幼馴染
葬式は、父さんの兄弟である叔父さんが取り仕切ってくれた。祖父母や親戚たちも、現実が受け止められずぼんやりとしている俺を、何かと気にかけてくれた。
でも、俺にはそれに応える余裕がなかった。声をかけられても、返事をするだけで精一杯で、たいていは黙ってうなずくだけだった。
祖父母は、「こっちに引っ越してこないか」と言ってくれた。けれど、俺は、生まれ育ったこの家から離れる気にはなれなかった。父との思い出があちこちに染みついているこの家に、まだしがみついていたかった。
「一人で暮らす」と俺が言うと、祖父母は心配そうに顔を曇らせた。それでも、話し合いの末、「とりあえず三ヶ月だけ様子を見る」ということで納得してくれた。
わかっている。彼らは、みんな俺のことを思って言ってくれている。俺のために、善意で動いてくれている。
でも、どうしても返す言葉がうまく出てこなかった。それが、申し訳なかった。
※※※
葬式から、一週間ほどが過ぎたころのことだ。
俺はまだ、放心状態のままだった。
現実感のない日々が続いていた。何を食べたのか、誰と何を話したのか、ほとんど覚えていない。ただ、ベッドに寝転がって、天井を見ていた。それだけだった。
部屋の隅には、途中まで折って放置されたままの折り紙の戦艦大和がある。細部にこだわりたくて、何日もかけて折っていたやつだ。
けれど、父が死んでからは手をつける気になれなかった。紙は湿気を吸って波打ち、折りかけの艦首はしおれたようになっていた。
そんな、何も動かない時間のなか、扉越しに優しい声が聞こえてきた。
「……しょうちゃん、大丈夫?」
幼馴染の千穂だった。俺はベッドに仰向けに転がったまま、ただ天井を見つめていた。
なんとか声を絞り出して、千穂に答える。
「大丈夫じゃないよ……」
しばらく沈黙が流れる。やがて、静かに扉の開く音がした。
「ご飯、持ってきたんだけど……よかったら、少しでも食べて」
そっと部屋に入ってきた千穂の手には、小さなお盆。湯気の立つ味噌汁と、ふりかけご飯、そして卵焼きが載っていた。どれも、俺の好物だ。
食欲なんてないと思っていた。でも、ふわりと立ちのぼる湯気に、胸の奥が少しだけ揺れた。気づけば身体が起き上がっていて、箸を手に取っていた。ひと口、ふた口。気がつくと夢中でかき込んでいた。
うまい。
止まらなかった。あっという間に平らげて、最後に味噌汁をすすり、ふうっと小さく息をつく。
千穂はその様子を静かに見つめていた。少しだけ、ほっとしたような顔をしている。俺がちゃんと食べられたことが、彼女の安心につながったのかもしれない。
そんな表情のまま、千穂はほんのわずかに間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「……おじさん、本当にもういないの? ホントは、まだ部屋にいるんじゃないの?」
視線を父さんの部屋の方に向けながら、小さな声で呟いた。
「ハハハ……俺も、それずっと思ってるよ。いまにもガチャリと扉が開いてさ、父さんが出てくるんじゃないかってさ。でも、いつまでたっても部屋から出てこないんだよ」
無理に笑ってみせた声は、ひどくかすれていた。千穂は何も言わず、そっと俺の隣に座った。
「そうなんだね……」
しばらくして、千穂の手が俺の背中に触れた。ためらいがちに、ゆっくりとさすってくれる。その手は不思議と温かくて、ずっと感じていた息苦しさが、少しずつゆるんでいくのを感じた。
※※※
彼女の名前は、朝比奈千穂。俺の幼馴染だ。
小さいころは、毎日のように一緒に遊んでいた。通学路も、保育園も、小学校もずっと同じ。家もすぐ近くで、いつも一緒にいた。
無口ってほどじゃないけれど、物静かで、いつも俺の一歩後ろを歩くような子だった。でも、ふとしたときに見せる笑顔が妙に心の片隅にひっかかっていて、俺の中の千穂のイメージになっていた。
千穂は、なんだかんだ理由をつけては、こうして様子を見に来てくれる。その優しさに、俺は甘えてしまっていた。
隣に座ったまま、千穂は何も言わない。ただ静かに、俺のそばにいてくれる。
その沈黙が、逆に心地よかった。千穂がいてくれるだけで、ほんの少し、気持ちが楽になる気がした。
「……千穂。ありがとう」
俺がそう呟くと、彼女は小さく「うん」とだけ応えた。
※※※
そんな日々が、しばらく続いた。千穂がいてくれたおかげで、俺の精神状態も少しずつ落ち着いていった。
「こんなんじゃ、父さんに笑われるな……」
そんなふうに思えるくらいには、前を向けるようになっていた。
千穂は、相変わらず何かと理由をつけて家に来てくれた。ご飯を作ってくれたり、洗濯物を取り込んでくれたり、散らかり放題の部屋の掃除もしてくれてた。俺のことを、ずっと気にかけてくれていた。
「千穂、そんなに気を使わなくていいぞ。お前も学校とかあるだろ?」
そう言っても、千穂は首を振るだけだった。
「しょうちゃんが、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと眠れるようになるまで、私が勝手にやってるだけだから!気にしないでいいよ!」
申し訳ないと思いつつも、その優しさを拒むことができなかった。俺は、千穂の気持ちに甘えていた。
※※※
……ある日、気がついた。
最近、千穂のことばっか考えてる気がする。千穂がいないと、落ち着かないっていうか、何も手につかない。
……これって、もう、そういうことなんじゃないか?俺、千穂のこと……好きなんじゃないか?
タレ目で、優しげな黒髪ストレート。昔から「かわいいな」と思ってた。でも、今はもう、それだけじゃない。落ち込んでいる俺に何も言わず寄り添ってくれて、気づけばいつもそばにいてくれた。
その存在がどれだけ大きな支えになっていたか、ようやく分かった。
好きにならないほうが無理だ。俺はもう、完全に千穂に惹かれていた。
※※※
「……千穂」
ある日、思い切って言った。
「いままで、本当にありがとう。千穂がいなかったら、俺、きっと駄目になってた。こんなに元気でいられなかったと思う」
千穂は、少しだけ目を丸くして、それから微笑んだ。
「……うん。よかった」
「……それと、もうひとつ」
俺は深呼吸して、言葉を継いだ。
「俺……千穂のことが好きだ。優しくしてもらって、ずっと一緒にいてくれて……。気づいたら、好きになってた」
少しの沈黙が流れる。
俺の心臓は、いやに大きな音を立てていた。自分の鼓動だけが、この部屋の空気を震わせているようだった。
顔を上げる勇気が出なかった。千穂がどんな表情をしているのか、怖くて見られなかった。
今のは早すぎたか。言わないほうがよかったか。優しくしてくれてたのも、ただの気遣いだったんじゃないか。
もしかしたら、気持ちを伝えたことで、今の関係が壊れてしまうんじゃないか。
考えたくない言葉が、頭の中を次々によぎっていく。喉が渇く。手のひらは汗ばんで、膝の上でこわばっていた。
ほんの数秒のはずなのに、永遠みたいに長く感じた。
胸の鼓動がうるさく響く中で、千穂の声が聞こえた。
「……私もね、しょうちゃんのこと、ずっと見てたよ。おじさんのこと、あんなに辛かったのに、ちゃんと前に進もうとしてた。折り紙に打ち込む姿とか、子どもみたいに真剣で……。それが、すごく、かっこよかった」
千穂は、少しだけうつむいて、恥ずかしそうに笑った。小さな声で、でもはっきりと言った。
「……私は、しょうちゃんのこと、ずっと好きだったよ?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「……ほんとに?」
思わず聞き返してしまった。千穂は顔を上げて、目を見て、やわらかく頷いた。
「うん、ほんとに」
嬉しさと安堵が同時に押し寄せて、俺は思わず笑ってしまった。緊張の糸がぷつんと切れて、身体から力が抜ける。
「……そっか……そっか……よかった……」
口に出した言葉は、自分でも驚くほど弱々しくて、情けなかった。でもそれでもよかった。ようやく本音を伝えられて、ちゃんと届いて、受け入れてもらえた。それだけで、十分すぎるほどだった。
よく考えてみれば、当たり前のことなのかもしれない。好きでもない相手のために、あんなふうに世話を焼いてくれる人なんている訳がない。
毎日来てくれて、ご飯を作ってくれて、洗濯までしてくれて、何も言わずにそばにいてくれて。それは全部、彼女の気持ちだった。
俺は、あのときはただ受け取ることしかできなかった。けれど、今なら、その重さとあたたかさに気づくことができる。
あの日々のひとつひとつが、彼女の想いそのものだったんだ。
それに気づけなかった俺は、鈍感だったのだろう。でも、今ならちゃんとわかる。あれは、優しさなんかじゃなくて、好意だった。いや、愛情と言っても、きっと言いすぎじゃない。
そんなふうに思うと、胸の奥がじんと熱くなった。
※※※
俺はあらためて、千穂の手をそっと握った。
「千穂、これからよろしくな」
「うん…」
※※※
俺たちは、そっと顔を近づけて、初めてのキスを交わした。
それは、やさしくて、あたたかかった。
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