十話:悪役令嬢の満足と、主人公の過ち
芳樹はネクタイを緩めると、背広のジャケットをハンガーにかけ、ハンガーラックに吊るす。
「お風呂、沸いてるかな」
ワイシャツ姿になった芳樹がまつりに尋ねると、肉じゃがの味見をしていたまつりは申し訳なさそうに眦を下げた。
「ごめんなさい。今沸かしているところなの。もうすぐ沸くと思うけれど」
「そうか。じゃあ、とりあえず着替えてくるよ」
ハンガーラックにかかっている私服を取り、芳樹は脱衣所に向かった。
居間から芳樹の姿が無くなると、それまで無言だった綾野が息を吹き返す。
「……何というか、覇気の無い方ですわね」
どうやら予想していた姿とかなり違ったらしく、綾野の目はまん丸になっている。
「親友の父親に対して、割と酷い言い様ね」
台詞とは裏腹にまつりはくすくすと忍び笑いを漏らしていて、怒った様子はない。綾野の反応をある程度予想できていたようだ。
「優しそうな方ですわね。それに、顔も悪くないですわ」
親友を思いやってか、綾野は感想を言い直した。
「お母様とは恋愛結婚だったらしいわよ。お母様の方から一目惚れしたんですって」
鰆の味噌漬けを魚焼きグリルにセットしながら、まつりは綾野に話しかける。
割と際どい話題だが、まつりはこれくらいなら平気だった。
「まあ、そうでなければおかしい組み合わせですものね。でも結果は散々のようですけれど」
綾野は呆れた顔をしている。まつりの両親が離婚していることを知っているからだろうか。
まつりや綾野ほどの家柄になると、結婚も家の事情がかなり絡んでくる。それが嫌なら縁を切って自立するしかないが、御香月家のような古い歴史を持つ家柄であればあるほど、子どもも積み上げられてきた歴史を重んじ、政略結婚を受け入れる傾向にある。
そんな中で、芳樹と結婚したまつりの母親はかなり異色だった。だが結果は言わずもがな。価値観が根本的に違う二人の結婚生活は長くは続かなかった。
母親に引き取られてからの、自分幼少時代を思い出し、まつりは綾野に問う。
「ねえ、綾野。あなたのいうゲームの主人公だった私の両親って、どんな人物だったのかしら。名前は同じなの? 性格も?」
綾野は自分の鞄から例の前世の知識ノートを取り出すと、ぺらぺらと捲り始める。
やがてノートを閉じた綾野は、首を横に振った。
「名前は同じですわ。けれど、性格はかなり違いますわね。ゲームでのまつりさんのお父様は、もっと明るくて、家事が得意でしたわよ。それこそまつりさんよりも」
「そっか」
返答を聞いて、まつりは苦笑し嘆息する。
前世の記憶というものを、まつりは今も懐疑的に見ているが、それでも綾野の話は、今のまつりにはイフの可能性を突きつけられているように聞こえた。
もし、まつりが父親についていきたいと言っていれば、父親は綾野が言うような人間になっていたのだろうか。
心の奥底から浮かび上がってきた感傷を、まつりは切り捨てる。
(……無意味な仮定だわ)
まつりは遠い昔に、既に選択してしまっている。例え知らなかったとしても、母親についていくと決めたのはまつり自身だ。その結果背負うことになった御香月家の家名を放り出すわけにはいかないし、母親が有責離婚をして後継者から外されている現在、御香月の家名を背負うのに相応しいのは、娘であるまつりしかいない。
母親は悪人というわけではなかったが、少々気位が高かった。金銭感覚も芳樹とは違っていて、しばしばそれで夫婦喧嘩になることもあった。
上流階級の人間としては問題ないのだが、結婚した後で生活のランクをあまり落としたがらなかったのも夫婦関係を冷めさせる原因となった。芳樹と結婚したことで御香月家の支援は一切無くなっていたから、まつりと妻を養うためには、芳樹は死に物狂いで働かなければならなかったほどだ。
娘であるまつりが幼い頃はまだ良かったが、小学校中学年に上がる頃にはもう駄目だった。父親は仕事に忙殺されて真夜中まで帰って来ないうえに、母親は慣れないパートと家事を毎日こなすので精一杯で、段々娘の相手をする余裕が無くなっていく。
古いアパートの一室に一人残され、まつりは毎日母親の帰りを待った。疲れた顔で帰宅する母親の負担を少しでも減らそうと、まつりが母親の代わりに家事や料理をするようになったのは、この頃からである。母親はまつりの手料理とも言えない料理を美味しいと喜んで食べてくれた。
ある時を境に、父親が早く帰ってくるようになった。母親も、パートに出る日を減らしやたらとまつりを構うようになった。その理由も知らず、まつりはただ両親と一緒に過ごせるようになったことを喜んだ。
そんな矢先に、突然の離婚である。本当は色々なことがあったのかもしれないが、子どものまつりには何も知らされなかった。まつりは事情も理解できないまま、母親と共に御香月家に帰るか、父親の転居についていくか選択を迫られた。
この時父親を選んでいたら、全ては変わっていたのかもしれない。完全に父親の側に立って母親を敵視し、ゲーム通りに綾野とは親友ではなくいけ好かない恋敵として敵対していたのかもしれない。
だが、当時の綾野は芳樹よりも母親に懐いていた。早く帰ってくるようになったとはいえ、毎日仕事をしている芳樹と家にいることが多くなったまつりの母親とでは、触れ合う時間がまるで違う。まつりは母親を選んだ。
「人生って、ままならないわね。本当に」
ため息をつくまつりの声には隠しきれない苦さがある。まつりが両親の突然の離婚、その真相を知ったのは、中学生になってからだ。その頃のまつりはすっかり御香月家の娘として躾けられていて、母親の良い面もそれなりに知ってしまっていたから、今更父親のところで暮らしたいと言い出せる性格ではなくなっていた。
こうして週末に父親のもとに通うのは、そんなまつりの精一杯の贖罪である。
「まつりさん、お魚、大丈夫ですの?」
「あ、いけない」
いつの間にか考え事をしていたまつりの手が止まっていた。
慌てて魚焼きグリルを確認し、まつりはホッと息をつく。どうやら焦げてはいないようだ。
脱衣所から着替えた芳樹が出てくる。
「いい匂いだね。今日は魚かな」
漂う良い匂いを嗅いで、芳樹は唾を飲み込んだ。
普段は外食や出来合いの惣菜などで済ませている芳樹にとって、ほとんど唯一の楽しみと言ってもいい、娘との食事の機会である。それも、献立は娘の手作り。
「メインは肉じゃがよ。ちょうど今できたところ。先にお夕飯にする?」
「そうだね。沸くまでもう少しかかるみたいだし、そうしようかな。手伝うよ」
台所に向かおうとする芳樹を、まつりが当然のように通せんぼした。
「後はもう配膳だけだし、私がするから、お父さんは座ってくつろいでて」
「いや、それくらい僕がやるよ。せっかくお友達が来てるんだから、まつりはお友達とゆっくりしてなさい」
まつりは芳樹にやんわりと台所から追い出されてしまった。
釈然としないまつりは、居間に立ち尽くしたまま憮然とした顔をする。
「……何よ」
いつの間にかちゃぶ台の前に座ってくつろいでいる綾野に生暖かい視線を向けられ、まつりは唇を尖らせた。
「愛されていますわねぇ」
「うるさい」
あまりの恥ずかしさに、まつりの顔が赤らんだ。
■ □ ■
食事は終始和やかに進んだ。
芳樹がいるので綾野はお嬢様の皮を被ったままだったが、それでも食卓の食事を平らげるスピードはかなり早い。
あっという間に肉じゃがも魚も酢の物も、ご飯と味噌汁でさえ全て完食してしまい、綾野は空になった食器を悲しそうな目で見つめた。
「おかわりする? 魚以外ならあるわよ」
まつりの申し出に綾野は一瞬ぱっと顔を輝かせたが、すぐに取り繕って何でもないことのように言った。
「わたくしは別にどちらでも構いませんけど、まつりさんがどうしてもと仰るなら、おかわりして差し上げても宜しくてよ」
「どちらでもいいなら無くてもいいのね」
イラッとしたまつりが綾野の食器を下げようとすると、表情を引き攣らせた綾野が慌ててまつりの腕を掴む。
「そ、そんなことは言っていませんわよ!」
「じゃあ欲しいのね?」
にんまりと笑ったまつりが尋ねると、綾野は恥ずかしいのか顔を真っ赤にして俯き、蚊の鳴くような声で答えた。
「……お願いしますわ」
一部始終を微笑ましく見ていた芳樹が呟く。
「神宮路さんはまつりと仲が良いんだねぇ」
「そうですわ。まつりさんはわたくしの大事なお友達ですもの。まつりさんも同じよね?」
不安があるのか、まつりに聞く綾野の声は少し揺れた。
「私も綾野のことは親友だと思っているけれど、面と向かって言われると照れるわ」
困ったように微笑むまつりの顔色は、確かに少し赤くなっている。
三人が食べ終わった後、芳樹が食器を纏めて片付けようとするのをまつりが制止する。
「片付けくらい私がやっておくから、お父さんは先にお風呂に入りなよ。ゆっくり仕事の疲れを癒してきて。私たちは後でいいから」
食事の前に綾野が点けた風呂は食事しているうちに沸き、いつでも入れる状態になっている。
「ありがとう。なら入ってくるよ」
脱衣所に向かう芳樹を見送ると、まつりは片付けを始めた。椅子に座って満ち足りた表情で寛いでいた綾野が、きびきびと働いているまつりを見て慌てて立ち上がる。
「わたくしも手伝いますわ」
「ありがとう。私が食器を洗うから、綾野はこの布巾で拭いて食器棚に仕舞ってくれる?」
こくこくと頷く綾野が取りやすいように、水切り籠を綾野の正面に移動させたまつりは、洗った食器を水切り籠に入れていく。
綾野は水気を拭き取った食器を、何が入っているかよく見ながら、同じ食器が置いてある場所に仕舞っていく。
まつりの手際が良いせいもあり、綾野よりもまつりの方が先に洗い終わってしまった。
「手伝うわ」
やることがなくなったまつりは、布巾をもう一つ持ってくると、綾野の横で食器を拭くのを手伝う。自然と綾野の仕事は食器を仕舞うだけになっていた。
「いつもよりずっと早く終わったわね。綾野が手伝ってくれたおかげよ」
「わたくし、本当に役に立っていたのかしら……?」
上機嫌なまつりとは裏腹に、初めての作業に手間取っていた綾野は微妙な表情をしている。
「お風呂上がったよ。まつりたちも入っておいで」
タイミング良く、脱衣所から芳樹が出てくる。
振り返って芳樹を見た綾野はあんぐりと口を開け、たちまち真っ赤になった。
「こっ、こここここっここ」
「うん?」
不思議そうな顔で綾野を見る芳樹に、まつりは笑顔を作ろうとして失敗したような、引き攣った顔を向けた。
「お父さん。バスタオル一枚で出てこないで。私だけならともかく、綾野もいるんだから」
「ああ、ごめんごめん」
暢気そうな緩さで謝罪すると、芳樹は着替え始めた。
「み、見てしまいましたわ。婚約者以外の殿方の裸を」
めそめそと泣く綾野をまつりは慰める。
「不幸な事故だったわね。早く忘れなさい」
毎週末を同じ部屋で過ごして耐性がついているまつりは、今まで父親がずぼらでもそこまで気にしていなかったが、綾野がいることだし少しは気をつけさせるべきだったかと反省する。
綾野が落ち着くのを見届けて、まつりは提案した。
「お風呂は先に綾野が入っていいわよ。一日中慣れない労働して疲れてるでしょ?」
「まつりさんも一緒に入りませんか? 一人で入るのは不安ですの」
一瞬きょとんした表情で綾野を見たまつりは、すぐに得心して頷いた。
「……ああ、綾野はいつもメイドさんに洗ってもらってるんだっけ。もしかして、一人で身体洗ったことない?」
「恥ずかしながら、その通りですわ」
赤面する綾野だが、杉並学院の生徒たち、特に女子の中ではそれほど珍しいことではなかった。まつり自身も父親の元では自分で身体を洗うが、御香月家では女中に身体を洗わせている。
馬鹿らしいとはまつり自身も思うが、これも権力を誇示するという意味では大事なことだ。それに、地味に雇用にも貢献している。
「うーん……そうだね。なら、一緒に入っちゃおうか。ちょっと手狭になるけど。それでもいい?」
「構いませんわ」
二人が風呂場に消えた後、居間で手酌でビールを飲みながら、芳樹が呟く。
「いやぁ、姦しいねぇ」
すでに酔っているのか、実に暢気な台詞だった。
風呂から上がった後、まつりは芳樹の布団の隣に敷いた自分の布団の横に、綾野の布団を並べる。まつりを真ん中に、川の字で寝る形だ。
「わたくし、お布団で寝るのは初めてですわ」
前世ではベッド派だったのか、ネグリジェ姿の綾野がそんなことを言う。綾野の格好を見たまつりは思わず額に手を当てた。色っぽすぎる。どう見ても、綾野のネグリジェは安物には見えない。
「しまった。寝巻きのことまでは言い含めてなかったわ」
「別に構いませんわよ。今この場にはわたくしたちしかいないですもの」
にへら、とだらしない笑みを浮かべて手をわきわきと動かしてスキンシップを図ろうとする綾野に、まつりは冷たく告げた。
「綾野。隣には私のお父さんがいるんだけど」
「……忘れてましたわ」
顔を赤くした綾野は慌てて布団に潜り込んだ。




