第三部プロローグ ―クラールの呼び声―(地図あり)
※末尾に物語の地方地図(概略イメージ)があります。ご参考までに。
ハルバーチュ大陸の背骨、ハナート山脈。
大陸の北西部を断絶させるかのようにそびえ立つそれは、言わずと知れた魔獣の領域だ。人系種族で過去に山脈越えに成功した者はほんのひと握り。災害級の強大な魔獣が我が物顔に闊歩するその広大な急斜面を、十に満たない人影が風のように疾走していた。
月明かりがまだらに漏れる深夜の密林の中、木立を縫って亡霊のようにはためく外套。元は上等だったその生地も、今は汚れてあちこちが裂けてしまっている。
驚くべきは、全員がかなりの速度で走っているにもかかわらず物音が殆どしないこと。いや、危険なハナート山脈の奥地なのに、彼らが荷物ひとつ、武器すら持っていないことも異常といえば異常なのかもしれない。
彼らの後ろには百に近い泥龍の群れ。
大蛇と水龍の中間、亜龍に分類されるそれは、ハナート山脈の中部を代表する悪夢のような魔獣だ。体長は数メートルから大きなものは十メートルを超え、湿地に巣を作り近寄った者を相手が軍隊であろうと群れをなして片端から喰らい尽くす貪欲な性質を持つ。
それら悪食の権化が、牛すら丸呑みにする大きな頭をもたげ、前を行く人影をこちらもまた音もなく木立を縫って執拗に追いかけている。
が、逃げている筈の人影に慌てる素振りは一切ない。各々の足運びは猫科の猛獣の如くしなやかに、それぞれの顔に紅く輝く瞳はただひたすらに前だけを見据えている。誰一人として息すら荒げていないのだ。
「……もうじき山頂が見えてくるはずだ」
「……ここらで一度散らしておこう。かかれ」
先頭から二番目を走る男の囁きに、その後ろを走る人影が深夜の森の中で弾けるように散開した。
同時に全員の爪が長く伸び、蒼く輝き出す。ヴァンパイアネイル――高位ヴァンパイアしか持ち得ない無双の殺戮手段だ。
散開した人影が鋭く方向転換し、背後に群れなす泥龍に一斉に襲いかかった。
音もなく繰り広げられる圧倒的な殺戮劇。魔の森の悪夢と呼ばれる亜龍が次々に斬り裂かれ、勢いのまま前に転がっていく。
「……余計な血は飲むな。我らの栄光の時は近い」
「……動を捨て固に、紅を捨て蒼に」
十に満たない人影が動きを止めた時には、月明かりがまだらに漏れる密林の中、百に近い泥龍が全てズタズタに切り裂かれていた。
「……真祖ジガの呼びかけはもうすぐそこからだ。思い上がりの人族に、正当なるヴラヌスの支配を」
「……古のクラールの高みに、いざ我らも」
「さあ、行かん」
呟きにも似た静かな号令の下、元は上等だった衣服をまとう彼らは再び風のように走り出した。
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参考;スタニーク王国 北東部概略図
次話『凶報』