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果てに赴く

 世界が重い。


 光景が灰色に支配されてどれほど経つだろうか。何も見えない。何も感じられない。二キロもないはずのナップザックが、鉄の塊のように肩を絞める。体の不調に呼応するように、頭の中に後悔や悲しみが湧いて出ては、それ以上の苦痛によって塗りつぶされていく。


「天音、大丈夫か」


 隣の凪は平然としている。この状況下で、ありえないほどに。侭は無事だろうか。すぐ隣を見やると、こちらも一見するといつも通り。私がおかしいのだろうか。横腹を殴りつけてくる凄惨たる現実に、また足元がふらつく、視界も歪む。


「大げさだなあ」


 侭が嘲るように私の手を引く。屈辱だけど、認めるしかなさそうだ。


「飛行機、嫌い」


 旅程は東都圏から北の大地まで。陸路だと十時間かかるというし、予算にも余裕が出ていたところだ。思い切って空路を予約したまではよかったんだけど、まさかそこに罠があるとは。思えば高所閉所は経験したことなかったな。これが飛行機酔いかあ。


「帰り、どうしよ」

「せっかくだし、おいしいもの食べて帰ろうか。蟹とか」


 的確に私の嚥下中枢を刺激してくる侭。嫌がらせに余念がなくて嫌になるね。まあ、もう飛行機の予約も終わっちゃってるし、帰りのことは帰り考えよう。


「バス来たぞ」


 少し先で凪の声。急いで手続きを済ませないと。吐き気を真水で流し込んで、後を追う。


 九月初頭の北の旅。熱気と寒気が程よくせめぎ合う、ちょうどいい気候だ。上を向くと青天にそびえる雲々、左右にはひたすらに広大な大地。酔いも醒めてきてだんだん清々しい気分になりつつも、バスと徒歩とで死源を目指す。


「お、あれか」


 最後のバス停から徒歩一時間。合計五時間の大移動だ。先導する凪の言葉が私を旅行気分から引き戻す。指さした先には、もはや見慣れた立ち入り禁止の封鎖区画。見張りもなく、味気もない。けれどもこの見えない壁の先には、きっと謎と怪異が広がっているのだろう。


「じゃあ凪、よろしく」長旅のせいで侭はすでに疲労困憊だ。

「おう」


 感傷も躊躇もなく、鍵をかざして異界が開く。当然ながら、隔てる世界はここからはうかがえない。


「ご苦労」


 無駄に偉そうな侭。たまには自分で開ければいいのにと思ったけれど、思い直す。


「侭の鍵って、今どこにあるの?」

「結月さんに預けてるけど。それが何か?」

「そっか」


 さすがの鬼畜生も人の命がかかるとまともな倫理観を発揮してくれるんだね。お姉さんちょっと泣いてもいいかな。


「吐いてもいいけど見えないところでね」

「私の感動を返せ」

「先行くぞ」


 茶番劇に飽きたのか、凪が死源の中に消えていく。侭が呆れた顔で後を追い、私もそれに続く。


 生ぬるい海の中を進むような壁を手探りで通り抜け、靴先がコツリと別の感触をつかむ。


「ここが、今回の死源」


 硬質に響く足音、凪のくしゃみ、まとわりつく透明と白。それらを乗り越えてようやく広がった光景に息を呑む。


「壁?」


 目の前に立ちふさがっていたのは、コンクリートライクな灰色の壁。高さは五メートルくらいだろうか。全面を城壁のように覆っている。振り返ると、反対側にも同じく壁。右手と頭上にも壁があって、左側にはどうにか道があった。道はまっすぐ続き、視界の遥か向こうで別の壁に突き当たっている。


「迷路だ」


 凪の言葉が核心をつく。確かに、子供のころ遊園地で遊んだ巨大迷路とそっくりだ。踏破したら今回の死源終わり、とかになってくれないかな。


「しかし寒いな」


 壁を見上げつつ鼻をすする凪。確かに北の大地であることを考慮しても、死源の中は肌寒い。セ氏十度くらいだろうか。両腕をさすって温めてから、ナップザックから上着を取り出し羽織る。


「ズルい」

「凪が準備不足なだけでしょ」


 まだ九月とはいえ北雷だ。半袖一枚で挑むのはちょっとした無謀と言って差し支えない。


「風邪引きそう」

「雨合羽ならあるよ」

「頼む」


 折りたたんだレインコートを手渡す。防寒具としては微妙だけど、まあないよりマシだろう。凪はよし。もう一方はどうかな。


「……」


 侭は少し離れた場所で空間を静かに観察していた。猫背気味なせいか、背中がどこか寂しげだ。


「どしたの?」

「いや」


 振り向かず、少し歯切れ悪く応じる侭。いつの間にか一枚羽織っているから寒いわけではなさそうだけど、それにしても妙だ。


「何かある?」

「静かだな、と思ってさ」


 視線は迷路の進行方向に向いているけれど、もっと遠くを見ているようにも感じられた。よく分からない。


「なあ天音、これデザインなんとかならない?」


 後ろから私の緊張を台無しにしてくる凪の声。そりゃあ、女物だし。


「大丈夫、似合ってるよ」

「ならいいけど」


 凪をあしらううち、侭も心の準備を終えたらしい。


「それじゃあ、行こうか」


 いつも通りに胡散臭い笑顔を張り付けて、何も見えない死源の先を指にさす。探索開始だ。




 数分ほど探索を続け、少しずつこの死源のことが分かり始めてきた。


 第一印象に相違なく、死源内部は迷路のような構造をしている。人二人分くらいの道幅に高めの壁、実にオーソドックスだ。最初のうちは壁を伝って迷路の上に出られないか試していた凪も、さすがに五メートルの壁は無理だと悟ったらしい。今はおとなしく私と侭の前方で斥候を努めてくれている。


「分かれ道だ。どっち行く?」

「左?」「いいや絶対右だね」「はいはい右ね」


 たまに分岐はあるけれど、その真偽は実に分かりやすい。ハズレの道は細く、まるで自分が不正解の道だと主張しているかのようだ。長くもなく、行き止まりに宝箱があったりすることもない、純然たる無駄足だ。私としては無視したいのだけど、そうすると侭が気にしだすから、自然私たちは迷路を網羅的に進むことになる。


「ここは、原義としての迷宮に近いのかもしれないね」侭が扉の壁をコンコンと叩く。


 確か、ギリシア圏の神話だっただろうか。人食いの化け物が潜む迷宮に挑む英雄の話を思い出す。残念ながら鞄の中にあるのは糸でなくロープだけ。


「迷宮ねえ」

「そう。牛頭の化け物を閉じ込めておくために作った大迷路、その正体は魔除けのまじないだとか、盗掘者が逃げにくくするためのセキュリティだとか諸説ある。でも、そのわりに分岐はほとんどなくて、時間さえあればクリアできてしまうんだ」


 迷わせる気のない迷宮。その意図はどこにあるのだろうか。


「罪を考えさせる時間を作るためだと、僕は思うよ。人は無心で歩き続けることが難しい、か弱い生き物だからね」

「ふーん」


 静かすぎる死源に対し、侭は何か思うところがあるのかもしれない。珍しく足音を立てながら歩く、その姿が少し寂しげに見えた。


「しっかし、なんにもないところだな」

「うん、そうなんだよね」


 凪の言う通り、ここには何もない。迷路はあるけど、なんというのだろうか。前の二つの死源で感じられた、息遣いのようなものが感じられないんだ。もちろん死源の法則をすべて読み切ったわけではないから断言はできないけれど、ちょっと変だ。


「侭はどう思う?」

「……どうかな」


 やっぱりちょっと元気がない。私の不安を察したのか、ばつが悪そうに作り笑顔。


「たぶんだけど、リソースは現象のほうに使われたんじゃないかな。五月の反転砂漠みたいな感じだと思う」

「でも、あの死源は味気なくもなかったよ?」

「だからたぶんなんだ。もっとすごい現象がある、とかね」

「なるほど?」


 納得できるような、できないような。理論よりも、侭自身の浮かない表情のほうが気になる。まるで自分で自分の考えを信じていないように見えた。


「何にせよ、行けば分かる」


 凪だけが終始無頓着。似合っていない雨合羽をヒラつかせて先導する。まあ、調べの足りないうちからいろいろ考えても無駄というものか。




「お」


 角を十も曲がったところで、凪が足を止める。


「どうしたの」

「広間だ」


 近づいてみると、確かに凪の背中越しに広がった部屋が見える。ゴールか敵か、あるいは罠か。ちょうど変化のない迷路に飽きが来ていたところだ。自然と足が早まる。


「ストップ」


 その私の歩みを凪の左手が止める。


「今度は何?」

「引き返す。いや、深呼吸しとけ」

「うん?」


 よく分からないけれど、言われるがまま息を吸う、吐く。ほのめく薬品じみた臭いのおかげで爽快さわやかとはいかないけれど、とりあえず目は冴えた。


「よし」


 凪の言葉を一歩ずれ、私にその先を見せる。


「人?」


 見知らぬ成人男性が、場に似つかわしくないダークグレーのスーツを着て横たわっている。両掌は柔らかく組まれ、眼鏡をかけた顔立ちは穏やかで、眠っている。苦痛などないかのように。


「この人」


 まるで、もしかしたら、かもしれない。即座に浮かんだのは、この場を乗り切る可能性のある修飾語たち。


「死んでるだろうね」


 私の希望を奪う、侭の容赦ない一言。脈を計り、呼吸を確かめ、慣れた調子で死体を検めていく。「うん、死んでる」


「わ、わわ」

「落ち着け。ただの死体だ」


 動揺で上ずる私の精神を、凪の言葉が再び冷やす。たぶん、あえて突き放すように言っているんだろう。感謝しつつ、深呼吸だ。


 改めて遺体を観察する。人の死を直接見るのは初めてだけど、不思議と恐ろしさはなかった。安らかに、という表現は陳腐かもしれないけれど、その表情は穏やかだ。


「もしかして、ジエンドの被害者?」

「かもな」


 異界化しているせいで忘れかけていたけれど、ここは未曽有の大災害の震源地なのだ。よくよく考えると、遺体の一つや二つあるだろう。


「侵入者の末路か、放り込まれた被害者って線もある」


 侭の言葉は私の推論を否定するニュアンスを含んでいた。理由はなんとなく分かる。だって、この遺体は七年近く前のそれにしてはきれいすぎる。


「どっちもないな」


 けれども今度は凪が侭の言葉を否定する。根拠を尋ねると、なぜか目を伏せる。


「見ろ」


 凪が陣取っていた足をどけ、部屋の奥を私たちに見せる。


「なるほど」


 言葉を発したのは侭で、私はというと何も言えずにいた。


 遺体は、一つではなかった。

前回の死源探索以降、侭の手ほどきにより天音にはゲームや神話に関する知識が流し込まれています。

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