37 霊峰チェカル
「ま、まあ派手に行こうとは言ったけどよ……」
翌日の昼、パイエルの街から東に向かうチーシュ街道に出たところでフーゴがぼやいた。
ひと晩ゆっくりと鋭気を養い、朝から精力的に動いてはいたのだが、出発がこの昼過ぎという微妙な時間になってしまっていたのだ。
まず朝一番で隊商のクレメンス達のところに出立の挨拶に寄り、ちょうど神殿の治療院から出てきたヤルミルたち鹿人族の親子にも別れを告げてきた。
あれほど生気を欠いていたイジーとリジーの兄弟が元気一杯にフーゴのケンタウロスの背中に登りたがり、ヤルミルの活発な娘ベルタは背伸びしてヤーヒムの頬に貴婦人風のキスをすることで感謝を表してくれた。大人達とは想いのこもった固い握手を交わし、道中で買ってきた大量の果物を見舞いとして渡したりもした。
そうしてしっかりと別れを告げ、次に向かったのが移動に向けての盛大なる買い物だ。
尾行者の注目を集めるという意図の下、出来るだけ目立つようにとフーゴがリーディアが競うように大盤振る舞いを始めた。
大手を振って通りを練り歩き、目についた食料品などを稀少な大型アイテムポーチで大量買いして――それら全てが、実はヤーヒムとしては冷や汗ものの行動ではあった。
ヤーヒムはヴァンパイアとなってからこの方、街中でそのように目立つ振舞いをしたことはない。見た目だけではまず分からないとはいえ、ヴァンパイアだと露見した日には街に大騒動が発生し、その街にいられなくなるからだ。
が、いつに増して生気が溢れんばかりのリーディアが甲斐甲斐しくヤーヒムとダーシャの旅装を見繕ってくれたり、いつしかそれはそれで楽しめるひと時にはなっていた。日光の下、賑やかな通りを気心の知れた仲間とあれやこれやと――
一番注目を集めたのは、移動用の足としての馬を購入した時だ。
ケンタウロスのフーゴは当然不要で、リーディアには宿に預けていたザヴジェルの軍馬がある。
ダーシャはどちらかに乗せてもらえば良いが、問題はヤーヒムだ。馬と並んで走ればいいとヤーヒムは断ったのだが、他の三人がそれを断固として拒否をした。ヤーヒム用に一頭購入し、ダーシャが順繰りに乗せてもらう相手を変えることで全体の負担を減らす、最終的にはそんな結論で街の馬房へと足を運んだのだが。
パイエルで一番の馬房で真っ先に目を引いたのは、堂々とした純白のスレイプニルだった。
馬房の看板として通り沿いの囲いの中で悠然と草を食んでいたその八本足の高級軍馬は、知能も忠誠心も共に非常に高く、魔獣に匹敵する戦闘力と走力を誇るとあって武人の憧れの的である。
だが、高すぎる知能が主人を選び、よほど相性が合わないと近づく事すら許してもらえないという困った一面も持っている。騎士団のように集団行動をする軍人の場合、主人以外にも同僚達と密集して行動できなければ差し障りが出る。従って幸運にもスレイプニルに認められても、泣く泣くその縁を諦める若い騎士も多いのだ。
ところがその純白のスレイプニルは、ヤーヒム達を見るなり自分から寄ってきた。
その大きな黒い瞳が興味深げに眺めているのはリーディア。どうやら気に入られたらしい。大喜びしたリーディアが金貨八十枚という大金をぽんと支払い、ここまで乗ってきたザヴジェルの軍馬はヤーヒムに譲るということで決着がついた。
ダーシャは一人ぽかんとその一幕を眺めていた。スレイプニルという稀少な存在と、気安く接していたリーディアが実は名族シェダの姫君であるという事実が、彼女の頭の処理速度を上回っていたのであろう。
と、そんなこんなで時間が過ぎ、早めの昼食を取ってから街を出発したのだが――
「なあ、なんだかもの凄く目立ってないか? さすがにここまで目立たなくても良かったような……」
フーゴが溜め息混じりに振り返るのは、購入したばかりのスレイプニルに颯爽と騎乗するリーディアとダーシャである。
黄金色に輝く髪に白桃のような生気に満ちた頬を持ち、紫水晶の瞳で前方を見詰めるハイエルフの末裔リーディア。その腕に抱かれ同乗する、艶やかな黒絹の髪に優美な顔立ち、透明度の高いアイスブルーの瞳でおどおどと周囲を見回しているダーシャ。
そんな人目を引く二人が上質な旅装を身にまとい、珍しい純白のスレイプニルに騎乗しているのである。
街を出る前から人々の視線を独占し、街道に出てからもすれ違う旅人の中には思わず足を止めて見惚れる者もいるぐらいだ。
「ま、まあ、ほとんどが悪い視線じゃないからな……嬢ちゃん、慣れなかったらフードをかぶるといいぞ。ほら、あんな風に」
フーゴがダーシャに顎で示すのは、早々からフードを深々とかぶり、やや離れた最後尾で騎乗しているヤーヒムだ。
「あいつの場合は違う意味でフードが必要なんだけどな。……やっぱり、ついて来るねえ」
フーゴがちらりと視線を投げた先にいるのは、ヤーヒム達一行とは反対の方向で人目を集めている一団だ。誰もが思わず距離を保ち、息を潜めて関わり合いを避けている物々しい集団――その雑多な種族、雑多な武装はおそらく、闇組織ゼフトの実行部隊。
衆目の前での騒ぎになるのを嫌っているのか、それともフーゴやリーディアといった同行者を警戒しているのか、街中を含めたこれまでは数人が監視するだけで手出しはしてこなかった。
だが街を出てこのチーシュ街道に足を踏み入れた途端、徐々に姿を現す者が増え、今では三十人近い集団となって二百メートル程の後方から無言の圧をかけてきている。
「どうする、ヤーヒム?」
「…………」
押し殺した、だがよく通る低い声で問い掛けられたヤーヒムは、フードの奥から僅かに上空を見上げて肩をすくめた。
上空高くで不自然に円を描いているのはおそらく追手の使い魔。後ろに見える粗雑なゼフトとは別口、多芸な王家の<闇の手>――トゥマ・ルカによるものと思われる。こうしてさり気ない監視を続けつつ、あの奴隷を装ったセルウスのような絡め手で来るのが彼らの手口なのだろう。
昨日宿の扉に手出しをしたのもおそらくそのトゥマ・ルカだ。話し合いがひと段落して扉を確認しに行ってみれば、天井との隙間から音もなく猛毒の腐海スライムが侵入してきていたのだ。リーディアが言うにはあれも使い魔だった。よほど召喚魔法に通じた者がいるに違いない。
「……何か仕掛けられる前に主導権を握るか」
「おお、さすがヤーヒム。そうこなくっちゃ」
「主導権を握ると言っても何をするの? いきなり上級魔法を打ち込めとかはナシよ?」
「かかか、姫さんは相変わらずだな。そうだな、こんな所で怪我するのも馬鹿らしいし、せっかく姫さんがいるんだからこういうのはどうだ――」
フーゴの案は、挨拶代わりとしてもちょうどいいものだった。ヤーヒムもあのブシェクのラビリンス、砂漠の階層での事を思い出し、大きく頷く。
「――そうね、ちょっと遠いけどやってみるわ。準備はいい?」
ダーシャを乗せたまま馬首を返し、ヤーヒムの隣で後方の集団を短杖で指し示すリーディア。
「大地に眠る大いなる塊よ、姿を現し箱となれ――ストーンウォール!」
その瞬間、リーディアの短杖の先、二百メートル先の追手集団の周囲の地面が流砂のように蠢いた。そして四方に巨大な壁がせり上がり、瞬く間に追手達を取り囲んでいく。
それはまさに岩石の牢獄。
右往左往する追手の怒声が風に乗って届く中、リーディアは荒い息を吐いて傍らのヤーヒムを見上げた。
「――どう、かな? ちょっと、頑張ってみた、んだけど」
「……驚いた。文句の付けようもない」
魔法使いはヴァンパイアの天敵だ。これほど強力な魔法使いが己の敵ではないことに心からの安堵を感じつつ、ヤーヒムは言葉を飾らずリーディアを賞賛した。リーディアも大変満足そうである。
「やっぱ凄えな姫さん。普通の魔法使いはこの距離、この規模、とてもじゃないが無理だわ。ま、これで奴らもちっとは遠慮するだろ」
全員が見守るその先では巨大な四面の壁が街道上に堂々とそびえ立ち、追手の集団を完全に封じ込めている。街道沿いに潜行していた別働隊が慌てて飛び出して集まり始めているが、しばらくは動けないだろう。
――そこで大人しくしていろ。
――今のが攻撃的な魔法だったらどうだったか、理解はしているな?
ヤーヒム達は執拗な追手に痛烈なメッセージを残して釘付けにし、揃って馬首を翻して駆け出していく。
目指すは霊峰チェカル。
力強い馬蹄の音が軽快にチーシュ街道を突き進んでいく。
◆ ◆ ◆
その日の夜。
午後中ずっと駆け通した一行は、街道から適度に離れた草むらで宿営していた。
「今日で結構突き離せたかねえ」
四方を囲むリーディアの魔法で作り出した石壁の中、焚き火に枝をくべながらフーゴがにやりと笑った。
あれから一行は休みなしに駆け続け、早馬伝令並の距離を稼いできたのだ。驚くべきは新しいリーディアの愛騎であるスレイプニルで、リーディアとダーシャの二人を乗せているにもかかわらず屈強なフーゴに負けぬ持久力を披露してのけた。ヤーヒムの乗るザヴジェルの軍馬は早々に足が衰え、最低限の休憩を挟みつつ大半をヤーヒムが手綱を引いて走るという奇妙な姿になっていたのだが。
「うーん、どうかなあ。結局このチーシュ街道って一本道だし」
揺らめく炎にその嫋やかな身体を照らさせつつ、リーディアが一日の騎乗で凝った体をううん、と伸ばす。
彼らが駆け抜けた道は途中から大草原の中の一本道となり、平坦で走りやすかったが隠れようがないといえば隠れようがないのだ。追う側の立場からしてみれば、見通しの良い大草原の中、追いつかなければ先にいるだけという単純な構図だ。
途中まではかろうじてリーディア達の姿が見え隠れしていたはずなのだ。迷わず追ってくるだろう。問題はこの夜の停止の間、彼らも止まってくれているかどうかで――
リーディアは疲れ果てて傍らで眠るダーシャに毛布をかけてやり、心配そうに街道の方向に目を遣った。
「ヤーヒム、一人で見張り、大丈夫かな……」
「くかか、心配なら一緒にやってもいいだぞ姫さん。けど明日も今日以上に走るんだ、しっかり眠っておけって。ヤーヒムはヴァンパイアで身体の作りが違うんだと。明け方に俺が交代に行くし、同じことやってたら保たねえぞ?」
寝ろ寝ろ、と手をひらひらさせるフーゴ。
「……追いかけてくる人たち、私たちと一緒に夜は休んでると思う?」
「ああ、よほど馬鹿じゃなければな。夜の魔獣は危険だ。煌々と夜道を明かりで照らして派手に走ってりゃ何が寄ってくるか分からねえし、いくら魔獣除けの香を焚いていようとも移動してりゃ意味ねえからな。死にたくなきゃ大人しく休んでるさ」
「だよね……」
リーディアは自らが魔法で作り上げた野営のための石壁を見遣る。
出入りの為の隙間は最小限にしつつ、中の灯りが漏れないよう重ねるように立てている。魔獣除けの香も幾つも焚いているし、これなら問題はないはずだ。ただ、その外に一人寝ずの番に出ているヤーヒムは――
「ほらほら、あいつなら平気さ。なんかついでに剣の鍛錬もするって言ってたし。もっと強くなりたいんだと。俺からしてみりゃ剣なんて使わなくても既に<夜の王>なんだけどな? ここらの魔獣なんか相手にもならねえし、もし追手の奴らが来たって平気な顔して一人で返り討ちしてそうな気がするんだよなあ」
「……ふふ、そうね。朝一番で『すまない。霊峰まで尾行させる筈がつい殲滅してしまった』とか言ってきそう。ふふふ」
眉間に皺を寄せ、ヤーヒムの冷たい声を物真似するリーディア。
可憐なかんばせのリーディアがそれをやっても全く似てはいなのだが、フーゴと二人揃って笑い出した。
「じゃあ、馬達の水が足りないようだったら起こして。また魔法で出すから。お言葉に甘えて先に休ませて――あら?」
リーディアが自分の毛布を手に取ったその時、周囲にぐるりと立てられた石壁の上、満天の星空から何か小さいものが流星のように降ってきた。
「あ! ザヴジェルの使い文だわ! え、マーレから!? ちょっとこれだけ読んで寝るわ。なになに、もうザヴジェルに着いたの? どれだけ飛ばしたのよ、あの子……」
ザヴジェルの使い文――それは傍受や紛失の可能性が高いが、遠く離れた相手に素早くメッセージを届けるのに重宝されている、シェダの一族が編み出した通信系の魔法だ。魔法で飛ばされたその通信文を手に、リーディアが呆れた溜息を漏らしている。
どうやらアマーリエはその後も強引な早駆けを続け、もうザヴジェル入りを果たしているらしい。短い通信文にはその他に『あのコアは素晴らしいぞ。今、史上例がない最高の防魔結界がザヴジェルを守っている。ダーシャの具合に余裕があれば是非ともヤーヒムを探して捕まえてきて欲しい。リーナの初恋の為にもな。急ぎの用があればまた連絡する』などと書かれている。
「――ちょっとマーレっ!」
憤然と顔を上げたリーディアの抗議は当然届かない。
焚き火の灯りが彼女の瑞々しい頬を赤々と染める中、回し読みしたフーゴが「姫さん、その年でか?」と腹を抱えて笑っている。
「もう、寝る!」
霊峰チェカルを目指す一行の、最初の夜は更けていく。
◆ ◆ ◆
「すごい、こんなに大きいんだ……」
もはや定位置となった純白のスレイプニルの上で、フードが落ちるのも気にせずにダーシャが茫然と前方を見上げている。
そこに雄大にそびえるのは霊峰チェカル。パイエルの街からでも見えていたそれは、今や視界を覆い尽くすほどに眼前に広がっていた。
パイエルの街を出て二晩の宿営を挟んだ三日目。
フーゴの言によると最終日であろう今日は、朝から霊峰チェカル名物である霧に一面が包まれていた。未だ追いかけてきているであろう追手も使い魔も逆に監視の目が緩むだろうと、気を取り直して霧の中をひたすら駆け続けてきた一行。
午後遅くになって霧から抜けた途端、この雄大な光景に遭遇したのだ。
「うーん、後ろの奴らは完全に離しちまったみたいだし、足跡を残すためにも一度ファルタの街に立ち寄るか? それから本格的に姿をくらますって段取りで」
「あ、霧のファルタ!? ぜひ行ってみたいわ、ねえダーシャ?」
「うん!」
リーディアとダーシャがスレイプニルの上で姉妹のように揃って目を輝かせているのは、立ち寄ろうと話が出たファルタが有名な街だからだ。
古代迷宮群に潜る拠点となっているその街には長い歴史があり、古式ゆかしい尖塔が数多く建ち並ぶことから、<百塔の街><霧の都>などと謳われて物語の舞台になることが多い。
ダーシャがブシェクの宿でラビリンス攻略組の帰りを待っている間に読み聞かせてもらっていた、リーディア秘蔵の厳選恋物語集に実にロマンチックに描かれていたのもまさにそのファルタなのだ。
「じゃあちょっと寄っていくか。ほらあそこ、あの稜線に見えているのがそうじゃねえか?」
「おおお! 行くよダーシャ、掴まってて!」
「うん!」
勢い良くスレイプニルを加速させ、みるみる霊峰チェカルの懐へと駆け入っていく二人の後ろ姿。
ヤーヒムとフーゴは無言で顔を見合わせ、彼女達を見失わないように追いかけはじめた。
「ねえねえダーシャ、あれって<恋人の架け橋>じゃない?」
「あ、きっとそうだよ。ほら、手すりに大きなグリフォンの石像が――」
「あら、お嬢さんたち、通だね! そうそう、お嬢さんたちの言うとおり、あれが数々の物語に出てくる――」
霊峰チェカルの麓、ファルタの街に問題なく到着した一行は、乗騎を預けることなく引き馬で古都を巡っていた。
道も建物も全て苔むした石で造られている古都ファルタ。立ち並ぶ歴史ある塔はもちろん、民家のひとつを取っても時の流れを感じさせる佇まいを見せている。通りは細く入り組み、随所に神秘的な細路地がひっそりと口を開けて旅人を誘っているようだ。
住人は純粋な人族が多かったパイエルよりも亜人の率が高く、特に矮人族、いわゆるドワーフが多い。
鍛冶や石工の優れた職人たる彼らは、古代迷宮群から産出される様々な種類の魔鉱石を求めて大陸全土から集まってきているのだ。他にもエルフや蚕人族などよそではあまり見かけない種族も多く、そんな亜人達がそれぞれ特徴的な装いをして賑やかに入り組んだ通りを行き交っている。
そんな街の中を純白のスレイプニルを従え、すっかり打ち解けて仲睦まじく巡っていくリーディアとダーシャ。
対称的な美貌を持つ二人がフードを外して通りを歩けば、やはりここでも非常に衆目を集めるようだ。二人が何かを指差せば横から露店の女主人が嬉しそうに解説を入れ始め、お礼に購入した串焼きをヤーヒムやフーゴと分け合えば若いエルフの男達から妙などよめきが起こる。
これだけ目立っていれば、追手に向けた足跡を残すという目的は充分に達成できているだろう。
ヤーヒムは保護者のように二人に寄り添いながら、夕暮れの街に怪しい気配が潜んでいないか慎重に目を光らせていた。
「あー、姫さんたち、そろそろお終いにするぞ? 後ろの奴らが追いついてくる前に街を出るからな。さっき指差してたボロい橋を渡るのが最後な、あの双塔の間に架かってる、存在が意味不明なアレ」
「ちょっとフーゴ、かの有名な<恋人の架け橋>に向かって何てことを……。ダーシャ、年を取ってもああなっちゃ駄目だからね」
こくこくと神妙な顔で頷くダーシャ。
「ほらほら、どうせ物語じゃ夜の霧の中に佇む……とか妙な修飾がされてるんだろ? 霧がない今見りゃ何の変哲もない、ただのボロい――」
「――フーゴ、使い魔が来たぞ」
低いヤーヒムの囁きが賑やかな会話を断ち切った。
「くそ、早えじゃねえか」
「今は街の入口の上空、まだ見つかってはいない。逃げるぞ」
ヤーヒムはそれ以上何も言わずに、自らの騎馬の轡を取って街の外れへと足を向ける。
慌てたリーディア、ダーシャもそれに続き、フーゴが最後尾を守るようについて来る。ヤーヒムがちらと振り向けば、夕焼け空に舞う使い魔の探索は徐々にこちらへと移ってきているようだ。
「……フードをかぶれ。急ぐぞ」
ヤーヒムから滲み出るヴァンパイアの無言の威圧を感じ取ったのだろうか、通りの群集が面白いように一行の前を避けていくようになった。誰も意識している様子はないのだが、本能から不思議と道を空けていくのだ。半人半馬で高い位置に視点があるフーゴがヒュウと口笛を吹き、ダーシャが偉大なものを見るようにヤーヒムの背中を見詰めている。
「これが、父さんの……」
新たにヴァンパイアとなった彼女には何か感じるところがあったのかもしれない。
リーディアに手を引かれつつも、フードの奥のアイスブルーの瞳がヤーヒムの背中から離れることはなかった。
一行は不気味なほど滑らかに街から離れることに成功した。
霊峰チェカルの山中に入るのと時をほぼ同じくして太陽が沈み、鳥型の使い魔はヤーヒム達を見つけることのないままどこかへ降りていった。
「……ふう、ここまで来りゃ大丈夫か。危なかったな」
額の脂汗を拭いながらフーゴが立ち止まった。
「ところでヤーヒム、お前さん何をやったんだ? あんなに人が避けていくなんて」
「特に何も。ただ――」
いつに増して無表情な顔でヤーヒムは視線を逸らせた。
「ただ、騒ぎにならず自然に道が出来るよう、目の前の雑踏を眺めてみただけだ。記憶にある他のヴァンパイア達を思い出しながら、彼らと同じように……それを、獲物として」
「そ、そうか」
顔を盛大に引きつらせるフーゴ。
未だかつてフーゴやリーディアにそんな視線が向けられたことはなかったが、古来より人の捕食者たるヴァンパイアの凄み、それを初めて目の当たりにした気分だった。だが、おそらくそれだけではないという事も分かっていた。
あれはただ表面的に威圧しているだけではない、より深く本能的な何かだ。きっと並みのヴァンパイアに出来ることでもないだろう。道を空けていく人々の様子、あれを言葉にすれば「夜の覇者がそこに存在した」といった辺りか。だが――
「……悪いことさせちまったな。でもお陰で助かったぜ」
――だが、フーゴはすぐに真剣な眼差しで頭を下げた。
彼は知っているのだ、ヤーヒムが人の血を飲まないという厳粛な誓いを立てていることを。
ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても複雑な想いが今のヤーヒムの中に渦巻いているであろうことを。
そしてもうひとつ、フーゴはヤーヒムが正面切った人付き合いを苦手としていることも知っている。
だからフーゴは続ける。何事もなかったように、いつもどおりに。
「さ、とにかくこれで追手の奴らもそうそう追って来れないだろ。今日はこの霊峰チェカルの山の中で宿営だな。明日はいよいよ例のラビリンスに行ってみようぜ!」
いつもどおり磊落に声を上げ、いつもどおりに一行の先頭に立って物事を進めていく。
今日は霊峰チェカルの懐で、彼らの旅は一日を終える。明日はどんな一日になるだろうか。
次話『呪いのラビリンス』




