【3-1】
八月十四日。
ネヒリム教授に呼び出された僕は普段着に着替え、エーテル学部第二ラボ三階にあるマナトロニクス実験室に隣接した教授の研究室を訪れていた。
ゴチャゴチャと大小様々な機器が壁や机に所狭しと並ぶ室内で、ネヒリム教授は部屋の片隅のシンク脇に置かれたコーヒーメーカーから挽き立てをマグカップに抽出しながら、白衣を着た長身の背中越しに、
「リックス君、コーヒーはいるかい?」
と機械が喋っているかの抑揚のない声で言う。
「いえ、結構です」
部屋の中央、理科室の実験台としてよく見る黒い天板の作業デスクの傍に置かれた簡素な背もたれ付きの椅子に座らされた僕がそう答えると、
「そうか」
ネヒリム教授は単調にそう言い、挽き立てのマグカップを持ち窓際にある自分のデスクのリクライニングチェアに向かい、着席した。目を瞑り静かにコーヒーを味わう姿が様になる。
ネヒリム・メイジャン教授――マナを最初に観測した学者の一人であり、エーテル学の礎を築いた第一人者でもある。年齢は四十代半ば。クリスティアの教授陣の中では特に若いが、いつ見ても眉間に皺を寄せた近寄りがたい顔をしているので老けて見える。
銅像を思わせる無機質なブロンズカラーの瞳、貫禄のある厳めしい面長のフェイスライン、青漆色の長髪をオールバックにまとめた風貌は無言の圧があり人を寄せ付けない冷気を放っている。
羽織った白衣の下にはダークブラウンのYシャツと、黒のスラックスを着ているが、これがまたよく似合っていて知的かつスマートに見える。大人の余裕ってやつだ。
マグカップをデスクに置いたネヒリム教授は組んだ手をへその前に置き、話し始める。
「さて――、君をここに呼んだ理由は概ね分かっていると思うが、このままでは君が進級条件を満たせず退学になる可能性が高いと踏んだからだ」
教授からは話があるとしか聞いてなかったが、教授と生徒という関係上それ以外に呼び出される理由もないので、そうだろうなと予想はしていた。
「……はい。仰る通りです」
表情一つ変えないまま、ネヒリム教授は淡々とした口調で言う。
「そこで君のために何かできないかと考えた。端から私にできることは一つしかない。――君のためにエーテル学の特別授業を開くことだ」
「えっと……」
正直、叱咤されるんじゃないかと思って身構えていたので予想外で驚いた。
「それは大変ありがたいんですが……」
「何か不満でも?」
眉一つ動かさないネヒリム教授の表情からは何を考えているのかちっとも読めない。
「どうして僕にそこまでしてくれるのかと」
ネヒリム教授の奥底の見えない瞳が真っ直ぐ僕を見つめてくる。
「それは君に人一倍興味があるからだ」
「え……」
反射的に両腕の二の腕を握る僕。
なおも見つめられながら言われる。
「誤解して欲しくないが性的な意味ではない。私が受け持った生徒で一学期の内にここまで落ちこぼれてしまった生徒は類を見ない。君のような存在は私の学者人生において未だかつて見たことがない」
「……面目ないです」
なんだ? 貶されてるのか……? 何が悲しいかってぐうの音も出ないほどの事実なのがこれまた辛い。でもまあ、特別に授業してくれるって言うなら……。
我慢して教授の言葉に耳を傾ける。
「君が落ちこぼれてしまったのは偏に私の指導力が足りなかったということだ。君が理解できなかった部分を私が理解できれば今後の講義にも活かせるだろう。君は貴重なサンプル故、データを取らせてほしい」
……あれ? 案外良い先生かも。成績が不振なのは自分の理解度が未熟なだけなのにな。
「あ、ああ……。そういう意味だったんですね。変に誤解してしまってすいま――」
せん、と僕が言い切る前に、
「是非一度、君を解剖させてほしい」
真顔でネヒリム教授が口を挟む。
「え……?」
咄嗟に両腕の二の腕を握る僕。
何だったか、ちょっと前にも似たようなことを誰かが言ってたような……誰だっけ?
表情筋をほとんど動かすことなくネヒリム教授は続けて言う。
「半分冗談だ。だがそれくらい君に興味があるということだ」
半分本気なのかよ。……いや、そうだった。ネヒリム教授はいきなり訳の分からないことを訊いてきたり、脈絡のない話を急に振ってきたりするそういう人だった。『これまでの人生で遭遇した変な人ランキング』の第一位に自分で認定しておきながらもう忘れたのか?
言っちゃ悪いが……落ちこぼれた生徒をどうにかしようとする生徒思いの教授というイメージがどうにもそぐわない。面と向かったネヒリム教授からは何か別の……執着に近い思惑のような、純粋とはほど遠いにおいがする意志のベクトルを肌から感じる。
ネヒリム教授の食えない不動の面構えに、訝しんで眉を顰める。
「はぁ……? 先生が僕の何にそんなに期待しているのか、いまいちよく分かりません」
「ふむ。確かに君は至って普通の……落ちこぼれの学生だ。現状、学生としては特筆すべき点は何もない。平凡と言ってもいい」
「……そこまではっきり言われると落ち込みます」
「この学院ではなんと言われようが最後まで残ったものが勝者だ。最終的な勝者となれば落ちこぼれと呼ぶものもいなくなる。それに――君はある意味天才だ」
「?」
……なぜだろうか、教授が話し始めてからというものの妙に引っ掛かるのが気になる。さっきの半分冗談もそうだが、半分建前半分本音、といったニュアンスが言葉の端々に隠すつもりもなく練り込まれてでもいるかのようだ。
僕の直感が正しかったのか、ネヒリム教授は半分本音の片鱗を見せ始める。
「しかし、特別授業をするに当たって一つ条件がある」
「条件とは?」
「君について色々と聞かせてほしい。例えば――君はこれまでの人生において、普通では考えられない超常的な不思議な体験をしたことはないか?」
「普通では考えられないって……例えばどんなことですか?」
察しがつかず質問で返すと、
「………………」
ネヒリム教授は一心に僕の目の底を覗き込む。少し長めの沈黙の後で、口を開く。
「……いや、質問を変えよう」
「?」
「君のご両親のことを訊かせてくれ」
「いいですけど……両親の何が知りたいんですか?」
「君の、その髪と瞳の色はご両親のどちらに似たんだい?」
「母です。母も僕とそっくりな色でした」
ネヒリム教授の目の色が変わった気がした。
「ふむ。母親似か。――その母上は今どこに?」
「僕が五歳のときに亡くなりました」
「そうか……。それは気の毒に」
何やら声の調子からがっかりとした様子が窺えた。
「訊きたいのはそれだけですか?」
「いや訊きたいことは山ほどあるが――先に少々、私の話を聞いてくれないか?」
「……はい」
前屈みになったネヒリム教授は両肘をデスクにつき両手を組む。
「これはガルドア地方に伝わる……現在でいうモルデン南部地方の辺境の廃村に残されていた古い言い伝えの話だ。今から二千二百年ほどの前の古代に、その地方の森の奥にとある一族が隠れ住んでいた。彼らは生まれつき特殊な力を有しており、どんな病人や怪我人でも立ち所に回復させることができたそうだ。時の皇帝グラドニウスが不治の病に侵され危篤状態に陥った際に、彼ら一族の中から連れて来られた青年がその力を使いグラドニウスの命を救ってみせた。以前にも増して精気を取り戻したグラドニウスは彼の善意に胸を打たれて讃えると共に、あらゆる苦痛に等しく終わりをもたらす、奇跡の力を呼び起こす彼ら一族をこう呼んだ」
そこで言葉を区切ったネヒリム教授は粛然と眼光を光らせ、
「テーロシュ――現代語に訳すなら〈終わらせる者〉という意味だ」
重たく圧しかかる声でそう言った。
顔色は何一つ変わらないのにネヒリム教授の僕を見る目だけが、まるで値打ちがつけられない特級の骨董品でも見るかのような好奇心の波長を発している。
「エンダーにはある共通の特徴があり、皆生まれつきにして灰色の髪と瞳だったそうだよ。――何の偶然か、君と、君の母上と同じだな」
思わず苦笑いを浮かべ、お手上げのポーズを取った。
「まさか? それだけで、僕がそのエンダーだって言うんですか?」
「私の推察では、エンダーは常人よりも高いマナ出量を保持していたと考えている。それ故にマナの沈着による色素異常が起こり、皆特有の灰色の見た目になったのだろう。君の毛髪を採取して調べればマナの沈着の有無などすぐに判別できることだ」
「…………」
俄には信じられない話なのに、本能が拒絶しているのか……身の恐怖を感じた。ここでおいそれと髪の毛一本でも渡してしまったら最後だと体が危機感を募らせている。なんとか話を逸らさねば……。
「二千年以上も前の話ですよね? その力を持った子孫だって流石に途絶えてるのでは?」
「君の言う通り、エンダーの力は一度途絶えていてもおかしくはない。ただ君という存在が何よりの証明になると思っている」
本気なのか冗談なのか分かりづらくて困惑する僕の耳に、
「君は始祖返りという現象を知っているか?」
という聞き慣れない言葉が飛んでくる。
「いえ……」
僕が首を横に振ると、ネヒリム教授は滔々《とうとう》と語り始めた。
「進化の過程で失われた能力が突如としてその子孫の個体に受け継がれる現象だ。この場合は退化と呼ぶべきかもしれんが、君の母、もしくは君の母方の先祖に始祖返りが起きた結果、君はエンダーの特徴を受け継いだ可能性が高い」
「私がエンダーにとても興味があるのは彼らの力の源がマナであると考えているからだ。彼らはエーテルリアクター等の媒体を使わずにしてマナからエーテルを生成し、それを治癒の力として役立てていた、と仮説を立てているところだ」
「私が研究のために集めた歴史書の一冊にたった数ページだけ、おそらくエンダーについての記述がある。それに拠るとエンダー一族は人よりも高い自然治癒力を持ちながらも皆短命だったらしい。彼らは他者の治療を行うことができても自身の治療を施すことはできず、またその特異な力に目を付けた権力者たちの争いに巻き込まれたことにより絶滅した、と歴史上では推測されている」
自分に関係ある話とは思えず傍観していた僕から終始目を離さなかったネヒリム教授は、
「さて――それらを踏まえた上で後生の頼みがある」
そう言って、再度繰り返す。
「是非一度、君を解剖させてほしい」
「…………」
冗談とは思えない無機質な眼差しに……固唾を呑んで閉口する。
返答に困りそのまま黙りを決め込むと、ネヒリム教授はこれ見よがしな言葉を口にする。
「二割は冗談だ」
ちょっと先生ぇ~、さっきよりも本気度が八割に上がってるじゃないですか~! ……と軽く受け流すのも忘れて慄く自分がいた。……ネヒリム教授が苦手な理由がこれではっきりとした。時折、教授から感じる歪な視線の正体がモルモットに向けるそれと同じだったからだ。
急に、僕がそのエンダーだ、なんて言われても……。ただの先生の思い違いとしか思えない。僕もそうだし、母が特殊な力を使っているところは一度たりとも見た記憶がない。そんな空想めいた力が実在するとも思えないしな……。
押し黙る僕の反応を見て……今さらながらにネヒリム教授は意地の悪い微かな笑みを口元に貼り付けて言う。
「そう固くなるな。実際に法を犯してまで君をどうこうしようという気は毛頭ない。ただ、エンダーについて知れるならそれだけの覚悟と情熱が私にはあるということだ」
ネヒリム教授は深く椅子に寄り掛かっては、講義のときに見せる冷厳な話し方や仏頂面の印象とはいささか違う人肌に温まった熱量のトーンで綽々《しゃくしゃく》と話を続ける。
「現代では治療法が確立されている多くの病が、二千年以上前の時代を生きた人々にとっては病を超え得る怪奇な事象だった。それらをときに神罰や悪魔の所業と考えた当時の人々は人身供犠や祓除の迷信に従い救いを求めた。皆が一様に超自然的存在を信じていた時代だ。そこへ現れた万人を癒やす力を持ったエンダーはさぞ神聖なものに見えたのだろう。その奇跡を目の当たりにした人々は神の御業として彼らエンダーを崇めたそうだ。ならば私も最大限の敬意を払い君に接しなければなるまい。――君が本物のエンダーであれば、だがね」
ほんの僅かに。ネヒリム教授は愉快そうに口角を上げる。
「さて、リックス君。何か一つでも思い当たる節はあったかね?」
「…………」
正直どこまで情報を与えていいものか悩むが……生憎、ネヒリム教授が食いつくような有益な情報に心当たりがない。たぶん有り体に話したところで何も変わりはしないだろう。
「……自然治癒力については怪我の治りが早いと人から言われたことはありましたけど、自分じゃよく分からないです。それと適性検査で生まれつきマナ生成量が多いのは知ってましたけど、それでも特出されるほどの高い数値じゃなかったし、少なくとも僕に不思議な力が使えた試しは一度もないです」
「ふむ……」
ネヒリム教授は少し思考して唸る。
「おそらく君のエンダーとしての能力はまだ休眠状態にあると見える」
そう言った直後。ネヒリム教授は「ああ、言い忘れていたが」と切り出してから、
「伝書に拠ると治癒の力を発現させるには対象の血を体内に取り込む必要があるらしい。これまでに類似の体験をした覚えは?」
と少々白々しく僕に尋ねる。
この人……。そんな重要な情報を何で先に言わなかったんだ? 僕がエンダーについてどの程度理解しているのか試していたのではないかと疑いたくなる。
「いえ、まったく……」
「ふむ。では、今後いざというときに役に立つかもしれないので覚えておくといい」
僕がそう答えるのを知っていたかの白々しさで、教授は続けて言う。
「君が望むならこちら側にはいつでも精密な検査を行う用意はできている。それにもしエンダーだと分かれば君は貴重な保護対象になる。そうなれば仮に進級条件を満たせなかったとしても特別に私の権限でクリスティアに残れるように手配することも可能だ」
教授の無機質な眼差しがひたと僕の瞳を見つめてくる。
「単刀直入に言わせてもらうが、君の今の学力では進級するのは甚だ厳しいだろう。だが、私の研究に全面的に協力してくれるなら正攻法に頼る必要もない。――どうだね? 一度検査を受け、はっきりさせてみては如何かな?」
まるで悪魔の誘惑。今みたいに死に物狂いで努力しなくても学園に残れるなら楽に越したことはない。……でも、僕には信頼できる勉強のスペシャリストがいる。あんだけ親身になって協力してくれる彼女の想いを裏切りたくない。あとはまあ……周りから無理だって言われたことを成し遂げたら、ちょっとはカッコいいって見直してもらえるかもだし。
「……すみません。検査どうこうはすぐには決心がつきません。それに……自分の学力で進級できなければ学ぶ意義がないので特別扱いはしていただかなくて結構です」
断られてネヒリム教授の顔がいつもの退屈そうな仏頂面に戻る。
「……そうか。だが無理にとは言うまい。そして私の気が変わるわけでもない」
「…………」
「君とは今後も懇意にしていきたいと考えている。私の慈悲で、例え君が検査を拒んでも変わらずに特別授業は行うと約束しよう」
「……ありがとうございます」
「なに、君にこのカレッジを去られては私の貴重な楽しみがなくなってしまうのでね。今度また授業ついでに君について色々と聞かせてもらうぐらいは構わないかね?」
「はい。そのくらいで良ければ」
「では、今日のエンダーについての講義はここまでだ。講義の次回日は追って連絡する。それと――」
ネヒリム教授はデスクの引き出しから一冊の本を取り出して立ち上がると、僕に向けそれを差し出す。
「次回までにこの本を三章まで読んでくるように」
立ち上がって教授からずっしりとした本を受け取る。教材よりも鈍器としての適性がありそうなぐらい分厚くて重みがある。焦げ茶色のハードカバーにはエーテル学概論とだけ簡素に書かれてある。これが書店に並んでいてもまず手に取ることはない装丁だ。
「私が書いた学術書だ。――読んだら現在使われている以外の方法で、エーテルをより良く効率的に産出する仕組みを君なりに考えてレポートにまとめてきなさい。デキが良ければエーテル基礎学の成績点に加点をあげよう」
中を見る前から小難しいことがぎっしりと書いてあるに違いないと分かる。しかし、『うへー……』と辟易していた僕の心の声に先回りするかのように単位というエサを釣るされる。
「……やります」
やむなく重たい本を受け取ると、教授に挨拶をして退室した。
――かくして。
図らずもネヒリム教授の特別授業という追加の強力切り札を手に入れたわけだが、肝心のもう一方の切り札、つまりはメアとの勉強会が残りの夏休みの間に開かれることはなかった。
理由はメアが残りの夏休みの大半を、南方の島嶼リゾート地において家族とともに過ごす日程となったためである。ハーヴィッツ家では毎年夏休みはライキキ島に滞在するのが恒例行事らしい。
その話を通話越しにしていたメアは、どうせ行ってもホテルにこもって勉強してるけどね、と半分ぼやいていたが、無理言って勉強合宿させてもらった分親孝行もしておかないと、と少し感慨深そうな様子で言われたので、殊勝な心掛けだと思い僕も賛同した。
僕は僕で残りの夏休みの日々を満喫した。
ダグとアーシュの三人で僕がドタキャンして行けなかったカフェにも行けた(罪悪感からご馳走してもらう話は遠慮したけど)。
それと。アーシュが何を思い立ったのか急に、バンド組もうぜ、って言い出した結果、Vo./Gt.アーシュ、Dr.ダグ、Ba.僕のスリーピースバンドが結成された(ちなみに僕はバンドとは縁のない世界にいたのでベースはアーシュからの借り物だ)。その影響で集まって練習する日が多くなり、元々経験者の二人からあれこれと教わるうちに徐々に弾けるようになってきた。僕も楽しくなってきて毎日少しでも練習するようになった。……もちろん、毎日の勉強も欠かさずにやっている。
そんなこんなで。夏休みの日々はあっという間に終わりを迎えた。




