27 街道の惨事
隆盛を誇るスタニーク王国の生命線、ハナート山脈の東麓を縦断するドウベク街道。
迷宮都市ブシェクから馬車で一日、林に覆われた緩やかな丘陵地帯から岩石が露出する荒々しい峡谷へと変わっていくそのドウベク街道上に、風格漂う一人の騎士風の男がザヴジェル領に向けて足早に歩を進めていた。
季節は初春、時は夕刻少し手前。
名だたる迷宮都市を経由し南に位置する王都と北の辺境ザヴジェル領を一本で結ぶこの街道は、常に多くの隊商が賑やかに行き交っていることで有名だ。だが、それも迷宮都市ブシェクを過ぎてザヴジェル側に入ると途端にその様相も様変わりしていく。物々しく武装した者が増え、てんでばらばらに移動していた人々は寄り添うように集団を形成して進むようになる。
要所要所に街や宿場はあるものの、ザヴジェル領までの道程の半分は人跡稀な大自然の中を進むこととなるからだ。
「…………」
芯に冷たさを孕んだ風に煽られるフードの下、僅かに眉をしかめた男の名はヤーヒム。夜陰に紛れブシェクを脱出したヴァンパイアだ。
真祖直系の高位ヴァンパイアである彼は春の柔らかい日差しを恐れることもなく、見た目はお忍びで気楽な旅をする高位の騎士のように見える――よく観察する者がいれば、供を連れない不自然さや油断なく張りつめた眼差しに違和感を覚えるかもしれないが。
ブシェクの捕縛網から逃れ、ザハリアーシュを始めとしたゼフトの追手に痛烈な反撃を与えて置き去りにしてきたヤーヒム。その後は夜明けまで森の中を疾駆し、少々の仮眠を取った後は思い切って街道を進み続けていた。
それは、ブシェクを離れるにつれて急激に森に潜む魔獣の数が増えてきたからだ。
ヤーヒムにとって遭遇する魔獣の血は水であり食糧でもあるのだが、さすがに数が多すぎると思うように距離が稼げない。それに、ラビリンスで蹂躙してきた魔獣達と違い、野生の魔獣はどこかしたたかで油断のできない一面を持っているのだ。コアに召喚され魔獣間で争うことのない環境で生存を保障されてきたものと、自然界で幼生の時から厳しい生存競争を生き抜いてきたものの違いかもしれない。
幸い街道を行く交易者達は馬車や荷車を中心にした隊列を組み、交代で周囲を警戒しながら物々しく進んでいる。集団になる分その間隙も大きく、鋭敏な五感を持つ彼にしてみれば避けて通るのも容易いこと。
いくら実力ある高位の騎士に見えても、凶暴な魔獣が闊歩するこの丘陵地帯を旅人が独りで行動していることは珍しい。
そうやって好奇の目も全て避けて進んではいるのだが――
「………………」
ヤーヒムはフードの下ではっきりとその整った眉をしかめ、さり気なくその歩みを速めた。
いつしか道の左右に森がなくなり、頭上高くを鷹が不自然に旋回している。確信はないが、ラビリンスで遭遇した三人組が使役していた使い魔の姿が頭から離れない。加えて、彼の鋭敏な五感が馬蹄の音も荒々しく接近してくる騎馬集団の存在を捉えつつあった。
まだ少しばかり距離はあるが、追手とすればこれが二度目、またブシェクの警備兵達だろうか。
今度もあっさりやり過ごせると良いのだが……。
身を隠せる森があった場所からはだいぶ離れてしまった。ヤーヒムは僅かに肩をすくめ、背中の長剣の位置を調整する。
既に意味のない偽装かもしれないが、その助言をしてくれたエルフの血を引く可憐な女性の顔がふと脳裏をよぎり、ヤーヒムは微かに口の端を上げた。
「………………」
道は両側に岩壁が露出する荒々しい峡谷の底へと下り、ヤーヒムは更に足を速める。
どうせならもう少し見通しの悪い場所で遭遇したい。傾いた太陽は早々と西にそびえるハナート山脈に隠れつつあり、岩だらけの峡谷は急速に薄暗くなってきた。背後の騎馬集団は道が直線であれば確実に視認できる距離まで接近してきている。
――先程とは馬の質が違う。かなりの駿馬だ。
ヤーヒムは更に足を速め、小走りで走り始めた。
警戒すべきはザハリアーシュとゼフトの追手だが、あれだけ数を減らしてきたのだ。すぐに追ってくることはないと思いたいが……。
ヤーヒムが目指しているヴァンパイアのコミュニティは、この峡谷の程近くにそびえる古城を本拠としていた。
ラドミーラに連れられて訪問してから二百年近く、当時は百近いヴァンパイアが所属する中規模コミュニティだったが、未だに存続しているかは分からない。また追手をやり過ごせればよし、そうでなければ……ここで一旦断ち切っておくのがいいかもしれない。もし細々とでもコミュニティに生き残りがいた場合、厄介な人間達を引き連れて行きたくはない。
――来る。
ヤーヒムは大きな曲がり角を曲がった先で小走りになっていた足を緩め、そのアイスブルーの瞳で鋭く周囲の地形を確認した。
両側は荒々しい岩壁、見通しは悪く崖上に転移で逃げられなくもないが選択肢は狭い。ヴァンパイア狩りの注文どおりの地形で遭遇することとなるが、いざ戦いになっても、ここなら一般の旅人から見られることはない。
今のうちに転移で崖上に姿を隠すこともできるが、以前よりは使用できる間隔が短くなったとはいえ、やはり転移は何かの際の切り札としてギリギリまでとっておきたい。やり過ごせるか試してみるべきだろう。
もし戦いになる場合は――実戦で色々と検証させてもらうか。
ヤーヒムは素早く思考を巡らせつつ、ゆっくりと道の端に寄って立ち止まった。
そして、あたかも旅人が休憩しているかのような風情でのんびりと道端の岩にもたれかかり、近付いてくる騎馬の足音に耳を傾けた。
ヤーヒムの鋭い聴覚に届く足音はおよそ三十騎。
見通しの悪い峡谷に入ってからは速度を落とし、統率のとれた軽速歩で整然と曲がり角の手前まで接近してきている。遭遇まで猶予時間はあと僅か。
ならば――
ヤーヒムはゆっくりとした動作で足元の小石を拾い、唐突に上体を翻して鋭く頭上に投擲した。
ヴァンパイアの人外の膂力で放たれた小石は矢のように一直線に上昇し、上空で不自然に旋回する鷹――おそらくは追手が使役する使い魔――の胸を貫いた。遠くしゃがれた断末魔、飛び散る羽毛。
そのまま岩壁に墜落していく標的に目もくれず、ヤーヒムは何事もなかったかのように岩にもたれ直した。
鬱陶しい目は潰した。
あれが使い魔だったとして、その主はおそらく今回の追手の中にはいないだろうが、これで追手さえどうにかすれば確実にこの先の足取りが追われることはない。
ヤーヒムが腕組みをして聴覚に集中していると、騎馬集団が一斉に速度を上げた。鷹の断末魔を聞き、何事か異変を感じ取ったのだろう。全力疾走に移ったのだ。もう曲がり角の先まで来ている。そこを曲がればもうヤーヒムとは目と鼻の先だ。
――感覚は鋭く、決断も早い。統率も取れている。
ヤーヒムはフードを深々とかぶり直し、その奥からアイスブルーの瞳で静かに曲がり角を見詰めた。
高らかに接近してくる激しい馬蹄の音。そしてついに、岩壁を回り込むように次々と追手がその姿を現した。
「いた、奴だ!」
口元を絹布で覆った三十騎が一団となって雪崩込んでくる。先駆けの一騎が馬腹に乗りだすように何かを振り回し、駆け抜けざまにそれをヤーヒムに投げつけ――投げ網、それも銀鎖だ。
初手からそう来るか!
銀はヴァンパイアの動きを封じる。ヴァンパイア狩りの常套手段だ。
この時代によく残って――ヤーヒムは目の前で生き物のように広がる銀鎖の網を信じられない思いで見詰めた。純銀の忌まわしい輝きが囚われの地下牢生活をまざまざと思い出させる。その瞬間、白い霧が辺りを包んだ。
「囲め!」
急追してきた三十騎が流れるように包囲網を作り上げていく。
兵士のように揃いの鎧を着ることなく、だが見事な連携を取り、そして明らかに腕の立つ集団――ゼフトだ!
彼らに前回の追手のような甘さはない。こちらを見るなり躊躇なく攻撃してきたことを考えると、昨夜街の外で待ち伏せしていた影達の生き残りも混じっているのだろう。ザハリアーシュがいないことに霧の中で安堵のため息を漏らすヤーヒムをよそに、騎乗の覆面男達はみるみるうちに水も漏らさぬ包囲を完成させていく。
「魔法!」
リーダー格の号令一下、後陣の数騎が一斉に杖を振り上げた。多数の炎弾が、氷礫が、白い霧に覆われたヤーヒム目がけて襲いかかる。他の二十余騎も間を空けずに弓や投げナイフなどの飛び道具をそれぞれに放ち、それらも真っ白な霧の中へと――
「――何!?」
誰かが驚きの声を漏らした。
ヴァンパイアの弱点である筈の魔法が、白い霧でぼやけたヤーヒムを何事もなかったかのように素通りしているのだ。いや、魔法だけではない。初めに投擲した銀鎖の網も獲物を捕らえることなく背後の岩壁に絡みついている。後発の暗器の一群もまた同様に眼前のヴァンパイアを通過していく。
「…………随分と乱暴なご挨拶だな」
呆気にとられて思わず攻撃を止める襲撃者達の目の前で、霧から抜け出すようにヤーヒムが前に進み出た。透きとおったアイスブルーの瞳が冷たく彼らを見据えている。
「銀も、魔法も、全て無駄だ」
薄い唇の端がゆっくりと吊り上がる。
そう、ヤーヒムは初めて実戦で【霧化】を試してみたのだ。ブルザーク大迷宮の帰還の道中にリーディアに協力してもらい、大まかなところは掴んであった。だがリーディアにも躊躇いがあり、今のように手加減なしで殺す気の魔法までは試せなかった。そこに手頃な人数の追手である。心の準備はしてあった。ちょうどいい実戦検証、しかも予想外の銀鎖まで試すことが出来た。
だが、対する襲撃者達はそれどころではない。
自分達が昔話で散々聞かされたヴァンパイアを襲うと知ってはいたが、弱点である銀も魔法も意味をなさないとは聞いていない。そもそも見事に決まった筈の攻撃の全てがすり抜けていくのだ。そんなことは前代未聞、あり得ないことだ。底知れぬ恐怖が彼らの胃の腑を鷲掴みにし、冷静な判断を狂わせていく。
「……仕掛けてきたのはそちらだ。覚悟は出来ているんだろうな?」
ヤーヒムの爪がするりと伸び、夕闇の中でまばゆい青白光を放ち始めた。
「な……! ええい、全員で殺――ぐああッ」
リーダー格の男の左脚が唐突に切断された。
ヤーヒムが燕の速さと滑らかさでその蒼く輝くヴァンパイアネイルを振るったのだ。
ヤーヒムはそのまま低い姿勢で包囲網の中に潜り込み、五本二対の青白光の軌跡を縦横無尽に描き出す。無双のヴァンパイアネイルは大地を掠める鎌鼬のごとく、まずは男達の乗る馬の脚を片端から斬り飛ばしていった。撒き散る血煙、横倒しに倒れ暴れる駿馬、巻き込まれ地に転がる男達――統率の取れていた筈のゼフトの使い手達が、見る間に大混乱に陥っていく。
そして、ヤーヒムの実戦検証はまだ終わりではない。次のステップが用意されていた。
「舐めた真似を――え?」
咄嗟に馬から飛び退いた覆面男の一人が、たまたま正面に流れてきたヤーヒムに斬撃を放つ。が、ヤーヒムは敢えて回避をせずにその軌道上に身を置いて――相手の曲剣が到達する寸前、【霧化】で実体を隣接する界に滑らせて剣を素通りさせた。
「な……け、剣も効かないぞっ!」
ようやく少し慣れてきた、か。
ヤーヒムはすぐさま【霧化】を解き、黒布の上の目を驚きと恐怖で一杯に見開いた男に必殺の一閃を残して次の獲物へと向かう。隙だらけだった。
「ば、化け物だ……こ、こいつ何者だよ……」
「――ヴァンパイアだ。お前達が力づくで捕まえようとした、な」
眼前の覆面男を一閃の下に斬り伏せ、ヤーヒムは更なる獲物に近付いていく。
今度は更にギリギリまで【霧化】を遅らせ、その限界を見極めなければ。そしてもちろん、すぐに【霧化】から戻って反撃する要領も更に磨いていく必要がある。理想は戦いの中でここぞという一瞬だけ【霧化】を使えること、全てを滑らかに繋げるのはまだまだ修練が足りていない。
「く、く、来るなあああ!」
攻撃も効かない、味方は次々と狩られていく。昔話はけして大袈裟ではなかった。
人類の捕食者、恐怖の象徴としか見えないヴァンパイアに、襲撃者達は極度のパニックに陥り始めた。
後陣にいた覆面男が恐慌のままに杖を振り上げ、つかえながらも詠唱を開始する。味方ごと大魔法で薙ぎ払おうとしているのだ。
ヤーヒムはそれを見て取ると、即座に地上すれすれを滑るように駆け抜けた。湧き上がる悲鳴。魔法使いは余計な大魔法を放つ前に蒼い爪の餌食となって崩れ落ちた。
魔法――やはりというべきか、それは【霧化】でも解消しきれないヤーヒムの究極の弱点。
先程のような、まばらな炎弾や氷礫程度ならいい。【霧化】していればそれらは素通りしていく。
が、実際は炎と氷、この二つの現象と【霧化】の相性が良くないのだ。
炎は霧を蒸発させ、冷気は霧を凍らせる。少数の炎弾や氷礫程度ならまだしも、それぞれの上級魔法での高出力攻撃となるとどうなるか分からない。こちらの界に実体を戻す時にその基点となる霧がなくなっている――ヤーヒムには直感的に理解できる。それは、隣接する界に置き去りにされて戻れなくなるということ。
物理的に全てを回避するしかなかった以前に比べれば格段にマシにはなっているだろう。
が、ヤーヒムにとってやはり魔法使いは鬼門。敵となり明らかに向かってくるならば容赦はしない。もちろん、他の襲撃者達も。
「…………」
恐慌に陥った襲撃者達は、なす術もなく瞬く間に殲滅された。
凄絶な叫喚がぴたりと止んだその背後を、ヤーヒムはゆっくりと振り返る。
短くも激しい戦闘は終わり、夕闇の峡谷に生存者はいない。
そこに広がるのは襲撃者を運んできた駿馬達だけが弱々しくもがく凄惨極まりない光景と、濃密な血の匂い。
襲ってきたから返り討ちにした。
それ以上でも、それ以下でもない。
ヤーヒムは感情の窺えない冷たいアイスブルーの瞳で静かに全てを見渡し、執拗に誘ってくる芳醇な血の匂いから意識を逸らせた。
人の血は飲まない。その誓いを破るつもりはない。
呼び覚まされた強烈な飢えを手近な駿馬の血で誤魔化しつつ、罪のない馬がそれ以上苦しまないよう速やかに止めをさして回る。
ブシェクのラビリンスで覚悟は決めたつもりだったが、外の世界はかくも厳しい。
凍てついた心がまた冷えていくのを感じつつ、ヤーヒムは意識して背中に背負った偽装の剣の感触を確かめた。
己を気遣って帯剣を提案してくれた、一緒にいると春の日差しのように暖かいリーディア。己を高潔な騎士と認め、人間時代の剣術で対等に打ち合いもしてくれたマクシム。仲間として共に歩み、仲間として当たり前のように守ってくれようとするアマーリエとフーゴ。
――彼らと出会えて、本当に良かった。
ヤーヒムの冷たく張りつめた顔が僅かに緩む。これは己が生き延びるための戦い、抗わなければ自分が捕えられ強制的にまたあの絶望の虜囚へ逆戻りさせられていただろう。
ああ、貴女も忘れてはいないよ――ヤーヒムは左手の甲に同化した不滅の紅玉を皮手袋の上からそっと撫でた。常に変わらず送られてくる柔らかい温もりの中に、拗ねたような鈍い痛みが混じっている。
手袋を外せば、馬の血を啜ってヴァンパイアレッドに染まったヤーヒムの瞳とそっくりの輝きが彼を見返してくるだろう。
……さあ、共に歩こうか。
ゆっくりと息を吸い込んだヤーヒムが、高位ヴァンパイアの証たる紅玉の瞳でふと見上げれば。
峡谷に切り取られた狭い夕空に、早くも集まりつつあるハーピーの姿があった。漂う血の匂いを、老婆の上半身を持つ死肉漁りの魔鳥が早くも嗅ぎつけたのだ。
こうして世界は回っていく。
彼等にとってはそれが生きるための正義。
ヤーヒムは惨劇の後始末をしたたかな魔獣達に任せ、自らの目的に向かって歩き始めた。最初の目標はすぐそこ、この峡谷の程近くにそびえる古城だ。
二百年前、そこにあった筈のヴァンパイアのコミュニティは、今も果たして生き残っているのだろうか。
答えはすぐに分かる。
次話『古城にて(前)』




