第七層その1
太陽の光が届かぬ闇の中で、湿った岩肌が呼吸するように滴を落としていた。地上から遥か下、人間界の喧騒など届くはずもないこの場所に、いくつもの足音が響いている。張り詰めた空気が閃光となって火花を散らすのではないかと錯覚するほどに、異様な緊張感が一帯を支配していた。
先頭を行くのはラウズという青年だ。この集団を率いつつ、油断なく周囲へ視線を配っている。均整の取れた肉体には精気が満ちており、鋭い眼光には見る者を射すくめる力があった。この集団、「アルビオン」という最強格のクランを率いるに相応しい精悍さである。
その後方、数名の護衛に囲まれて付き従う丸メガネの肥満男が「公証人」を名乗るサフランだ。彼は迷宮を探索するクランの一切を記録に残し、その冒険の一部始終の証人となる事を生業としている者である。サフランはたっぷりとした頬肉に半ば埋まるようになっているメガネをずり上げて、目の周りに滲む汗を手で拭いた。
「緊張しておいでか、公証人殿?」
サフランの脇から背の高い男が声を掛けた。今回アルビオンの迷宮探索に公証人の補佐という肩書で同行する事となったシロウである。サフランが汗を拭く間、代わりに彼のランタンを持ってやる。
「おお、済まぬな、代理人殿」
サフランはシロウをそう呼んだ。その役職なのか職業なのか判然としない言葉は、いつからか半ばシロウの通り名のようになっていた。シロウとしてもそんな呼び名があるのは便利だと感じて、自然と受け入れているものである。ただ今回の探索ではその通り名での仕事ではなく、副公証人などという、本職のサフランの真似事のような事をしている。迷宮の中層階以上の探索であれば置かれないはずの役回りであり、この場にシロウがいるという事自体が、この一行の尋常ならざる事態を示しているのだった。
「私も公証人をやって長いのだがな」
サフランが呟く。
「未踏破領域の探索というのはいつも武者震いがするものだ。それに」
喉仏が上下する。
「ここが第七層の深奥ともなれば、気がせいても仕方あるまい」
絞り出すようにサフランが呻いた。眉間に寄った深い皺の影がランタンに照らし出されて揺れている。
サフランの気持ちは良く分かる。今シロウたちがいるこの迷宮の第七層、現在分かっている中での最下層だ。灼けつくような静寂と恐るべき暗黒の中をアルビオンはひたすらに奥へ奥へと突き進んでいる。それは英雄的な冒険であり、命と引き換えに富と名声を得ようとする野心の発露に他ならなかった。これまでに数度、魔獣の襲撃を受けている。どれも低層などではまず見られない狂暴な怪物どもであった。シロウは護衛に守られながらアルビオンの戦いぶりを見た。同じように守られているサフランが羊皮紙に素早く筆を走らせ、スケッチを描き記している横でだ。アルビオンのその統制だった戦いぶりは目を見張るものがあった。噂に違わぬ、という所だ。傍から見ればどの戦闘でも大した労もなく魔獣を撃破したかのように思われた。それ程までに魔獣の群れとアルビオンの力量差は明白であった。
だが、さしものアルビオンといえども全く消耗していないという事もあるまい。この暗く冷たい迷宮に潜ってからどれ程の時が経ったのであろうか、精鋭を率いるラウズほどの男が引き際を見誤るという事はないだろうが、シロウの心にわずかでも焦燥が無いと言えば嘘になる。
ふと、先頭の足取りが止まった。抜かりなく気を配っていたラウズが僅かに身を屈めて何者かの気配を感じ取ろうとしている。
「いるな」
ラウズの言葉は低く、短い。だがアルビオンの団員にはそれで十分である。鈍色の鎧を纏った戦士が次々と剣を抜き払らった。シロウとサフランの周りにはこれまでと同じように護衛の剣士が取り巻き、前衛と少しばかり距離を取らされる。サフランはまたぞろ紙束を引っ張りだしている。シロウは護衛の一人の顔を見た。兜の隙間から若い男の顔が見えた。この一団の中でも特に若い部類だろう。彼は目を大きく開き、前方の暗闇をぐっと睨み付けている。引き結んだ口は引きつらんばかりである。噛み締める奥歯の軋む音が今にも聞こえて来そうだ。シロウはこの青年を良く知っている。何より彼の才能を見込んで、このアルビオンというクランに売り込んだのが他ならぬシロウだからだ。だから分かる、彼の表情が緊張や恐れから来るものだけではない事を。
空気中に急速に殺気が満ちる。闇の奥で何かが蠢く気配。次の瞬間、岩壁を割って現れたのは、身の丈が大人三人分はあろうかという巨大な百足の化け物だった。無数の脚が石床を叩き、耳障りな甲高い音を立てながらこちらへ迫ってくる。
「ここまで来れば成す事全てが前人未踏だ、英雄になれ」
「オオウ!」
ラウズの号令に団員たちが答える。
巨大百足は目に爛々とした光を灯しつつ、この無礼な侵入者を返り討ちにせんと攻撃の機会を伺っていた。その巨体を取り囲むように、アルビオンの戦士が動いた。大きな宝玉をはめ込んだ杖を持つ三人の魔法戦士が等間隔に散開し、百足を囲むように配置につく。杖を構えるその姿はまるで舞踏のように無駄がなく、見る間に十字砲火の陣が組み上がっていく。前衛の防御役たちがそれを守るように立ち、常に死角から魔法が撃ち込めるよう隙のない布陣を敷いた。
鎌首をもたげた巨大百足は頭を大きく振ると体をしならせて鋭い牙を閃かせる。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。同時に巨大百足の牙が正面の魔法戦士に向かって大上段から振り下ろされる。その一撃は防御役の戦士によって防がれた。魔法戦士は軽やかに飛び退いて距離を取る。それはよく訓練された動きであり、高度に組織化された連携を見て取ることができる。事実迷宮の上層を住処とする魔獣どもであればこのアルビオンの集団戦法に抗える者はいなかったのである。
だが、ここは人間が未だ足を踏み入れたことのない迷宮の最深部である。眼前の偉業の怪物は強大であった。巨大な牙が戦士の盾に食い込む。毒の唾液を振りまきながらギリギリと鈍色の鋼の盾を噛み砕かんばかりに締め上げている。
「クッ……」
防御役の戦士が歯を食いしばった。踏み込んだ足が石畳を擦りながら下がってゆく。いかなアルビオンといえども鉄壁を誇る連携戦法を破られるのか、と思われた。
その時百足の左脇の位置が光った。燃え上がったというのが正確だろう。三人の魔法戦士の内の別の一人が百足の死角から素早く虚空に法陣を描き詠唱を終えると、たちまち大気が揺らぎ灼熱の火炎が沸き上がる。それは炎の矢となって百足の体を撃った。
「ギャイイイ!」
背中を焼かれた百足が悲鳴のような鳴き声を上げる。巨大百足がその長い体を捩って憎むべき加害者に向き直る。すると攻撃を成功させた魔法戦士を守るべく、防御の戦士がすかさずに前に立つ。百足が体勢を変えた時、それがこの魔獣の命運の尽きた瞬間であったのだ。もはや巨大百足は完全にアルビオンの術中にあり、そこから抜け出すのは不可能であった。
さらなる死角から新たな火炎の矢が飛ぶ。 体を炎に貫かれた百足は悶えるように身をくねらせる。百足が攻撃者に狙いを定めるとまた別の方向から攻撃が飛んだ。アルビオンの包囲陣は少しづつ、だが確実に狭まってゆく。
「見事なものだ」
後方でその光景を眺めつつ、シロウは誰知らず呟いていた。アルビオンの冒険者たちの規則だった動きは流れるように変化しながらも敵を中央に取り囲み続けて決して逃さない。それは彼ら一人一人のずば抜けた能力の高さを示すものだったが、何よりそれを指揮する男の才覚を雄々しく物語っている。アルビオンというクランを一流の迷宮探索の集団へと押し上げた集団戦法。それを編み出し、練り上げ、そして今この瞬間も勇敢に指揮を執っているラウズという青年。若くして最強のクランを率いる彼の器量にはシロウも舌を巻かざるを得ない。この迷宮に入り込んでいるクランは今や両手の指では足りないだろう。だがあらゆるクランの冒険者やクラン団長の中でも、彼ほどの者はいないであろうと言えた。シロウはラウズの背中を見る。眩しいと思ったのは目の前で繰り広げられている戦闘での光芒の為だけではなかったのだ。
巨大百足は次第に動きを鈍らせている。体の大半を焼け焦げさせてなお、凶悪な牙を振るって冒険者に迫っている。だがそれも姿を見せた当初の鋭さはなくなりつつあった。アルビオンの冒険者たちの間に勝利の実感が広がってゆく。このまま押し込めば程なくこの醜悪な魔獣は倒れるであろう。百戦錬磨、最強の名をほしいままにする彼らであっても、その一瞬の緩みを止めることはできなかった。
百足が大きく体をのけ反らせた。そのまま腹を上にして地に沈むかと誰もが思った瞬間、急激に頭を振るった百足は一人の冒険者にその身を突撃させる。百足にしてみれば最期の力を振り絞ったのだろう。手練れの冒険者であってもその一撃を予測することはできなかった。
「ぐはっ」
巨大な百足の頭突きを正面から食らった戦士が吹き飛ばされる。石壁に叩きつけられた戦士の口から赤黒い粘液が漏れた。アルビオンに戦慄が走る。迷宮上層では決して出くわすことのなかった光景であり、予想外の出来事に全員の動きが硬直したように止まる。悪い想像の及ぶところは防御を失った魔法戦士であり、軽装の彼が次なる標的として魔獣の牙に引き裂かれるという想念が一気に伝播する。
「アラン!援護に回れ!」
ラウズの一喝が響いた。それは正に雷神の一撃と呼べるものであり、石人形のように固まったアルビオンの冒険者に再び活力を注入する事になった。
「オ、オウ!」
名を呼ばれた若い戦士が兜の中の金髪を揺らして跳ねるように飛び出す。サフランとシロウを守りつつ遊軍待機の状態であったアルビオン最若年の彼である。彼は全身をバネのように躍動させ、巨大百足と魔法戦士の間に割って入る。それを見た百足は新たな標的を彼に定めたようだった。自分を今まさに死に追いやろうとしている集団への憎悪を、この若者一人にぶつけようとしている。百足が発する悪意の瘴気を感じてアランは肌が泡立った。神経の奥から湧き上がる震えを抑えようと、剣の柄を握り込む。
(しっかりしろアラン、お前が待ち望んだ事だろうが)
若い剣士はそう自分に言い聞かせる。アルビオンに加入できると知った時は天にも昇る気持ちであった。だが、一流のクランで前衛を張るには壁は厚かった。後詰めとして団の後方で精鋭たちの活躍を眺めるだけの日も続いた。それが今この時、自分が前衛に立つのだ。全ての冒険者が羨むようなクランの前衛に。この魔獣は俺が倒す。アランは白くなりつつある百足の複眼を睨み返した。ここで己の力を示すのだ。ラウズ団長も俺を前衛に配せざるを得なくしてやる。アランはそう考えて自分を奮い立たせた。巨大百足は灼け爛れた口元をガチガチと鳴らし、アランを死への道連れとすべく鋭い牙を渾身の力で振り下ろす。他を圧する暴力が強風となってアランの鎧を叩いた。
「ギャギギャアア!」
巨大百足の背中が燃え上がる。何事かとアランは見上げる。百足はそのままの姿で巨大な火柱となった。その背後には魔法の杖でたった今、法陣を描き切った魔法戦士の姿があった。アルビオンの最精鋭、前衛に立つ三人の魔法戦士の一人にしてその筆頭であるジェイクだ。ジェイクの放った火炎の矢は巨大百足の胴体を文字通りの串刺しにした。固い外骨格を破られ、内部組織を魔法の炎で焼かれた百足は、まるで呪詛を振りまくような鳴き声を一際大きく上げると、しばらくその体を痙攣させていたが、やがてゆっくりと山火事の倒木のように沈んで行く。地響きを立てて巨大な百足はその身を横たえた。炎が消えるのと同時に大きな2つの複眼の光もなくなる。最早そこに命は無かった。ジェイクは素早く百足の死体に駆け上り、魔法の杖をその体に突き立てる。薄褐色の両腕を力強く天に突きあげると、
「ウォォォォ!!」
と叫んだ。アルビオンの団員がこれに続き、声は鯨波となって迷宮に響き渡るのだった。




