73 火の粉
「ぐっ」
「がっ」
遠くのかがり火に照らされる薄明かりの中、天幕から忍び出てきた六人の男達が次々に押し殺した悲鳴を上げていく。
中空の闇から滑空してきたヤーヒムが、銘剣<オストレイ>を手に猛然と襲いかかったのだ。
「なっ――!」
「クソ、見つかったか!」
「手強いぞ気をつけろ!」
が、彼等も伊達に王家直属の隠密部隊へ所属している訳ではない。
初めの三人こそなすすべもなく斬り伏せられたものの、続く三人は紙一重で<オストレイ>の斬撃を弾き返していた。電光石火の身のこなし、かなりの手練れだ。けたたましく沸き起こる剣戟の響き、かがり火の光を反射して断続的に煌めく刃身。薄闇の中、三人の死人の濃密な血の匂いを周囲に撒き散らしながら、息も切らせぬ激しい戦いが繰り広げられていく。
「な、お前は――!」
と、唐突に黒革鎧に身を固めたトゥマ・ルカの一人が剣を止め、大きく目を見開いた。
襲撃相手の思わぬ言葉に、攻めの手を一旦止めて相手を眺めるヤーヒム。遠くのかがり火に仄かに照らされるその顔に、ゆっくりと凍えるような微笑が浮かんでいく。
「……ほう、これは」
ヤーヒムにはこの三人に見覚えがあった。
記憶違いでなければこれは三度目となる顔合わせ、その筈だった。
一度目はブシェクのラビリンスからの脱出時。
アマーリエが帰還の宝珠をせしめたのはこの者達だ。あの時は鷹型の使い魔を使役して、ディガーを装っていたはず。
二度目は鹿人族の親子を救助したその後。
この者達は奴隷男セルウスの仲間として、闇組織ゼフトとの三つ巴の戦いに参戦してきた。
そして今回が三回目――
彼らがヤーヒムの敵であることはこれ以上ないほどに明白だ。
どこまで執拗に追ってくるのか。ハナート山脈の向こう、フメル王朝側の切迫した状況を知った今、この火の粉はこの場で払っておかねばならない。
……憂いを、断つ。
ヤーヒムは剣を下段に構え、じわり、と一歩前に踏み出す。
アイスブルーの瞳にはぞっとするような殺意が滲み、その背後には片翼二メートル超、差し渡し五メートルを超える漆黒の翼がゆったりと広げられている。周囲を払っているのは本能的な恐怖を呼び醒ます絶対的強者の威圧感。身にまとった無紋のサーコートが、風もないのに静かにはためいている。
無数の天幕が並ぶ深夜の宿営地に、ひっ、という小さく息を呑む声が零れた。
古来よりの捕食者たるヴァンパイアを前にした人系種族の生存本能と、巨大な翼から押し寄せる神威を前にした畏怖が、さしもの隠密集団の体を強く縛りつけている。
「な……なんだこいつ……しゃ、洒落になってねえぞ」
「つ、翼って……ヴァンパイアじゃなかったのかよ……」
「まさか、ザヴジェルがしきりに宣伝している天人族ってのは――」
そう。
彼らの眼前に立っているのは、つい先日とある神官に「降臨した黒き魔王」とまで言わしめた存在。
その圧倒的な存在が、彼らを明白な敵と認定し、鏖の決意を固めて立ちはだかっているのだ。
「……知られたからには、尚更生かしておけぬ。欲望に塗れた己が生き様を後悔するがいい」
更に一歩前に踏み出すヤーヒム。
物音を聞きつけ、周囲の天幕からは何事かと兵士が飛び出し始めている。それら無数の兵達を取りまとめようと鋭く呼集の叫び声を上げながら接近してくるのは、この遠征軍の副司令たるアマーリエの声。
「くっ、囲まれる前に逃げるぞ!」
ヤーヒムの威に飲まれかけていた三人だったが、我に返った中央の男の言葉に全員が素早く踵を返した。それは訓練された隠密部隊の動き。めいめいが腰の袋から何かを投げ、ばらばらの方向へ駆け去って――
追いかけようと足を踏み出したヤーヒムのその眼前に、唐突に激しい爆発が生じた。
飛び出してきた兵士達が出会い頭に吹き飛ばされ、幾つもの悲鳴が夜空にこだまする。
深夜の宿営地が一瞬で阿鼻叫喚の戦場へと変わった。
トゥマ・ルカの三人が投げつけた魔道具が轟々と炎を噴き上げ、周囲の天幕を巻き込んで燃え上がっていく。猛烈な熱気と煙がヤーヒムの視界を封じ、死体の燃える嫌な臭いに視線を向ければ、先ほど奇襲で斬り飛ばした三人の死骸が業火に包まれている。
……なるほど。逃走の補助と、仲間の身元の隠蔽か。
だが。
猛火から軽く飛びずさって躱していたヤーヒムは、背中の翼で鋭く空気を掴み、燃え盛る炎の上へと舞い上がった。
「逃げられると思ったか?」
「なっ!」
舞い狂う火の粉の壁を突き破り、一瞬の加速で最後尾のトゥマ・ルカの前へと回り込むヤーヒム。手練れだけあって初撃は紙一重で防がれたが、人外の膂力で振るわれる二撃目は男の剣を大きく跳ね上げ、三撃目が無防備な胸に突き立てられた。
――これで四人。
濁った断末魔を上げる男を置き去りにヤーヒムは再び空へと舞い上がる。
残るは二人。次なる標的は……いた。
上空から音もなく滑空し、そのまま背後から斬りかかるヤーヒム。
が、やはりこの男も並の使い手ではなかった。気配だけで察知したのか最後の瞬間に鋭く上体を捻り、腰の短剣で抜き打ちの反撃を狙ってくる。
一瞬の交差。
地面に降り立ったヤーヒムが微かに顔をしかめた。
どちらの攻撃も当たらなかったが、短剣を躱した時に感じた仄かな匂い。
……毒剣、か。
<闇の手>と呼ばれる彼ららしい悪辣な武器だった。
ヴァンパイアはかなりの毒耐性を持つ種族だが、確かに有効な手段ではある。そして。
「この化け物がッ!」
腰だめに短剣を構えた黒革鎧の男が地を蹴り、低い姿勢で飛び込んでくる。
着地したばかりのヤーヒムに反応の余裕を与えない速攻だ。
が、ヤーヒムはそれを躱しもせず、左手のガントレット付属のバックラーをその毒剣の前に掲げた。同時に響き渡る、暗渠に泥水が吸い込まれるような濁った水音。
「ぎゃあああああ」
黒ずくめ騎士の絶叫が夜のザヴジェル軍宿営地に響き渡った。
毒剣が右腕ごと失われ、あたりかまわず鮮血を撒き散らしている。そう、バックラーに展開された【虚無の盾】に呑まれたのだ。
「……そちらが追ってくるのならば」
ヤーヒムが右手の<オストレイ>を一閃する。
「片端から、屠るまで」
右腕に加えて命も失った五人目のトゥマ・ルカが、くたり、と地面に崩れ落ちた。
そう、今のヤーヒムはよほどの相手でない限り、人系種族相手の一対一の戦いで後れを取ることはない。
最近ますますその精度を上げてきた【ゾーン】による空間把握で相手の微細な初動を捉え、アンブロシュ剣術の理に基づいて銘剣<オストレイ>を振るう――それだけでも大概の手練れに打ち勝てるようになってきている。が、さらに【虚無の盾】を併用すれば、攻撃してきた相手の武器を丸ごと消滅させることができる。近接での対人物理戦に限ればほぼ敵なしと言ってもいい。
加えて【霧化】や【虚像】、斬れぬ物なきヴァンパイアネイルや翼を使った高速立体機動など、よほどの使い手でなければ対応が困難であろう奥の手も控えている。いくら王家直属、くせ者揃いの隠密部隊<闇の手>といえ、魔法使いもいないこの少人数ではヤーヒムの前に出てきた時点で死が決まっていたも同然だった。
以前ゼフトと三つ巴の戦いをした時に指揮を取っていた、魔剣を操っていた隊長格がいれば少しは違ったかもしれない。魔剣による傷は魔法による傷と同様、ヴァンパイアの高速治癒が効かない危険なものだ。
戦い方によっては苦戦する可能性もあったのだが、その隊長格はこの侵入には参加していない様子。初めから彼らに勝ち目はなかったのだ。
「…………」
苦戦する隙もなく、瞬く間に五人の追手を排除したヤーヒム。
残る追跡者はただ一人だ。濃厚に立ち昇る死人達の甘美な血の匂いを意識から追い払い、<オストレイ>を軽く振って血糊を飛ばして、【ゾーン】に映る最後の標的の方へ、静かにそのアイスブルーの瞳を――
「待てヤーヒム! 一人は生かしたまま捕らえるのだ! 背後関係を聞き出すのに必要だ!」
意外なほど近くから発せられたアマーリエの叫びに、ヤーヒムはその場に踏みとどまった。
ここまで来る間に片端から合流してきたのであろう、百を超える兵士達の足音がヤーヒムを追い抜くように一帯を駆け抜けていく。
「いたぞ! こっちだ!」
「回り込め、逃すな!」
深夜の宿営地、その迷路のように入り組んだ天幕の間を兵達が口々に叫びを交わしながら、解き放たれた猟犬の如き獰猛さで最後の一人を追い詰めていくのがヤーヒムの【ゾーン】に映る。彼らにとっては自軍の本陣とも言える宿営地に侵入し、火まで放った不埒な賊だ。精鋭と名高きザヴジェル兵の誇りを傷つけられた怒りがその声と動きに現れている。
そして、その兵士達の後ろに追随してきた一団が、天幕が立ち並ぶ通路をヤーヒムの方へと駆け寄ってきた。先頭を走っているのは緑白に輝く魔剣を引っ提げた女将軍、アマーリエだ。
「ここにいたかヤーヒム。――ほう、これはこれは」
ヤーヒムの傍まで走り寄ったアマーリエが足を緩め、倒れ伏す黒ずくめの騎士を見てその整った眉を跳ね上げた。
「見覚えがあるな。――ちなみに残りは何人か分かるか?」
「……今その先で兵達が取り囲みつつある。それで最後だ」
「よし、一人残っていれば最低限の情報は取れる。何か言っていたか?」
地面の亡骸をちらりと見遣ったアマーリエに、ヤーヒムは知り得たことを低く抑えた声で伝えた。
彼らがこの宿営地に忍び込んでブラディポーションを探していたらしいこと、うち三人は<闇の手>として襲撃してきたこともある顔ぶれであること、ブラディポーションを見つけられずに衛生兵を拉致するべきかどうかと話し合っていたこと――周囲をはばかるその報告に、アマーリエは小さく嘆息を零した。
「ふむ。我が軍で使っていると見当をつけられたか。露見はしないだろうが、ちと面倒だな。見る者が見れば、今の我が軍の損耗率の低さが少しばかり異常なのが分かってしまう。まあ相手は数が多いだけの最下級アンデッド、金を惜しまず高級品を支給している、その言い訳を押し通せる範囲ではあるのだが――」
立ち並ぶ天幕の向こうで怒号と歓声が上がった。
どうやら兵達が最後の一人を囲み、捕縛に成功したようだ。
「――とりあえず行ってくる。ヤーヒムはダーシャの元へ行ってやれ。他の皆はそこで守りについているはずだ。こちらは任せろ」
それに山脈の向こうから帰ってきたばかりだろう、少し休め。
そんなアマーリエの気遣いに、ヤーヒムはとりあえず従うことにした。ダーシャを含めて皆を安心させてやりたいし、この場でこれ以上自分が手伝えるものもない。それに何より、己の目で見てきたヴァンパイア達の動きに対し、こちらもどう動くかきちんと考えてもおきたかった。
一斉に動き始めていたのは、感知しただけでカラミタが二十、眷属を含めたヴァンパイアが二千。
それらが囁き合っていた言葉のとおり山脈のこちら側に攻め寄せてくれば、死の王国と化していたフメル王朝と同様、ザヴジェル領を含めたこのスタニーク王国全体の滅亡の危機となる。
……ブシェク。
ヤーヒムの脳裏に、百年に亘って地下牢に監禁されていた因縁深き迷宮都市が浮上してくる。
それは、ジガ配下のヴァンパイア達がほぼ間違いなく狙ってくる場所。そしてもうひとつ、つい先ほど自分の手で引導を渡した<闇の手>の者達が言っていた言葉も気になっている。確か「我らのように安価にポーションを作って」云々と言っていた。
安価に高品質なポーションを作る――それはまさにアマーリエがザヴジェル軍のため、ヤーヒムという高位ヴァンパイアの血を使って極秘裏に行っていることだ。そして、ユニオン召集軍と共に王都入りした<闇の手>がそれまでいた場所も、ブシェク。
………………。
湧き上がる嫌な予感を振り払い、ヤーヒムはアマーリエに視線で謝意を伝え、翼を消してその場を後にした。
視線の先では燃え盛る天幕が未だ激しく火の粉を夜空に噴き上げており、深夜の宿営地は大騒ぎになっている。走り回る兵士達の邪魔にならないよう通路の隅を歩きながら、ヤーヒムは思考の海に深く沈み込んでいった。
◆ ◆ ◆
「――度重なる離脱で申し訳ないが、このままブシェクに行こうと思う」
「え?」
明け方、アマーリエが捕虜の尋問を終え、ダーシャの眠る天幕に顔を出したその後。
いつもの顔ぶれ――アマーリエとリーディア、そしてフーゴ――を前に、ヤーヒムが唐突にそう宣言をした。
リーディアとフーゴは騒ぎの後そのままダーシャの脇で仮眠を取っていて、ヤーヒムは一人天幕の隅に座り、色々と考え込んでいた。そこに尋問の結果を携えたアマーリエが顔を出し、仮眠中の二人を起こして四人で声を潜めた話し合いをしていたのだが。
侵入者はやはり王家の<闇の手>、スラムで雇ったごろつきに軍備品集積所からの盗みを唆し、その隙に救護天幕に忍び込んでブラディポーションを狙っていたようだ――アマーリエのそんな報告をひととおり聞いた直後、ヤーヒムが唐突にブシェクに行くと言い出したのだった。
「む、出来ればこちらもそうしたいところなのだが……。トゥマ・ルカから距離を取るという意味もあるし、ジガの再襲撃に手をこまねいている訳にはいかないしな。ただ、ザヴジェル軍も私もすぐにここを離れられそうにない。三日ほど待ってくれないか?」
「いや、ブシェクに行くのは我だけだ。すまないが、この戦場からもう一度抜けても良いだろうか」
「ヤーヒム単独? 前回は止む無しとしても、さすがに今回は――」
アマーリエが思わず口ごもった。
ハナート山脈を飛び越える必要があった前回と違い、ブシェクは街道も繋がり、二千ものヴァンパイアが押し寄せてくる可能性が高い場所なのだ。それは戦闘経験豊富な精鋭であり、熟練の魔法兵を数多く擁するザヴジェル遠征軍ですら単独で迎え撃つには厳しい相手。いくらヤーヒムが真祖直系の最高位に近いヴァンパイアであり、その上かなりの独自進化を遂げた存在だとしても、単独で赴くのは自殺行為にしか聞こえなかった。
そして、リーディアとフーゴもそんなアマーリエに加勢する。
「ちょっとヤーヒム、どういうこと!? そんなのとても認められないわ!」
「おいおいどう考えても無茶だろソレ。偵察だけならまだしも、お前さんの顔にはもうちょっと物騒なことをするって書いてあるぞ」
「どうしても行くなら私も連れていって。私は正式な軍属ではないし、魔法使いは必要でしょう?」
「おう、なら俺も行く。んでもってアマーリエの姫さんには悪いが、ダーシャの嬢ちゃんも一緒だな。俺たちがトゥマ・ルカから距離を取った方がいいのは同じだし、このまま軍にいると騒ぎが大きくなってザヴジェルに迷惑をかける気がするんだよ。お前さんがブシェクで何をするつもりか知らねえけど、この四人で行けば出来ることも増えるだろ?」
ダーシャを起こさない範囲でヤーヒムににじり寄るリーディアに、いつもの人懐こい笑顔でニカッと笑うフーゴ。
ヤーヒムを案じ、仲間としてどこまでも行動を共にするつもりなのだ。そんな二人を見て、アマーリエが複雑な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ヤーヒム、ザヴジェル軍なしでブシェクに行って何をするつもりなんだ? まずはそれを教えてくれ。内容によっては協力もするし、<ザヴジェルの刺剣>の特別任務として皆の一時離軍も認めよう。ただし単独ではないし、その危険度によっては四人全員とも離軍を認めない。ブシェクの危機は個人でどうにかするものではなく、国として対応すべきものだ。いいか?」
アマーリエの断固とした裁定にゆっくりと頷きを返す面々。
理には適っているし、彼女が自分達を案じていることが充分に伝わってきているからだ。そして、全員の視線がヤーヒムに集まっていく。
「…………どこから話すべきか」
ヤーヒムとしても、自分なりに考えた上での宣言である。理不尽や我が儘を言っているつもりはない。
全てを話して皆の意見を聞き、これからの行動を最善の手段へと磨き上げることに抵抗はなく、むしろそれは歓迎すべきことだ。
彼はひとつ大きく息を吸って頭の中を整理しつつ、信頼する仲間達に向けて口を開いた。
次話『アマーリエの決断とヤーヒムの願い(前)』




