第八章
翌朝。直巳は全員分の朝食と、自分と伊武の弁当を作り、学校へ行く準備を終えた。まだ少し余裕があるので、インスタントコーヒーを煎れて、リビングのテレビでニュースを見ている。隣りにはアイシャが座り、Aに肩を揉ませ、床に正座したBの頭に投げ出した足を置いている。日常生活では何の役にも立たないBも、移動式オットマンとしては使えるらしい。
薄めのインスタントコーヒーを飲み終わると、そろそろ出る時間になっていた。
「直巳様、そろそろお時間なのでは?」
Aが、アイシャの肩を揉みながら話かけてきた。
「うん。そうなんだけどさ。伊武が来ないんだよ」
伊武はいつもどおり、みんなと朝食を取っていた。そして学校へ行く準備をするために、一度部屋に戻って、それっきり降りてこない。
「どうしたんだろう? 具合でも悪くなったかな」
直巳が心配そうに言うと、アイシャがけらけらと笑った。
「まれーの具合が悪いー? んなわけないでしょー。ブラでもぶっ壊れたんじゃないのー」
「……ブラを取り替えるだけで、こんなに時間はかからないだろ」
「じゃあ、全部ぶっ壊れたんじゃないの? 最近、また大きくなったみたいだし」
「え」
直巳が思わず声をあげると、アイシャがにやにやと楽しそうな顔になった。
「あれー? 毎日見てるのに気づかなかったのー?」
「そ、そんな毎日なんか見てないから!」
本当は見てる。毎日、本能的にちらっと見てる。牽制するピッチャーのように見ている。
とはいえ、ああそうだ見ていると開き直るわけにもいかない。
アイシャが、「えー、見てるくせにー」と直巳をからかっていると、リビングのドアが開いて、伊武が入ってきた。服装も顔色もいつもどおりだ。だが、直巳には、いつもよりテンションが低いように思える。普通の人では区別が付かないだろうが。
「伊武、どうしたの? 具合でも悪い?」
直巳が心配して声をかけると、伊武は不器用な作り笑いを浮かべた。
「大丈夫……ちょっと……ぼーっとしてた……だけ……だから……学校……行こう?」
「まあ、伊武がそういうなら……無理はしないでね」
直巳が伊武用の小さなお弁当箱を渡すと、伊武は、「ありがとう」と受け取って、カバンに閉まった。
「それでは、いってらっしゃいませ」
直巳が部屋を出ようとすると、Aが頭を下げて見送ってくれた。
直巳と伊武が通学路を歩く。いつもは直巳がどうでもいい話をして、伊武がそれに短く答えるというやり取りをしているのだが、最近の伊武は少しおかしかった。直巳の話に返事はするのだが、どこか上の空だった。顔を合わせてくれないこともある。
直巳は迷惑なのかな、と思い、そのうち話かける量が減っていった。
そして、二人は無言で登校するようになっていた。
学校が近づいてくると、知り合いも増えてくる。クラスメイト達が、すれ違いざまに、直巳に挨拶をしてくる。
「椿! おはよ!」
直巳の肩を叩いて挨拶をしてきたのは、直巳の隣りに座っている女子、若林だった。特別親しくはないが、若林は気さくなので、誰にでも挨拶をする。
「ああ、おはよう」
直巳が手を上げて挨拶を返すと、若林は小さく微笑んだ。
「伊武さんも、おはよ!」
若林が、隣りにいる伊武にも挨拶をしてくる。
伊武は黙って、小さく頭を下げた。
若林は少し困ったように笑うと、直巳達を追い抜いて、校門をくぐっていった。
昨晩に魔術商を襲った後でも、直巳達は普通に学校に行き、普通に授業を受ける。
以前は、予習復習をきっちりとやっていた直巳だったが、アイシャ達と出会ってからは、家での予習が出来ていない。自然と、授業中に集中するようになった。だが、成績が落ちているわけでもないので、最初からこうしている方が効率はよかったのかもしれない。
伊武を見ると、ノートをじっと見たまま、ピクリとも動かない。目も開いているし、呼吸も普通にしているのだが、あれは寝ている。伊武は基本、授業中はあのように目を開けたまま寝ている。誰の迷惑にもなっていないのだが、当然、成績は悪い。
直巳はテスト前に、伊武用のテスト対策ノートをまとめてやろうと考えていると、授業が終わり、昼休みを迎えるチャイムが鳴った。
伊武が弁当を持って、直巳の席にやってくる。直巳の向かいの席に座っている男子は、いつも食堂に行くので、心良く伊武に席を貸してくれていた。
二人はいつもどおり、ほぼ会話の無い食事をした。話すことがないわけではないが、学校でするわけにもいかない内容だし、二人とも、学校の話題などには疎い。
いつもなら、これで終わるのだが、今日に限って、珍しいことが起こった。
「ねえねえ。椿、伊武さん。あたし達も一緒に食べていい?」
二人に話しかけてきたのは、朝、挨拶をしてきた女子の若林と、その友達の飯田だった。
なぜ、彼女達が突然、話かけてきたのか。直巳は一瞬で考えを巡らせる。どうして? どうしてわざわざ、自分達に話しかけてくる? こんな会話もない、学校行事にもほとんど参加しないような自分達に? 何かの罠? もしや魔術師? 刺客?
きょとんとした直巳を見ると、若林が笑いながら言った。
「そんな警戒しないでよー。せっかく隣りなのに、あんまり話したこともないでしょ? それに、伊武さんともお話してみたいなーと思ってたんだ」
なんとなく。そうか。普通の子はなんとなくで人に話かけるのか。そんな当たり前の感覚が抜けている自分を、直巳はちょっと嫌だなと思った。
「えっと……伊武がいいなら」
直巳が伊武を見ると、伊武は黙ってうなずいた。いつもどおり、「椿君がいいなら」というやつだ。
「うん……じゃあ、一緒に食べようか」
特に断る理由もない。というか、断るデメリットの方が大きい。ここで断ってクラスで孤立すると、学校生活が送りにくくなるかもしれない。という判断だった。
「ほんと? ありがとね! じゃ、お邪魔しまーす」
若林と飯田は、近くにあった机と椅子を動かし、手際良く準備をはじめた。
「いやー、よかったよかった。断られたらどうしようかと思ってた。隣りなのに、気まずくなっちゃうじゃん? ま、元から交流ないんだけどさ。でも、せっかくなら仲良くしときたいじゃん? あ、そう思ってるのはあたしだけか。椿も伊武さんも、一人でいるの平気なタイプっていうか、ぶっちゃけ壁みたいなの? あるじゃん? だから、勇気出してみたわけよー」
「お、おお……」
「伊武さんともお話してみたかったんだー。美人だし、背高いしさ! めちゃかっこいいじゃん! 体育の時とかやる気ないし、夏でもジャージ着てるけどさ。着替えてる時にちょっと見える筋肉、やばくない? 水泳部だってあそこまでないよ? まあ筋肉以外にもすごいんだけど! いくつあるの? ってオヤジっぽいか! あたしにも分けて欲しいわーマジで」
弁当を食べながらまくしてたる若林に、直巳は相づちを挟むのが精一杯だった。普通の女子というのは、こんなにも喋るものだっただろうか。もうすでに、伊武の3日分ぐらいは喋っているのではないだろうか。
直巳が心配になって伊武を見ると、黙って弁当を食べていた。若林には目も合わせようとしない。嫌っているわけではない。興味がないだけだ。だが、若林はそんな二人の態度を気にすることもなく、喋り続けた。
「あれだよね。二人とも、いつもお弁当だよね? いいなー、美味しそうで。あたしのなんか完全に晩ご飯の残りだよ。前なんかパスタとご飯だったからね。しかもクリームパスタ。ラーメンライスですらあり得ないのに、クリームパスタライスとかマジないでしょ。椿のお母さんは料理上手なの? その卵焼きとか、超上手じゃん」
「あ、いや……俺は自分で作ってるから」
「え! マジ!? 椿、弁当男子ってやつ!? いや、それにしても上手すぎるでしょこれ。女子力高いなー。野菜とかちゃんと入ってるし。椿君、料理得意なの? 趣味?」
「趣味っていうか、家でご飯作るんだよ俺」
「うわ、すごい! これあたし負けたわ。彼氏に食べさせる用のハンバーグしか作ったことないし。それも別に美味しくないし。じゃあ、デートの時は椿君がお弁当作ったりするの?」
「……デート?」
突然出てきた聞き慣れない言葉を、直巳が聞き返す。
「うん。伊武さんと」
「え――?」
「ん? 付き合ってるんでしょ?」
「……付き合って……ないよ」
ようやく、伊武が口を開いた。喜怒哀楽、どの感情も含まれていないような、ただ内容を訂正するだけの発言。
「え!? 椿と伊武さんって付き合ってないの!?」
若林が驚き、素で大きな声をあげると、その声にクラスの全員が振り向いた。
直巳が伊武を見ると、他の人にばれないように目で合図をしてきた。「あわせて」と。
「ええと……うん。仲はいいけど、付き合ってるわけじゃないよ」
直巳も否定すると、若林は驚いたというか、若干引いていた。
「ええー……いつも一緒にいるのにー……? マジかー……」
若林は大げさに椅子にもたれかかる。おおげさすぎて上半身がのけぞっていた。
その若林のふざけた仕草をきっかけに、他の生徒が直巳達に近寄ってきた。
「お、今日って椿達と飯食っても良い日なの?」
「えー、楽しそうー。私も入れてー」
「椿と伊武、付き合ってないってマジ? それちょっと聞かせてよ」
教室に居た人間が、面白いイベントを見つけたとばかりに集まってくる。
直巳はまあ、話せと言われれば普通に話せるのだが、伊武がまずいかもしれない。伊武を見ると、表面上はいつもどおりだったが、少し困った顔をしている。
集まってきたクラスメイトは、直巳達を中心にしながらも、二人に話しかけるでもなく、お互いに好き勝手に会話を続けていた。
伊武は、直巳の立場を考えてじっとしているが、非常に居心地が悪そうだった。直巳が見ていてかわいそうになるぐらいに。アイシャやAなら爆笑しているだろう。
直巳はわざとらしく腕時計を見ると、周りに聞こえるように伊武に話かけた。
「……伊武、そろそろ時間じゃない? ほら、バイト先に電話するって言ってたやつ」
本当は何の用事もないのだが、伊武を逃がすために助け船を出した。伊武も直巳の意図を察したのか、携帯を取り出すと、席を立った。
「あ……うん……じゃあ……ちょっと……電話……してくる……から」
「えー、伊武さん行っちゃうのー」
「お話しようよー」
伊武は引き留める女子の声を無視して、教室から出ていった。
「あの、伊武は最初から、ちょっと用事あったんだよ」
直巳が苦笑いしながらフォローをいれる。周りは残念そうな声を上げていたが、若林がフォローをいれてくれた。
「じゃ! 伊武さんがいなくなったかわりに、椿に質問させてもらおうかな! 伊武さんがいない方が答えやすいこともあるでしょ?」
そういうと、周りも若林にのって、楽しげな声をあげた。
直巳は引きつりながらも、空気を壊さないよう、のらりくらりと質問に答えていった。大体は伊武についてのことだったが。天使教会で知り合って仲良くなったと、それ以上のことは言わなかった。一緒に暮らしているなんて、口が裂けても言えない。
クラスのみんなとの距離が縮まるのは、直巳にとっては悪いことではないのだが、伊武にとってはどうだろうか。伊武の負担にならなければよいなと、直巳はずっと、ここにはいない伊武のことを心配していた。
伊武は教室から抜け出した後、一人で屋上に来ていた。屋上は生徒の出入りが禁止で、鍵がかかっているのだが、伊武は鍵を持っていた。一人になれる場所が欲しくて、職員室で鍵の型を取って、勝手に合い鍵を作っていたのだ。
伊武は冬の屋上に出ると、校庭から見えない位置のフェンス際に座り込んだ。ようやく一人になり、小さく溜め息をつく。
直巳は今ごろ、クラスメイトに囲まれて談笑しているころだろう。自分も、直巳と同じようなことができればいいのだが、やはり駄目だった。笑えないし、話せない。直巳にもそれがわかっているから、気を使って自分を逃がしてくれたのだし、正直、助かった。
伊武は、自分達に話しかけてきた若林のことを思い出した。良くも悪くも、特別目立つような生徒ではない。身なりにも、派手すぎない程度に気を使っており、なかなか可愛い。しかしまあ、何よりも、あの社交性だ。男女問わず人気はあるのだろう。
きっとあれが、普通の女子なんだろうなと思う。大抵の男子よりは小さく、痩せすぎても太りすぎてもいない。腕を曲げて筋肉が出ることも、可愛い服選びに困ることもない。きっと悩み事はや友達や彼氏のことで、右腕を切り落とした相手を探していることもないのだろう。
直巳も普通の学生とはまったく違う生活をしているが、それでも溶け込むことはできた。
結局、普通の生活に溶け込めないのは、伊武だけだ。見た目も性格も、伊武は普通に学生をやることには向いていない。伊武の体と心は、戦うために出来ている。
もし、若林が無理やりに直巳をさらってくれたら、どんなに楽だろうかと思う。もしも若林が悪意を持っていたのなら、彼女を敵にできるからだ。敵は戦って倒せばいい。直巳を取り返せばいい。伊武の得意な戦いで、決着をつけることができる。
だが、若林のように善意で近づいてきた相手は倒せない。特に理由もなく若林を叩きのめせば、直巳を取り返すどころか、彼の気持ちは離れてしまうだろう。
伊武にだって、それぐらいのことはわかる。わかるから、辛かった。
伊武は時計を見る。昼休みは、後10分ほどで終わってしまう。いつもなら、直巳と一緒に過ごしているはずの時間だが、今、直巳はクラスメイトと談笑し、自分は一人で屋上にいる。
「椿君……」
伊武は膝を抱えて、直巳の名前をつぶやく。
その小さな声は、屋上に吹きすさぶ風にかき消されて、自分にすら届かなかった。