第十章
「じゃあ、行ってくるから」
よそ行きの服に着替えたアイシャは毛皮を羽織り、Aが扉を開けるリムジンに、慣れた感じで乗り込んだ。これを、直巳よりも見た目が幼い少女がやって絵になっている辺りがアイシャの貫禄、というやつだろう。
直巳達に見送られて、アイシャは天木の家に向かう。
Aは黙って運転をし、アイシャも何も言わず、なんとなく窓から外を眺めている。その表情は、この外見の少女ではあり得ないほどに大人びていた。アイシャが、「普通の人間のふり」をやめるのは、Aと二人きりの車内だけだ。
車内で、二人の間に会話は一切ない。車の動作音も聞こえないし、音楽もかかっていない。そこにはただ、静寂だけがあった。Aもアイシャも、これを苦だとは思わない。何十年も一緒にいる夫婦に会話がなくなるというが、三千年もAと一緒にいるアイシャからしてみれば、数十年ぐらいで何を言っているんだという話だ。お互いの存在すら意識から消えてしまうほどの沈黙。他の人間が一人でもいれば別だ。人間らしい、コミュニケーションの可能性がある空間になる。この不思議な空気は、Aとアイシャにしかわからないものだった。
天木のマンションに到着し、車は音もなく停車する。
「到着しました」
Aは報告だけすると、車を降りて後部座席のドアを開ける。アイシャは何も言わずに、開けられたドアから降りた。
そして、インターホンを前にすると、アイシャは一つ呼吸をした。ここからは、人間としての高宮アイシャに切り替えなければならない。
「――A」
「はい」
気持ちが切り替わると、アイシャはAの名前を呼ぶ。Aがそれに答える。お互いがコミュニケーションを取り、存在を確認しあう。現実に戻ってくるためのセレモニーだ。
Aがマンションのエントランスで天木の部屋のインターホンを押すと、聞き慣れた軽薄な声がして、ドアが開いた。
エレベーターで最上階に向かい、天木の部屋の前に立つと、天木本人が待っていた。
「いらっしゃい、アイシャ」
「出迎えありがとう。遅い時間にお邪魔して、悪いわね」
アイシャが皮肉っぽく言うが、天木は、「いえいえー」と笑って流した。
天木が家のドアを開けて、アイシャとAが靴を脱いで家にあがると、天木が振り向いた。
「ところでアイシャ。実は、アイシャに紹介したい人がいるんだけど」
「紹介? 突然、どうしたの?」
「いや、アイシャの役に立つかなーと思って。僕なりの気遣いです」
「いえ、やめておくわ。知り合いは増やすより減らす方が面倒だから」
アイシャはばっさりと切り捨てるが、天木はまったくへこたれずに食らいつく。
「ま、そう言わず。貿易やってるお金持ちでね。魔術具の収集家でもあるんだ。よかったら、会うだけでも会ってみない?」
「いや、だから私は――」
アイシャが露骨に嫌そうな声を出すが、天木がそれをさえぎった。
「実はなんと! もうお呼びしております! 奥にいるから、さあどうぞ!」
天木がジェスチャー付きで家の奥にアイシャを招こうとするが、アイシャは腕を組んだまま微動だにしようとしなかった。
天木が大げさなジェスチャーのまま固まり、笑顔が引き攣り始める。
「天木」
「はい」
「正直に言いなさい。あなた、ダブルブッキングしたんでしょう」
「はい」
「帰るわ」
アイシャが再び靴を履こうとすると、天木がアイシャの足にしがみついてきた。
「待って! 待ってアイシャ! もう、紹介するって言っちゃったの!」
「はあ!? 知らないわよ!」
アイシャが空いている足で天木の顔を踏みつけるが、特に効果はなかった。
「その人もお得意様なの! すごいお金持ちなの! どっちも無下に扱いたくないっていう僕の気持ちをわかってもらえないかな! 顔合わせだけでも! 僕のメンツを立てると思って! お願いします!」
天木が足にすがりついて懇願してくるが、アイシャの目は冷たかった。天木は会釈と同じぐらいの気軽さで土下座のできる男だし、鼻水より簡単に涙を流す。こんな行動に騙されてはいけない。
「アイシャの役に立つのは本当! 色々な物持ってるし、クリエイターとも繋がりあるし、きっと役に立つから! ね? ね?」
「クリエイター?」
「そう! Hgっていうクリエイター探してるんでしょう? 何かヒントになるかも!」
アイシャは、天木にもHgを探してると伝えてある。ダブルブッキングは許せないが、アイシャの役に立つというのも嘘ではないらしい。
「……そいつ、変な勢力とくっついてないでしょうね?」
「うーん……それは大丈夫かな。クリーンだと思う」
「本当に?」
「うん――今は」
「ちょっ……」
アイシャは、天木が最後にボソっと言った言葉に突っ込もうとしたが、それより先に手を引かれた。
「さあ、アイシャ! 早く早く!」
「わかった、わかったから離して! 離せこの!」
アイシャが、天木の腕を振りほどく。どうせ会うことになるのなら、天木に引っ張られて登場、なんていう間抜けなことは避けたい。
まあ、相手が信用できなそうなら、適当に誤魔化して流せばいいだけの話だ。
「はぁ……なんなのよ、まったく」
Aがアイシャのコートを脱がし、乱れた衣服をサッと直す。
準備ができると、アイシャは一度、呼吸をして気持ちを切り替えた。今からは、外向け用の高宮アイシャだ。
アイシャが天木に案内されて応接室に入ると、そこには黒いスーツを着た男が座っていた。スーツをよく見ると、同じような黒の糸で、やたら凝った刺繍が入っている。多少派手だが、嫌味ではない。生地も作りもいい。安く見積もっても80万ぐらいか。天木が言うとおり、金を持っていそうな雰囲気はある。
男はアイシャを見ると、立ち上がって笑顔を向けた。
アイシャは、にこりと笑顔を作ると、優しい声で挨拶をした。
「はじめまして。高宮と申します」
アイシャが挨拶をすると、男も機嫌良く挨拶を返した。
「どうも! 魔術師の高田陽治です!」




