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叛逆のヴァンパイア  作者: 圭沢
第二部 Vampire & Throngs
36/90

34 ダーシャの選択(前)

「――ヤーヒムっ!」


 リーディアの叫びが豪奢な続き部屋(スイート)に木霊する。

 転がるように立ち上がってヤーヒムに圧し掛かる漆黒の巨狼を退かせようとするリーディアとフーゴに、ヤーヒムは血塗れの顔で制止をかけた。


「……深手ではない。それに、どんどんと噛む力が弱くなっている」

「どういうこと?」

「何言ってんだヤーヒム?」


 唖然として立ち止まる二人の前で、ヤーヒムは静かに手を上げ、己の肩口で血を啜り続ける巨大な人狼の頭をゆっくりと撫でた。

 既に獰猛な唸り声は消え去っている。頭を触られた人狼は抵抗もせず、やがて噛みついていた肩から顔を上げ、ヤーヒムの頬を力なくひと舐めした。


「……どうなってんのコレ?」


 フーゴが呟く。

 そして彼らが見守る中、漆黒の人狼の前脚がヤーヒムの両肩からずるりと外れ、その巨躯が崩れるように床に滑り落ちた。そのままヤーヒムの足元で弱々しく体を丸めて横たわる人狼。見事な毛皮に覆われた脇腹が弱々しく上下しているのが見える。最後にその紅の瞳でヤーヒムを見上げ、甘えるような鼻声でひと鳴き――そこで力尽き、ゆっくりと目を閉じた。


「……死んだ訳じゃない、よね?」

「……だな。でも今の、何かを言ってるみたいだったな。まるで人の子供のように」

「……ああ」

「……ダーシャの意識が残ってる、のかしら?」

「……けど、血、飲んでたな。かなりたっぷり」

「……ああ」

「そうだったわヤーヒム! 傷を見せて、治さないと!」


 しばし茫然と会話を続けた三人だったが、リーディアがヤーヒムの怪我の事を思い出した途端にバタバタと動き始めた。


「あれ、もう血が止まってる? さっきはあんなに血が出てたのに、見た目より浅かったのかしら?」

「ああ、さほど深く噛まれてはいない。それに我はヴァンパイアだ。この程度ならすぐに塞がる」


 至近距離にある紫水晶の瞳から視線を逸らしつつ答えるヤーヒム。

 フーゴは床に横たわる漆黒の人狼をまじまじと眺めている。


「おおう、シャドウウルフの上位個体になるのかコレ……。ダーシャの嬢ちゃん、よりによっておっかねえもんに化けたな。それにしてもシャドウウルフなら気配を消すなんてお手の物、俺たち三人が揃って不意打ちされる訳だわ。扉から出るまで影にでも潜ってきたのかもしれんな」

「ねえヤーヒム、このまま寝かしておくわけにもいかないわ。きっともう暴れたりしない気がするの。毛布とか掛けてあげてもいい?」

「……ああ。あれだけ我の血を飲んだのだ、この先どうなるかさっぱり分からぬ。しばらく交代で様子を見よう」

「じゃあ初めはフーゴにお願いできる? 私は宿の人に今の騒ぎの説明がてら、お湯と食事を頼んでくるわ。ヤーヒム、あなた血だらけだもの」

「姫さん、湯は人数分で頼む。随分と街道を走ったからな、埃っぽくていけねえ。ダーシャの嬢ちゃんはしっかり見とくぜ」


 フーゴがからからと笑って、部屋の入口に立てかけてあったハルバードを念のためとソファの上に放り投げた。そうはいっても、警戒を解くまではしないらしい。


「……我はリーディアに同行しよう。今の騒ぎで客が寄ってくるやもしれぬ」


 ヤーヒムが言うのは、追手の尾行者のことだ。

 街に入る前からフードはしっかりかぶっていたものの、ちらほらとそれらしき影がついてきていた。名族シェダの一員たるリーディアと有名な傭兵フーゴが一緒にいるからか、若しくは街中で騒ぎを起こすつもりがないのか、遠巻きにしたまま近付いてくる様子はなかったのだが。


 改めてヤーヒムが【ゾーン】を働かせてみても、この続き部屋(スイート)がある三階に怪しい侵入者はない。だが、今の騒ぎを聞きつけて尾行者が集まってきている可能性もあり、一階まで単身でリーディアが下りていくのは危険かもしれなかった。それに、この宿の構造や他の宿泊者の状況などを見ておきたいというものある。

 ヤーヒムはするりとリーディアの前に出、姫を守る名高き騎士のような自然な仕草で流れるように扉を開いた。




 パイエル一番の高級宿、新緑の薫風亭の三階まで登る階段はひとつきりだった。

 毛足の長い絨毯が敷き詰められたその階段を降りつつ、ヤーヒムは周囲の情報収集を怠らない。この下、二階に数組の宿泊客がいるようだが、今のところ不審な影はない。


「……ダーシャ、ヤーヒムの血をたくさん飲んじゃったね」


 ヤーヒムの一段後ろを歩くリーディアが、囁くような声で話しかけた。

 一段先を降りていく、斜め前にある広い背中。さっき自分を助けてくれたその背中が、いつになく近く感じられていた。


「ああ。少しずつ飲ませようと思っていた量の、その数倍は一気に飲んでしまったかもしれぬ」

「どうなっちゃうのかな。やっぱり、ヴァンパイアに? 今の姿のままよりそっちの方がいいし、結果としてそうなるのが一番かも」

「……何とも言えぬ。眷属を通り越して独立したヴァンパイアになるかもしれぬし、眷属で止まるかもしれぬ。もしくは今の姿のまま、ということもあり得る」


 二人は二階の踊り場まで下りてきた。

 敷き詰められた絨毯は終わり、床は黒光りする木材となっている。どうやら絨毯はここから上、三階の上流顧客限定の装飾らしい。



「ねえ、ヤーヒム。……私もダーシャと同じ、その、ヴァンパイアになりたいって言ったらどうする?」



 勇気を振り絞って口に出された唐突なリーディアのその言葉に、ヤーヒムの背中が一瞬驚きで強張る。

 刹那の沈黙。

 そしてすげなく否定された。


「何を馬鹿なことを。石持て追われる、呪われた種族だ」

「……ちょっと聞いてみただけ。ごめんね。――そうだ、ヤーヒムの食事って普通のご飯でいいの? 何度か一緒に食べてたけど、その、本当は血とかの方が良いんだよね?」


 言葉少なに先に一階へと降り始めたヤーヒムの背中に、リーディアは更に話しかける。

 怒られてもいい、もう一歩近くに踏み込みたいという思いが、彼女に新たな勇気をもたらしている。


「厳密に言えばそうだが、人と同じ食事でも繋ぎにはなる。人の感覚に例えれば……食後の甘い果実水のようなものか。美味なものは美味だし、量を口にすればそれだけでも一時の腹は脹れる、そんなところだ。無理に付き合っている訳ではない故、変な遠慮はするな」

「あの、もしあれだったら……私の血、飲んでもいいから。人の血を飲まないって誓いがあるのは知ってるけど、そうじゃなくて、その、単純な栄養補給として。よかったら」

「……昨夜、鹿人族の親子向けに狩った魔物の血を飲んだ。もうしばらくは平気だ。余計な誘惑は止めてくれ」

「ゆゆゆ、誘惑っ! ゆ、誘惑なんてそんな。…………でも、ヤーヒムにとって私、誘惑になってるんだ」


 小さく口ごもったリーディアの最後の呟きは、一階の踊り場に先行して鋭く周囲を警戒するヤーヒムの意識には届いていない。

 心のどこかで望んでいた何かには遠く辿り着かなかった。けれどリーディアはささやかな喜びにそのハイエルフ譲りの可憐な美貌を嬉しそうに綻ばせ、小走りで孤高のヴァンパイアの許へと走り寄っていった。




  ◆  ◆  ◆




「――それでマーレはあのラビリンスコアを持って、先に行ってるの」


 新緑の薫風亭、三階の続き部屋(スイート)の豪奢な応接室。

 湯浴みと食事を終えたヤーヒム達三人は、同行した隊商のクレメンスとその護衛のラディムとシモンの訪問を受けていた。ヤーヒムから預かった鹿人族親子を神殿に連れていった旨、それをわざわざ報告に来たのだ。


 人狼姿のダーシャは寝室に運ばれ、ベッドの上で変わらず昏睡状態である。時折リーディアが様子を見に中座しているものの、容体に変化はない。もちろんクレメンス達にダーシャが人狼化した一件は知らせておらず、具合が悪くて寝ているとだけ伝えている。クレメンス達も著名人二人の訳有そうな連れ子に遠慮をし、詮索は一切してこない。


 応接室ではラディムとシモンが傭兵繋がりのフーゴと話が盛り上がり、ヤーヒム、リーディアは商会長のクレメンスと主に会話をしている。

 今はリーディアがザヴジェルを襲った魔物の侵攻について説明をしていて――


「いやいや、貴重な情報を感謝します。しかしそれだけのラビリンスコア、商人の端くれとしては一度拝んでみたいものですね」

「そうね、アレはとんでもない逸品だったわ。お陰で魔の森の防魔結界が生まれ変わって、今回の侵攻はきっと何事もなく終わるわ。クレメンスさん、これからもザヴジェルに貴重な荷を運んでね。私もお世話になったと一族には伝えておくから」

「はは、シェダ一族のご贔屓など私共のような一介の商会には胃痛の種でしかありませんよ。ご厚意だけ頂戴し、どうか穏便にお願いします」


 紛れもなく上流階級に位置するリーディアに、やや顔を引きつらせつつも和やかに談笑するクレメンス。


「――では、ご迷惑になる前にお暇いたしましょう。夜分遅くに失礼をいたしました」


 区切りの良いところで話を切り上げ、クレメンスはさっと立ち上がった。


 訪問の目的は充分に達している。ヤルミルたち鹿人族親子の神殿での顛末報告――使われたのは悪辣なクラーレという矢毒の亜種で、神殿でもかなり驚かれたものだ。幸い解毒が早く、付属の治療院に二泊もすれば子供達も元どおりに走り回れるとのことだった。ヤルミルたち大人組から受けたヤーヒムへの感謝の伝言も伝え、今後クレメンス商会が責任を持って面倒を見る旨も宣言してある。


 後はドウベク街道の情勢にまつわる情報交換だが、これも一定の成果を得た。

 不穏に動き回っていた闇組織のゼフトは何かを探しているようで、隊商の荷にはおそらく興味を持っていないこと。そのゼフトとは別勢力の一団もいて、彼ら同士で勝手に争い始める可能性もあること。鹿人達を拉致していたノールは街道から離れる方向、ハナート山脈の方へ逃げていったこと。

 更に高名なシェダ一族の姫君からは、ザヴジェル領の魔物侵攻と防魔結界に関する驚きの新情報を得ることも出来、クレメンスは非常に満足していた。


 何より彼の満足心を深めるのは、あのノールに攫われた鹿人族の親子をきっかけに、この場にいる三人と面識を得たことだ。

 それは彼の商人人生の中で一二を争う慶事。もちろん凶悪なハイエナ獣人ノールの被害者には、元より全面の援助を惜しむつもりはない。


 そんな当たり前の行為の報酬が、この三人――ハイエルフの流れを汲む名族シェダの秘蔵の姫君リーディア、王国中にその名を知られる超大物傭兵フーゴ、そして天下に名高い辺境ザヴジェル騎士団の、おそらくトップに近い位置にいる凄腕の高位騎士ヤーヒム――との面識なのだ。


 おいそれと使えるコネではない。もしかしたら一生使えないかもしれない。だが――


 ――私の人生、大儲けだ。


 商人クレメンスはこれ以上ない上機嫌を笑顔の下にしまい、護衛のラディムとシモンを引き連れ、礼を失しないよう丁寧に高級宿の扉を閉めた。




「――アマーリエ達は大丈夫なのか?」


 クレメンス一行を見送った続き部屋(スイート)の応接室では、ヤーヒムが改めてリーディアに問い掛けていた。


「ええ、あのコアがあれば間違いないわ。あんなに巨大な魔力が詰まっていて、しかもあんなに余計な属性が抜けて澄みきっているのよ? 私はまだまだ経験の浅い魔法使いだけれど、アレがあれば魔の森の端から端までとんでもない防魔結界が張れるってことは分かるわ」

「まあ、青くないコアなんて見たことねえもんな。それにもし万が一魔獣が溢れて戦いになるようだったら、アマーリエの姫さんがすぐに連絡をくれることになってんだ。つうことで、今の俺はこっちの姫さんとダーシャの嬢ちゃんの私設護衛って扱いだな」

「もう、あのコアの凄さが分からないの? マーレもみんなも何度言っても半信半疑なんだから。向こうに着いて他の魔法使いの話を聞いてから謝っても遅いんだからね?」

「ちょ、信じてるからこうして一緒にいるんじゃねえか。そもそも――」


 リーディアとフーゴの遣り取りでおおよその所を把握したヤーヒム。

 もしアマーリエから連絡が来れば自分も同行しよう、そう決意して次なる話題に変えようとした時。



 ヤーヒムの鋭い五感が、膨れ上がるただならぬ気配を捉えた。



 それは応接室の隣にある居間、その片隅の閉ざされた扉の奥からだ。

 そこは紛れもなく、昏睡中の人狼と化したダーシャを寝かせている寝室。

 ヤーヒムの左手の甲に同化したラドミーラの紅玉が、ズキリ、と指ぬきの皮手袋の下で警告するような鋭い痛みを伝えてくる。ヤーヒムは弾かれたように立ち上がり、問題の寝室へと豪奢な調度品の間を風のように駆け抜けた。


「ダーシャ……?」


 ゆっくりと開いた扉の先、ベッドに起き上がっていたのは先程の漆黒の狼ではなかった。

 それは半分だけ人の姿を取り戻したダーシャ。


 何の変哲もなかった亜麻色の髪はヤーヒムと同じ濡れたような漆黒に変わり、幼さの残る肩へと艶やかに流れている。

 肌は抜けるような白となり、顔立ちは面影を残しつつも優美で鋭い闇の種族のそれへと変貌を遂げている。そして大きく見開いた瞳は魔の紅ではなく、かと言って元来の深い緋色でもない。それはヤーヒムに良く似た、透明度の高いアイスブルー。


「ちょっと何ごと……まあ!」

「こいつは驚いた。嬢ちゃん、だよな?」


 ヤーヒムの後から追いついてきたリーディアとフーゴが息を呑んでいる。


「や、や、嫌ぁ……み、見ないで…………」


 ダーシャが新たなアイスブルーの瞳に絶望を浮かべて言う。

 近づく者全てを拒絶するように上げられた、その腕は――


 ――未だに漆黒の狼のままだった。華奢な体から突き出た、むくつけき獣の腕。


「な、なんで……? せっかく助けてもらったのに……やさしい人に囲まれて、強くなって、忌み子でも全部を忘れて新しく生きていくって決めたのに……!」


 ダーシャの目から大粒の涙が溢れ、まっすぐに頬を伝っていく。

 悲痛な表情で茫然と眺めているのは、狼の前脚となった自分の腕だ。そして、やにわに爆発したような叫び声を上げた。


「嫌っ! 嫌ぁあああ! 人狼なんて嫌っ! なんで私ばっかり、もう嫌! 死にたい、もう生きてたくなんかない! もうやだあああ!」


 ダーシャ……。何の言葉も掛けられず、ぽつりとリーディアが呟いた。

 そのひと言に込められた彼女の万感の想い。怖れていたことが、悪夢のように。


 ヤーヒムが泣き叫ぶダーシャに静かに歩み寄る。

 そして、そのまま壊れ物を扱うように優しくダーシャを抱き締めた。


「……すまない」


 それは、結局中途半端にしか救えなかった少女に対する、心の底からの懺悔。

 泣きじゃくるダーシャを優しく包むその胸の中で暴れ回っているのは、少女に背負わされた苛酷な運命に対するやるせなさ。そして、切り裂くように鋭い後悔。


 あの時、血を飲ませるべきではなかった。

 再会した後も、何かもっとやり方があったはずだった。


「すまない……本当に、すまない」


 繰り返されるヤーヒムの言葉に、泣きじゃくるダーシャがビクリと身を震わせた。

 それは、かつて聞いた救い主の言葉。


 ――あのひとは、あそこからわたしをたすけだしてくれた。


 ダーシャのうちひしがれた心に、ひとつの灯火が点る。

 かつてと同じ言葉。かつてと同じ、泣きたくなるぐらいに優しいその声。



 ――わたしを助けてくれたあのひとは、いま、わたしを抱いてくれているひと……? だったら、もしかしたら…………



「…………」



 いつしかダーシャは泣くのを止め、己を優しく包む抱擁に赤子のように身を委ねていた。




 あたたかい……。




 そしてダーシャは眠りについた。




次話『ダーシャの選択(後)』、本話の後半部分です

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