18 過去、そして未来へ
ヤーヒム、ヤーヒム…………
遠くで懐かしい声が彼を呼んでいる。
気怠い暗闇の中、左手の甲のラドミーラの紅玉が微かに脈打ち始めているのが分かった。そして、誰かの温かい手が彼の髪を優しく撫でているのも。
………………。
ヤーヒムの意識がぼんやりと浮かび始める。
そう、自分は酷く疲れ果ててしまった。身も、心も、全てが。
濃厚な魔素が漂うここは心地が良い。
もう少し、まだもう少し休もう――
ヤーヒムは再び暗闇に落ちていった。
◆ ◆ ◆
微睡むヤーヒムの意識がどこか見覚えのある部屋を映し出した。
ここは……かつて人間だったヤーヒムが住んでいた街の宿屋。麗しのラドミーラと最後の夜を過ごした場所。
ああ、またあの時の夢を見ているのか……もう、充分だというのに…………
ベッドに横たわっている自分の腕の中には、ラドミーラにしては妙に華奢な女の体。
牙を突き立てたその首筋から、そんな些細な違和感などどうでも良くさせる程に甘美な血がヤーヒムの口に流れ込んできている。芳醇で退廃的、背徳美さえ感じさせるその血はヤーヒムを恍惚とさせ、もっともっとと貪欲に啜っていく。
『……にい、さま…………なんで…………』
なぜか血がほとんど口に流れ込んで来なくなった頃、耳元で微かにラドミーラが囁いた。いや、明らかにラドミーラとは別人の声だ。しかも聞き覚えのある声。
がばりと顔を上げ、腕の中の相手を確かめる。
黄金色の髪、紫水晶の瞳。
幼き頃からずっと慈しんできた、馴染み深い――だが記憶の中より大人びた――少女の顔。
『――ユーリア!? ユーリアなのか!?』
そう、腕の中にいるのは間違いなくユーリア。
ユーリア=シュナイドル、ヤーヒムの――ヤーヒム=シュナイドルの七歳年下の血の繋がった妹。ヤーヒムがヴァンパイアになった当時は十三歳、病弱でベッドから起き上がることも儘ならなかった最愛の家族。幼い頃から可愛がり、毎日必ず病室に通って笑顔を作ることを日課にしていた、痩せて母譲りの大きな紫水晶の目ばかりが印象に残る薄幸の少女。
あれから十年、現在は二十歳を超えている筈だが、面差しは殆ど変わっていない。
相変わらず成長が不十分で、痩せて目ばかり――そして、今は一切の生気を失った白い顔でヤーヒムの腕の中にいる。血の気がない原因は分かっている。その華奢な体の血をヤーヒムが残らず貪ってしまったからだ。ヤーヒムの未だ発達途中の牙に、その最後の一滴が薄く、生々しくまとわりついている。
『……ほんとうに、にいさま、なのね? なんで……でも…………会いたかった…………』
呆然と見詰めるヤーヒムにユーリアはそう言ってうっすら微笑み、そして眠るようにその紫水晶の瞳を閉じた。
『ユーリア! ユーリア!』
いくら叫んでも、いくら揺さぶっても、あれだけ美しかった紫水晶の瞳はもう二度と開かれることはなかった。呆気ない、そして意味の分からない残酷な再会。知らぬ間に嗚咽を漏らすヤーヒムの口に、舌に、初めて飲んだ人間の血の芳醇さが残っている。喉に強烈な悦楽が残っている。だが、それはそのたどたどしい成長を慈愛を込めて見守っていた、かつての妹の命の名残りなのだ。
『――ほら、人の血は美味しいでしょう?』
見上げると漆黒の髪に紅玉の瞳、麗しのラドミーラが窓辺に立っていた。
なぜ――!
言葉にならないヤーヒムの絶叫に、ラドミーラはいつものように妖艶に、だが凄絶な狂気を滲ませて微笑んだ。
『うふふふ、貴方がいけないのよ? 私たちは二人でひとつ、他の女のことなんて絶対に考えちゃ嫌。昨日この街に入って自分の実家を見た時から、貴方ずっとこの娘のことを考えていたでしょう? だから浚ってきて寝てる貴方の隣に放り込んだの。相手に想いがあればあるほどその血は美味しくなるわ。うふふふ、人の血を飲まない貴方でも、この娘の血は夢中になって飲んでいたわね。美味しかった? この娘のこと、そんなに想っていたのかしら?』
『な、なにを馬鹿なことを! なんてことを!』
『でも、許してあげるわ、愛しい人。これで貴方も人の血を飲んだのだから。うふふ、ますます貴方は大きな存在になっていくわ。私と貴方、ますます完全な番いになっていくの――きゃあ! ヤーヒム、何を――!?』
ヤーヒムは初めてラドミーラを全力で殴り飛ばした。不意を打たれたヴァンパイアの女王に馬乗りになり、更に何度も何度もその麗しい美貌を殴りつけた。
『なんてことを! なんてことを! ユーリアはたった一人の妹だぞ! 寂れたあの家を見たかッ! 跡継ぎの俺がいなくなり、この弱い妹にどれだけ負担をかけたか分からないのか! 小さな頃から病弱で、この歳まで生きてくれていたことが奇跡なのだぞ! それを、それを、俺が自分の牙で――ッ!』
『ヤーヒム、お願い、やめて。必要なこと、だったの。永遠に一緒にいるには、これが』
『ならば一緒になどいない! もう二度と顔も見たくない! 消えろ!』
ヤーヒムはラドミーラを掴み上げ、開かれたままの窓からヴァンパイアの膂力で力任せに投げ飛ばした。
『嫌、そんなの嫌! ねえお願い嘘だと言って! 私たち永遠に一緒にいるの。私たち完全な番いなのよ! 私に寄り添えるのは貴方だけ、その為に貴方を作り出したのよ! ねえ私を見て、もう空虚に一人で生きるのは嫌なの! お願いヤーヒム!』
外の大木の枝からラドミーラが叫んでいる。
ヤーヒムは今はっきりと理解した。いや、これまで目を背けていただけかもしれない。
ラドミーラ。
真に強力なヴァンパイアの一人で、ヤーヒムのヴァンパイアとしての親、そして永遠の恋人でもあった麗しのラドミーラは――
真実、狂っている。
太古の昔から生きてきた孤高の存在ゆえの歪みなのか、この先も永遠の命が約束された者ゆえの妄執なのか。
今になってようやくヤーヒムは理解した。ラドミーラはその出会いの時から狂っていたのだ。
未だ妄言を喚き続けるラドミーラを完全に意識から締め出し、ヤーヒムは荒い息をなんとか落ち着かせた。
そして、震える足でベッドに歩み寄り……
物言わぬ亡骸となった妹の脇に跪いて……
魂も裂けんばかりの慟哭をシーツで押し殺して――
夜明け前。
涙と一緒に心も枯れ果てたヤーヒムは、己の生家シュナイドル家の屋敷裏、先祖代々の墓地にいた。
誰に知らせることなく、自分の手でユーリアの亡骸を埋葬したのだ。まるで眠っているように微笑むその顔にそっと土を被せ、痛くないように、重くないように優しく全体に土を乗せていく。
記憶の姿が信じられないぐらいに寂れた眼前の屋敷に暮らす、もうかなりの歳であろう両親はユーリアの失踪に気付いているだろうか。これで次世代を担うシュナイドル家の人間はいなくなってしまった。彼らに合わせる顔などない。遠くから垣間見ることさえ許されない――自分は、名実共に穢れたヴァンパイアになってしまったのだから。
『……二度と人の血は飲まぬ。己が誇りにかけ、そう誓おう』
こうして土を乗せる度にヤーヒム=シュナイドルはただのヤーヒムとなり、人間だった時代と訣別して呪われたヴァンパイアとなっていく。二度と人の血は飲まぬという誓いは、ユーリアと両親にとってせめてもの償いになるだろうか。
『……ヤーヒム?』
背後から憔悴した声が掛かった。ラドミーラだ。
ずっと見ていたのは知っていた。だが、ただひたすらに厭わしかった。
『ヤーヒム、ねえ、お願い。話を聞いて』
『…………』
『ヤーヒム、ああ、お願いよ』
『…………』
『ヤーヒム、本当に、最後にひとつだけ聞いて!』
ラドミーラの声に乗せられた悲痛に満ちた決意に、ヤーヒムは渋々と振り返った。
『……私は謝りはしない。けれど貴方の前から姿を消すわ。それを、貴方が望んでいるから。だから最後にひとつだけ、これをあげるわ。もうこうやって話をすることはなくなるかもしれないけれど、貴方を愛したヴァンパイアがいたということは忘れないで。私の心はずっと、永遠に貴方と一緒よ』
そう言ってラドミーラは万感の想いを込めてヤーヒムを見詰めた。この十年、変わらずヤーヒムだけに注がれ続けた慈愛に満ちた紅玉の瞳が一杯に涙を湛え、深い哀しみに覆われている。ひどく歪んでいて、その分だけ強く純粋な涙。
やがて徐に右手を上げると、短い呼気と共にやおら自分の胸に突き刺した。噴き出す血潮がラドミーラの豪奢なドレスを真っ赤に染めていく。
『な、何を……?』
いくら真祖だとしても相当の深手であることは間違いない。突然のことに思わず一歩踏み出したヤーヒムの左手に、ラドミーラが胸から抉り出した何かを押し付けた。迸るラドミーラの血飛沫の中、心臓の鮮血に塗れたそれはヤーヒムの左手の甲に吸い込まれるように合わさり……ラドミーラの瞳と同じ、妖しく複雑な紅の輝きを放ち始めた。
『くふっ……それは、私の紅玉よ。私の想い全ての結晶……がっ……』
ラドミーラは鮮血に塗れた口を拭って話し続ける。
『これをあげるわ。もうこうやって話をすることはなくなるかもしれないけれど、貴方を愛したヴァンパイアがいたということは忘れないで。私の心はずっと、永遠に貴方と一緒よ――行ってヤーヒム。振り返っては駄目よ。ちょっと疲れたわ。少し眠ろうと思うの。……さようなら、私の愛しいヤーヒム』
そう言って儚く微笑んだラドミーラの血汚れた顔が、未だにヤーヒムの脳裏に焼き付いている。
……さようなら……私の……ヤーヒム…………ヤーヒム…………
◆ ◆ ◆
「ヤーヒム……」
ヤーヒムが悪夢から帰還すると、汗でじんわり湿った己の胸の上に黄金色の頭が乗っていた。
強烈に鼻腔を刺激する濃厚な血の匂い。
ヤーヒムは、自分が地面に広げられた敷布の上に仰向けに寝かされていることを発見した。そして、隣に横座りした黄金色の髪の乙女が、しなだれかかるようにヤーヒムの胸にその可憐な顔を預けて眠っていることも。
……リーディア、か。
周囲には質の良い天幕が張り巡らされており、他には誰もいない。天幕の外から聞こえる声は……ケンタウロスのフーゴ、騎士達、そしてアマーリエ。ザヴジェル騎士の特務部隊、<ザヴジェルの刺剣>の面々が全員揃っているようだ。
胸の上で小さな寝息を立てるリーディアを見詰める。
生気に満ち溢れた白く瑞々しい肌、上品に整った顔立ち。エルフを彷彿とさせる可憐な容姿は、芳醇な血の匂いに混じる春の若葉のように清涼な気配によって、それが本物のエルフの血筋だとヤーヒムに教えてくれている。しとやかに伏せられた長い金色のまつ毛が上がれば、エルフとは異なる美しい紫水晶の瞳がヤーヒムを見詰めてくれるだろう。
ユーリア…………。
ヤーヒムの心に、同じ紫水晶の瞳を持った最愛の妹の顔が甦る。
あの残酷な再会で、ユーリアはもう二度とその紫水晶の瞳を開くことはなくなってしまった。未だ色褪せぬ悔恨が込み上げ、あの時と同じ慟哭が再び彼の口から零れそうになったその時、目の前のリーディアが何やら呟いた。
「ヤーヒム……」
生きて……いる…………。
寝言で彼の名を呟く胸の上の確かな重みに、仄かな温もりに、その実感にヤーヒムの目にじんわりと涙が浮かんだ。
気を失う前の状況を思い出す――どうやら賭けには勝てたようだ。
自分の血を飲ませはしたものの、あの瀕死の状態からどこまで癒せるかは分かっていなかった。だが、健やかに眠る目の前の寝顔を見る限り、彼女は無事に回復したようだ。
ユーリアの最期は、罪深き己が永遠に背負う十字架だ。けれども、目の前のこの可憐な女は未だ生きていてくれている。その事実にヤーヒムは少しだけ心の重みが抜け、僅かに息が出来たような気がした。執拗に鼻腔をくすぐる芳醇な血の匂いの誘惑も、今なら少しは耐えられる――いや、もう少しだけ耐えて、このままこの生気に満ちた穏やかな寝顔を眺めていたい、そう思った。
「……の奴ら、ぼったくり……金の亡者め……銅貨一枚分の…………それを金貨八十枚…………」
ヤーヒムが夜明けの湖のように凪いだアイスブルーの瞳で胸の上の寝顔を眺めていると、天幕の外でフーゴが何やら興奮してぼやいている声が耳に入ってきた。
「……オンが……ってマージン…………にせよ許せぬ…………」
フーゴに答えているのはアマーリエ。こちらに背を向けているのだろうか、その低く艶やかな声はフーゴより聞き取りづらい。と、そこに誰かが慌ただしく近付いてきたようだ。
「ダヴィット、守護魔獣の…………なかったか?」
「はっ、守護魔獣は巨大な氷竜が一頭のまま、ラビリンスコアも変化ありません!」
「……ブリザードドラゴンか、……はないが、このまま…………」
――守護魔獣、だと!?
聞き捨てならない言葉に一気に身体を起こしたヤーヒムの脇で、リーディアがきょとんとした顔で座り込んでいる。
「……ヤーヒムっ!」
やがて理解が追いついたリーディアは、その生気に満ちた紫水晶の瞳を大きく見開いた。
それから少しの時を置き、リーディアを落ち着かせてからヤーヒムは天幕の外へと足を踏み出した。
表で車座になって話していたのはやはりフーゴを含めた<ザヴジェルの刺剣>の面々。気を失っていた間のことを確認しつつ、ヤーヒムはリーディアと共にその輪に加わった。……距離を置いたまま話そうとしたのだが、リーディアに強引に輪に加わらされた、といった方が正しいか。
「――で、ヤーヒム、体はもう大丈夫なのか? 手の傷はキレイに塞がってるみてえだけど、丸一日寝てたんだぜ?」
「ああ、ここは魔素が濃い。これだけ休養を取れば充分だ」
丸一日寝てたというフーゴの言葉に驚きつつ、腰を掛けたまま軽く体を動かしてみるヤーヒム。
完全に回復しているようだった。害を加えるどころか天幕まで張って休む環境を作ってくれた<ザヴジェルの刺剣>を、ヤーヒムは眩しいものを見るように見渡した。
己の血の秘密はあれで充分に伝わっている筈だ。
それなのに何の壁もなく仲間として受け入れてくれているように見える。隣で「魔素……」とリーディアが目を丸くしているが、全体として邪まさや警戒の欠片も感じられない。これではまるで――
「――ならば貴殿の意思を聞きたい」
密かに戸惑うヤーヒムに、完璧に補修された白銀鎧を装備したアマーリエが尋ねた。
「この先にラビリンスコアがある。出来れば共闘し、コアを相応の報酬で譲ってもらいたいが、如何か?」
アマーリエの指差す先、深淵の中央に五メートルほどの幅の道が橋となって続くその遥か先に、岩肌に嵌めこまれた巨大な門があった。
「あの門の中で守護魔獣がコアを守っている。今しがた確認が済んだところだが、守護魔獣は大型のブリザードドラゴン。少々厄介な相手で、更にコアが無数の魔獣を召喚もするだろうが、さほど分の悪い勝負でもない。ただ、我々と相性の悪いガーゴイルの上位種が召喚される可能性を考えると、是非にでも貴殿に同行して貰いたい。なに、コアを断ち割ればそれ以上魔獣は増えぬ。どうだ?」
「なあヤーヒム、悪い話じゃないぞ。一緒に戦おうぜ」
悪い話ではない、か――その鋭くも優美に整った顔を僅かに引き締めるヤーヒム。
確かに悪い話ではない。ヤーヒムの血の秘密を知ったにもかかわらず、対等に共闘を申し出てくれた<ザヴジェルの刺剣>の特務騎士達。天幕の恩もあり、ヤーヒムにとって彼らと共闘するのに躊躇いはなかった。
更に、わざわざヤーヒムの目覚めを待って確認をしてくれたというのも大きい。口ぶりや様子を見るに、気を失っている間に自分達だけでも進んでしまえた筈なのだ。そういった意味でも信頼に足る相手だ。だが――
「――共闘に否はない。が、コアは譲れぬ」
そう。
ヤーヒムがここまで来たのは、ラビリンスコアで自身を強化する為。追手から行方をくらますだけならば、ラビリンス中層に潜伏しているだけでも良かった。巧妙なヴァンパイア狩りが相手でも打ち克てる力、他のヴァンパイアを探して回れる力をヤーヒムは必要としているのだ。
もっとも、ヴァンパイアがラビリンスコアでその力を強化できるというのは確実な話ではない。それを手にしたとして、どうすれば己が身に取り込めるのかも分かっていない。もし取り込めたとして、ひょっとしたらその後に消えてなくなってしまうかもしれない。更に言うと、ヤーヒムが触れただけでコアが丸ごと消えてなくなってしまう可能性だってあるのだ。
ここまでの信義を示してくれた相手だ。後々の遺恨を残さぬためにも、危険な約束はするべきではなかった。
「……そうか。理由は聞かぬが、こちらとしてもコアは譲れぬ。ザヴジェル領民の安全が懸かっているからな」
赤銅色に輝く豊かな髪に白磁の肌、鋭い琥珀色の瞳を持つ<辺境の姫将軍>が、その鉄の美貌でヤーヒムを見詰め返した。二つ名に違わぬ威厳と不屈の意思。しばしその鋭い視線を維持した後、やがてため息と共に次の条件を提示した。
「では仕方がない。どうせコアは断ち割るのだ。共闘報酬として、二番目に大きな破片ひとつを差し出そう。これがギリギリだ。どうだ?」
「……それならば」
破片ならば己の分がどうなっても問題あるまい、ヤーヒムは静かに頷いた。
「……すまないアマーリエ。無理を言ったが、宜しくな」
「な、なあに、お互い様だ。では契約成立だな、互いの健闘を祈ろう」
何の気なしに詫びたヤーヒムだったが、相手の顔に一瞬だけ不可解な驚きが走ったのに気付き――ああ、ひょっとしたら初めてこの面々の名を呼んだかもしれない、そう納得して視線を地面に落とした。それは満更でもなく、どこかくすぐったいものだった。
「――くくっ、よろしくな、ヤーヒムぅ!」
無表情な顔に浮かんだ仄かな微笑を見て取ったのだろうか、ヤーヒムが視線を上げるとニヤニヤと不躾に笑うケンタウロスと目が合った。そして、ヤーヒムの隣からはエルフの血の混じった可憐な乙女がそれはそれは嬉しそうに、そして何故か期待に目をきらきらと輝かせて見上げてきている。……自分も名を呼べ、ということだろうか。
「……少し身体をほぐしてくる」
ヤーヒムは逃げるように立ち上がり、<ザヴジェルの刺剣>の輪から抜け出した。
賑やかなことだ――だが、眩いほどに好ましい――早足で歩きながら、底の底まで凍っていた筈の心がまた少し温まるのを感じていた。
背後からは「ああっ! そう言えばあいつまだ俺のことは駄馬としか呼んでねえっ」と騒ぐ声が聞こえていたが、ヤーヒムはそれを振り切って深淵に架かる道の前に赴いた。
転移スフィアから十メートルで唐突に終わる地面、ヴァンパイアの暗視能力でも見通せない深い地下峡谷に浮かぶ一本の道。彼方にそびえる門から濃厚な魔素を含んだ生暖かい微風が絶え間なく流れ来て、フードを下ろしたままの頬を撫でていく。ヤーヒムの、再び冷たさを取り戻したアイスブルーの瞳が見詰めるその先には。
――あそこにコアがある。
いよいよだ。
深層を突き進み、過酷な戦いをくぐり抜けてきた。
遥か昔に諦めていた、穢れた自分を忌避しない稀有な人間達と巡り合い、一時とはいえ共に歩むことにもなった。
願わくば、自身にこの先も歩み続けられる程の強化が得られんことを。
そして何より、彼らが無事に守護魔獣との戦いを切り抜けられんことを。
ヤーヒムはゆっくりと目を瞑り、大きく息を吸った。
次話『死闘』




