プロローグ
0時0分。人々は一斉に手を合わせた。
『鎮魂の日』。三百年前に起きた、壮絶な事故の弔いの日だ。
男は一瞬だけ手を合わせてから、すぐに踵を返した。それを見た小柄な少女が尋ねる。
「ミツバ、もう行くの?」
「ああ。別に長く祈ろうが短く祈ろうが、何も変わらないだろ。俺は今の一瞬に全力の祈りを込めた!」
人によっては薄情と思われる態度だったが、彼らの仲間内ではいつものことだった。
「ま、アイツのことだからな」
「今日もこの時間から機械いじりか」
「訓練の後なのに、よく体力保つよな。俺はもう寝るー」
談笑しながら自宅へと向かう彼らを横目に、少女は天を仰ぐ。視界に広がるのは、建設用コンクリート製の無機質な天井だ。
「私は、このままずっと変わらなくて良いのにな」
もう一度祈るように、彼女はそう呟いた。
□ □ □
オイルの強烈な匂いを嗅ぎ取り、眠気なんかは一瞬で晴れた。
男は大きな声で挨拶してから、工房に入る。
「来たな、ミツバ」
部屋の奥から出てきたのは、壮年の男。立派な顎髭がトレードマークで、体にはぶ厚い筋肉が付いている。
「長い歴史の中で、お前くらいなもんだ。戦闘員とエンジニアの両刀は」
「それは……スギさんだって。それに戦闘員としてもエンジニアとしても、俺はスギさんに遠く及ばないよ」
「オレは戦えなくなってからエンジニアに転向しただけだ。それにお前は若い。まだ無限の可能性があるじゃねえか」
それを聞いた若い男の感情は、嬉しさ半分哀しさ半分といったところで。
その気持ちを押し殺して、整備途中だった自分の装備に手を掛けようとした。
瞬間、アサートが鳴る。
『敵襲! 敵襲!』
焦りのあまり、音割れした放送が周囲に響き渡った。
「敵襲……なんで⁉︎ 『鎮魂の日』は戦わない不文律があったんじゃないのか!」
男は目を見開き、眦が吊り上げる。ただ、怒りには染まるも、冷静さを失わなかった。すぐに調整済みの物を肩に掛けて駆け出した。
長いエレベーターの待ち時間。少しずつ人が乗ってきて、同胞たちと顔を見合わせる。
「敵は?」
「……黒鷹らしい」
尋ねたエンジニアの男は考え込む様子を見せた。後ろにいた男が、代わりに反応する。
「黒鷹……? なんで奴らがこんなところまで……ただでさえ怪我人だらけだっていうのに……。ここでやられたら……マジで……」
冷静な男は、ぶるぶると震える男の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。俺らは俺らのできることをやるしかない」
その言葉に、男たちの表情が引き締まる。
長いエレベーターで上に昇った後、彼らが向かうは更衣室。慣れた手付きで、白と黒を基調にした服に着替えていく。
防刃チョッキとヘッドギアを中に装備し、鉛の繊維が縫い込まれた防護服に全身を包む。グローブをはめ、最後にゴーグルを付ければ完璧だ。一寸の隙間も無く、完璧に体を覆い隠している。
彼らの正装。いや、正装という表現が正しいのかは分からない。ただ確かなことは、それを着なければ遅かれ早かれ命を落とすということだけだ。
そして、スキー板を履き、ストックを両手に持った。
数回軽くジャンプをして、靴に足をフィットさせる。その後で、大きく息を吐いた。
燕の形をしたエンブレムに手を当て、巨大なドアの前に待つ。
ドアが開くと同時に、鈍いエンジンの駆動音が同時多発的に鳴った。そして、彼らは後方への慣性力を一瞬だけ耐えた後、弾丸のように疾駆した。
目の前に広がるは、一面の銀世界。大粒の雪がしんしんと降り、視界を阻害する。
彼らの背後にそびえ立つは、巨大なコンクリート造りの塔だった。地上に見える高さは百メートルほど。頂上には巨大な傘のような屋根が張られている。塔の側面にある無数の空気孔からは、常に白煙が吹き出していた。
空には灰色の曇天。地は白銀の雪景色。モノクロの世界を彼らは高速で駆け抜ける。
後ろを見ることはない。ただ前を向いて滑走する。颯爽と雪飛沫を上げながら、ターンをするたびにぐんと加速していった。激しい風圧を受けないように腰を落とし、風を切るように雪上を滑りゆく。
その時、吹雪の中に黒い影が映った。数は三つ。対してこちらは八人。数的有利だ。
ただの斥候。捕らえて、捕虜にするのが良い。
彼らは一瞬で認識を共有し、その三人組に正面から立ち向かった。
意を決し、彼らはストックの手元にあるボタンを押す。それと同時に、スキー板の下についているタイヤが更なる高速回転を始めた。
これはただのスキーではない。れっきとした戦闘装備だ。
加速した部隊は、それまでの大きなターンから細かいターンに切り替え、更に緩急を加えて敵部隊に襲い掛かる。
先陣を切る男は両手のストックをくるっと回転させた。逆手持ちから順手持ちへ。手元にあるボタンを押したその時、ストックから鈍色の刃が姿を現した。
スピードを落とすことなく、飛燕の如き二刀の斬撃。相手もそれに応え、唸るような鋭い金属音と共に火花が散った。
「(この動き、斥候じゃない!)」
その直後、男の背後から味方二人のサポートが入る。それを見越したかのように、敵はするりと男の脇の横を通り抜けながら加速し、まず一人にカウンターを決めた。
鈍い打撃音と共に崩れ落ちる味方に気を取られることなく、もう一人が斬撃を繰り出す。だが、それを敵は仰反りながらギリギリの間合いで回避すると、剣で巨大な雪飛沫を発生させた。
最初に飛び込んだ男がターンをして体勢を立て直した時には、遅かった。もう一人の味方も地面に伏しており、完全な一対一に持ち込まれた。
三対一の数的有利を一瞬で返され、男は動揺を隠し切れない。
確かな実力差。それは一太刀交えた瞬間に理解した。
だが、負ける訳にはいかない。
彼らの背負うものは、塔に暮らす全ての人間の命だ。
間合いを保ち、敵をよく観察する。炎を象った特徴的な剣の鍔が目に入った。
通称、【紅蓮】。圧倒的な攻撃力で名の通った実力者だが、その実態は闇に隠れている。彼が実際に相対するのも初めてだった。
敵はやけに細身だ。スピードと戦闘センスは優れているようだが、力勝負なら。
偶然、風が吹雪いた。巻き上げられた粉雪に紛れるように、彼は姿勢を落とした。
大きく前傾姿勢を取り、爆発的な加速で間合いを詰める。わずかに虚を突かれた敵は、躱さずに剣で攻撃を受けた。
両者二刀での鍔迫り合い。炎を象った【紅蓮】の鍔と激しくぶつかり合った。けれどやはり、単純な力ではやや上回っている。
いける。
だがその時、敵の声が聞こえた。無線で仲間と連絡を取るためだったが、それが彼の耳に直接入ったのだ。
『問題ないわ。このまま、白燕の制圧に掛かる』
その声は声変わりした男とは到底思えない、澄んだ声だった。
まさか、女?
その僅かな隙を、相手は見逃さなかった。
剣を引かれ、力を入れていた男はバランスを崩す。そして、一瞬の加速によって、駆けるように男の腹部を斬り裂いた。
腹部に激痛が走る。だが、流血はしない。強固に編み込まれた炭素繊維が、防刃の役目を果たした。
痛みを堪えながら、もう一度距離を取り刀で牽制する。
だが、敵は猶予を与えなかった。大きく前傾姿勢を取り、加速した。
男は渾身の力を振り絞る。そしてカウンターを放つべく、横一文字に振り抜いた。
瞬間、時が止まる。
いや、止まったのは、敵の方だった。
間合いの一寸先で急ブレーキをかけていた。肉体はその慣性力を抑え切れずに宙に浮く。だが、それすらも意図通りで。
斜めに回転するように飛び上がり、男の頭上を超えていく。スキー板に乗っていた細雪が視界に舞った。完璧なボディバランスで姿勢を整え、相手は剣を振るう。
男がその姿を再び捉えようとした直前、首筋に衝撃が走った。それと同時に、ぐらっと視界がぼやける。そこで、彼はようやく自分が斬られたことを自覚した。
前のめりに倒れ込む。視界がぼやけ意識が朦朧とする中、何とか周囲に視線を向けた。映ったのは、味方の屍だけ。
その日、白燕の塔は黒鷹の塔に完全敗北した。




