す。……お前が関わりたくないと思うのも当然だ」
ソフィアはゆっくりと息を吸い、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「だが、世界が本当に危機に陥り、どうしようもない絶望に包まれた時……お前のその規格外の力で、少しだけ、彼らを助けてやってはくれないか」
それは、静かに土と向き合って生きていきたいという俺の「完璧なスローライフ」の夢を、真っ向から否定する言葉だった。
ソフィア自身もそれを分かっていた。
だからこそ、彼女は痛みを堪えるような顔で「呪いをかけさせてくれ」と言ったのだ。
「……世界を畑だとでも思え。害虫が湧いたら駆除し、土が荒れたら耕してやる。……お前のその優しさと強さを、世界に少しだけ分けてやっておくれ」
「師匠……」
俺は、ソフィアの冷たい手を両手で包み込み、額を押し当てた。
溢れ出る涙を止めることはできなかった。
「……分かりました。約束します。師匠の願いなら、俺は……どんな面倒なことでも、引き受けます」
俺が絞り出すようにそう答えると、ソフィアは「……ああ、ありがとう、私の可愛い弟子よ」と、心底安堵したような、満ち足りた微笑みを浮かべた。
「ガイウス……あの、トマト……また、食べたかった、な……」
それが、隠匿の大賢者ソフィアの最期の言葉だった。
彼女の金色の瞳が静かに閉じられ、繋いでいた手からふっと力が抜ける。
同時に、彼女の肉体は淡い光の粒子となって空間に溶け出し、長年彼女を守り続けていた『静寂の谷』の隠蔽結界が、音もなく崩れ去っていった。
雪が上がり、澄み切った冬の青空が広がる翌朝。
俺はソフィアが愛した裏庭の、一番日当たりの良い丘の上に、小さな木の墓標を立てた。
遺体はない。
彼女は完全に魔力となって大気に還り、この谷の土の養分となったのだ。
俺は墓標の前に跪き、空間収納から一握りの種を取り出した。
それは、俺がこの谷で初めて栽培に成功し、彼女が「こんな美味いものは食べたことがない」と目を丸くして喜んでくれた、あの深紅のトマトの種だった。
俺は墓標の周りに丁寧に土を盛り、種を撒き、俺の魔力で静かに成長を促した。
雪の積もる真冬の丘の上に、真っ赤なトマトがたわわに実る、季節外れの美しい奇跡が生まれた。
「……師匠。いつでも食べに来てくださいね。俺が作る野菜は、世界一ですから」
俺は立ち上がり、墓標に向かって深く一礼した。
ソフィアが遺した魔導書の数々と、農業用の資材を空間収納に収める。
五年ぶりに着る、成長してすっかり短くなってしまった服の代わりに、俺はソフィアが遺した深い『漆黒のローブ』を身に纏った。
(世界が危機に陥った時、少しだけ助けてやってほしい)
その呪い(願い)を果たすためには、俺自身が世界の中心……あるいは、最も権力と情報が集まる場所へ身を置く必要がある。
「……行くか」
俺は振り返らずに、静寂の谷を後にした。
目指すは、人間たちの欲望と争いの中心地――王都。
愛する農業への情熱を冷たい仮面の下に封印し、師の遺言を果たすためだけの、長く退屈な「寄り道」の始まりだった。




