第20話 一番シンプルな方法
さて。
ひとまずは切り抜けた。
だが、もちろん終わったわけじゃない。
俺は壁に背を預けたまま、浅く息を吐いた。
火薬の匂いがまだ濃い。そこへ血の鉄臭さが混ざって部屋の空気が重く感じる。
先の銃撃戦から、たぶん一分かそこら。
多少ではない音が船内に響いたはずなのに、警備はおろか、他の乗客や乗員も様子を伺いに来ない
となると――想像通り、面倒なことになってそうだな
俺は、ドア付近で倒れている男へちらりと視線を向ける。
目出し帽。
少しだぶついたカーキ色の作業着みたいな服。
肘と膝にはガードに、そしてタクティカルベスト。
見るからに、どこかのゲリラか傭兵崩れみたいな格好だ。
少なくとも、日本で普通に見かける格好じゃない。
キルログに流れた名前を思い返しても、外人名だった。
あの依頼人が雇った欧州側の連中、という推測はほぼ間違っていないだろう。
ふと、気配を感じた。
振り向く。
少女がこちらへ寄ってこようとしていた。
だが、途中で止まっている。視線は俺ではなく、床に広がる血だまりへ落ちていた。近づきたい、でも近づけない。そんな迷いが、その小さな体にそのまま表れている。
俺は手を上げ、軽く制した。
「ああ、ごめん」
できるだけ柔らかい声を選ぶ。
「大丈夫だよ」
ひらひらと手を振ってみせる。
だが、その動きの中で、自分の腕が暗がりでも分かるくらい血に濡れているのが見えた。肘のあたりまで、べったりと。
……そりゃ、近寄りづらいよな。
包丁でやった方の血だ。
あれを抜いていたら、たぶんもっとひどかっただろう。
そんなことを考えながら、「よっこいしょ」と小さく口に出して立ち上がる。
革手袋を外す。
血を吸って少し縮んだのか、指先が引っかかって、思ったよりきつい。無理やり引き抜くと、内側までぬるりとした感触が残っていた。
手袋は、少女の目の届きにくそうな方へ放る。
べちゃり、と湿った音を立てて床に落ちた。
包丁を握っていた方の手は、掌の中まで血が流れ込んでいた。
気持ちは悪いが、あとで流せばいいだろう。
少女は、俺の声に少し安心したのか、ほっとしたように胸元へ手をやった。
わずかに肩の力が抜けるのが見える。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
もともと考えていた脱出ルートが、この状況でも使えるかどうかも怪しい。まずはアルフに連絡を取るか。
俺は襟元へ手をやった。
比較的、血のついていない方の手でボタン裏のスイッチを押し込む。
「……問題が発生した」
声は小さく。
向こうの状況が分からない以上、できるだけ控えめに。
「そっちは大丈夫か」
イヤホンの奥で、ざあ、とノイズが鳴る。
しばらく待つ。
ぶつ、ぶつ、と拾いかけた音はある。だが、それ以上は続かない。
返事は来なかった。
俺は眉を寄せる。
通信機が壊れたのか。
妨害が入っているのか。
あるいは、アルフの方もそれどころではないのか。
……向こうも、不測の事態か。
俺は一度、少女の方を見た。
不安そうに、こちらを見返してくる。
俺はゆっくり息を吸い、まだ湿った血の感触が残る手を軽く握り直した。
よし。こういう時は、一番シンプルな方法がいい。
* * *
銃を持った男が四人、デッキの空気をぴんと張りつめさせていた。
全員が目出し帽で顔を隠している。
身に着けているのは、カーキ色や黒を基調にした実戦的な服装。船の上で見るにはあまりにも異質で、華やかなパーティ会場の雰囲気とまるで噛み合っていなかった。
彼らの視線、あるいは銃口の先、壁際には、身なりのよい紳士淑女たちがひとかたまりにされて座り込まされていた。
高価そうなドレスも、丁寧に整えられた髪も、恐怖の前では何の意味も持たない。肩を寄せ合い、声を押し殺し、怯えた目だけが周囲をさまよっている。
乗員らしいスタッフたちも、同じようにまとめて床へ座らされていた。
白い手袋を片方だけ落とした者、名札のついたベストを乱したまま震えている者、顔面蒼白でうつむいたままの者。さっきまで笑顔で給仕をしていた人間たちが、いまは一様に動けない獲物みたいに縮こまっている。
その人間の塊から少し離れた床には、血を流して倒れている男が二人いた。
船の警備要員と思われる。制服の上からでも鍛えられた体つきが分かるが、どちらももう動かない。血は甲板を黒く濡らし、海の夜気と混ざって鉄臭さを漂わせていた。
さらに、その少し前。
白髪交じりの男が一人、床へ横たわっている。
この船のオーナーその人だった。
少し前まで、この場の主としてマイクを握り、招待客へ笑みを向けていた男が、いまはぴくりとも動かない。高級なスーツは胸元から黒く濡れ、片手は不格好に伸びたままだった。
「先ほども伝えた通り!」
目出し帽の男の一人が、会場へ響くように声を張り上げた。
よく通る声だ。
だが、どこか薄っぺらい。
「我々の要求は単純だ! 我らが同志の解放である!」
男は誇示するように一歩前へ出る。
その周囲で、他の三人はそれぞれ配置についたままだ。二人はエレベーターの方を警戒し、一人は座り込む客たちへ銃口を向けるともなく向けている。
「この男が死んだのは!」
男は足元に転がるオーナーの身体へ、ぐい、と靴底を押しつけた。
「我らの決意の高さを知らしめるものである!」
その場にいる誰もが息を呑む。
だが、悲鳴を上げる者はいない。上げられないのだ。すでに一度、恐慌状態になりかけた空気は、銃口と怒声によって無理やり押しつぶされていた。
そんな中で、一人だけ、その茶番を冷めた目で見ている者がいた。
アルフレート・ヘンシェルだった。
座り込まされた客たちと同じ場所に、同じような姿勢で交じっている。だが、その表情だけは周囲と少し違っていた。怯えているふりはしている。けれど、瞳の奥は冷めている。
――ふん、よく言う。
アルフは内心で鼻を鳴らした。
適当な活動家でも装っているつもりなのだろう。
だが、言葉に熱がない。叫んではいても、信念が乗っていない。そもそも、本当に主張を通したい人間の立ち振る舞いではない。利用できる“物語”として、そう名乗っているだけだ。
恒一を見送ったあと、しばらくして急に襲撃は始まった。
エレベーター。
そして外階段。
ほぼ同時に現れた刺客たちは、躊躇なく船内警備を制圧した。警備側に反撃の隙はほとんどなかった。彼らの動きは、まさしく訓練された動きだった。衝動的な襲撃者のそれではない。
アルフ自身、一人であればこの場から抜ける手もあったかもしれない。
だが、恒一の方の状況が分からないまま独断で動くのは危険だった。対象の少女を保護できているかどうかも分からない。ならば、ここではまだ伏せた方がいい。
そう判断して、アルフは他の客たちと同じように指示へ従った。
客と乗員は、上の展望デッキにいた人間も含めて一か所へまとめられ、このデッキの前方へ押し込められた。
その後、オーナーが引きずり出され、先ほどの演説まがいの言葉が吐かれ、その流れのまま射殺された。
あまりにも不自然だった。
あれは見せしめであると同時に、最初から予定されていた処刑だ。
大方、適当な思想団体か活動家グループへ罪をなすりつけるつもりなのだろう。表向きの筋書きはすでに用意されているに違いない。
幸い、アルフの耳に仕込まれた受信機は見つかっていない。
だが、警備の男が近くにいる以上、下手に話せばすぐ露見する。恒一へ状況を伝えたくても、それができなかった。
そんな中で、先ほど。
恒一から短い連絡が入った。
問題発生。
こちらはどうか。
それだけで十分だった。
少なくとも、少女のところまでは辿り着いたらしい。そのうえで、何らかのトラブルがあったがソレを回避した。
あの男が連絡を入れてきたということは、対象は無事である可能性が高い。
――流石だな。
アルフは胸の内で、そっと息を吐く。
――雨宮様の慧眼、と言ったところか。
この一か月ほど、依頼を共にしながら、アルフはそれとなく恒一の人となりを見てきた。
いまの印象は、“掴みどころのない不思議な人物”。これに尽きる。
素行は悪くない。
任務は淡々とこなす。
必要以上に踏み込まず、こちらを侮るような素振りもない。探りを入れてくる気配もなく、それでいて妙なところで気遣いまで見せる。
まだ、完全に警戒を解いたわけではない。
だが、少なくともその腕は信用に値した。
彼がうまく対象を連れて逃げてくれれば――
そう思う一方で、同時に、冷静な部分はそれが簡単ではないと判断していた。
いまこの場に四名。
他のデッキからほとんど騒ぎが聞こえないことを考えれば、船全体がすでに制圧されている可能性は高い。となると、敵は少なく見積もっても数十名規模。
殺し屋というより、傭兵集団。
その表現の方が正確だろう。
元々の脱出手段だったジェットスキーやボートのあるデッキ3も、もう押さえられている可能性が高い。
少女を連れた恒一が、そこまで辿り着いて逃げ切る。冷静に考えれば、その難易度は高すぎる。
さて、どうしたものか。
そうアルフが思案した、その時だった。
エレベーターが、動き始めた。
バッと、刺客たちの緊張が一段深くなる。
二人が左右へ展開し、エレベーターへ銃口を向ける。残りの二人も、客たちへの意識を残しながら、明らかにエレベーター側へ神経を寄せた。
場の空気が、ぴんと張りつめる。
やがて、チン、と軽い音。
エレベーターのドアが開いた。
そこにいたのは――死体だった。
ワイヤーで首を絞められた男の死体が、エレベーターの床に座り込むような形で固定されている。頭はがくりとうなだれ、首には食い込んだ細い線が生々しく残っていた。
「っ、何だ!?」
刺客の一人が驚愕の声を上げる。
その瞬間だった。
ひゅ、と、短い風切り音。
エレベータの近くで、左右へ分かれていた二人のこめかみに、キッチンナイフが突き刺さった。
ほとんど同時。
いや、ほんの一瞬だけ時間差があったかもしれない。だが、それほど意味のない時間差。
残った二人の身体が、その場で硬直する。
一瞬。
本当に一瞬だけ、その場にいた全員の思考が止まった。
次の瞬間。
ダララララッ!
突然の発砲音が、その停止した時間を無理やり破壊した。
刺客たちはそれが何なのか理解する前に、すでに終わっていた。
頭部と上半身を撃ち抜かれた二人が、糸の切れた人形みたいにその場へ崩れ落ちる。
アルフは、ぞくり、と背筋を走る冷たいものを感じながら、その音の方へ視線を向けた。
外階段の方。
そこに、男が立っていた。
サブマシンガンを構えたまま、ゆっくりと銃口を下ろしていく。
表情はない。
その背後には、少女がいる。
怯えたように身を寄せながらも、彼の近くに居れば安全だと、確信しているように。
二階堂恒一だった。
客たちの間に、押し殺した悲鳴とも嗚咽ともつかない音が広がる。
だがアルフだけは、その姿を見た瞬間、驚愕と安堵と、そして薄い戦慄が同時に胸を叩くのを感じていた。
彼は、戻ってきた。
この最悪の状況のど真ん中へ、最も分かりやすく、最も乱暴で、最も効率的な形で。
――なんて、男だ。
アルフの喉が、かすかに鳴った。
恒一は無表情のまま、ただそこに立っていた。
その姿は、場違いなくらい静かで、だからこそ余計に異様だった。




