北方の騎士たち
翌朝。
アルは、いつもより早く目を覚ました。
「…………」
見慣れない天井を見上げて、しばらく瞬きをする。
柔らかな寝台。
厚いカーテン。
王都のロゼリア公爵邸とは違う、重厚な石造りの部屋。
「……そうだ」
ここは、バハード。
カイが生まれ育った場所。
昨日から、自分もこのヴァルグレン邸で暮らし始めたのだ。
そう思っただけで、胸の奥が少し弾んだ。
アルは寝台から降り、窓辺へ向かった。
カーテンを開ける。
厚い雲に覆われた空から、白く淡い朝の光が部屋へ差し込んだ。
夏だというのに、窓を少し開ければ冷たい空気が頬を撫でる。
すべてが新鮮で、なぜだかワクワクした。
アルがしばらく景色を眺めていると――
カンッ――!
「……?」
金属のぶつかる音がした。
カンッ!
もう一度。
アルは窓から身を乗り出すようにして、音のする方を見る。
屋敷の奥。
昨日、カイに案内してもらった訓練場の方角だ。
「もしかして……」
昨日の会話を思い出した。
『普段も皆様で訓練なさっているんですよね?』
『ああ。屋敷の訓練場でな』
『見てもいいですか?』
『別にいいけど』
「…………!」
アルは急いで身支度を始めた。
◇ ◇ ◇
訓練場へ近づくほど、剣の音がはっきりと聞こえてきた。
カンッ。
カンッ――!
一定の間隔で響く音。
けれど、誰かと打ち合っているようには聞こえない。
アルはそっと訓練場を覗いた。
「……あ」
そこにいたのは、一人だけだった。
ソラだ。
まだ朝も早い。
他の騎士たちの姿はない。
そんな中、ソラは一人で剣を振っていた。
「…………」
アルは声をかけるのも忘れた。
いつものソラとは、まるで雰囲気が違う。
剣を振り下ろす。
止める。
身体を返し、次の一撃へ移る。
速い。
けれど、乱暴ではない。
一つひとつの動きが驚くほど滑らかだった。
足の運び。
剣を返す手。
身体の軸。
どこを見ても、ほとんど無駄がない。
激しい訓練のはずなのに、どこか美しくさえ見えた。
何度目かの斬撃の後。
ソラがぴたりと剣を止めた。
「……いつからいた」
「えっ」
アルは肩を跳ねさせた。
ソラがこちらを見る。
「す、すみません。邪魔をしてはいけないと思って……」
「別に邪魔じゃねぇよ」
ソラは剣を下ろした。
「少し前からです」
「声かけろよ」
「とても集中していらしたので」
「…………」
アルは訓練場へ入った。
「ソラ様は、毎朝こんなに早くから訓練を?」
「まあな」
「お一人で?」
「この時間はな」
「…………」
「なんだよ」
「すごいです」
「は?」
「誰も見ていないのに、毎朝こうして訓練なさっているのでしょう?」
「別に普通だろ」
「普通ではありません」
「…………」
アルは素直に感心していた。
「ソラ様は、とても努力家なのですね」
「…………」
ソラが黙った。
「ソラ様?」
「……朝っぱらから、そういうこと言うなよ」
「え?」
「褒めなくていい」
「でも、本当にすごいと思ったので」
「分かったから」
ぷい、とソラが顔を逸らす。
その耳が、ほんの少し赤い。
アルは首を傾げた。
「暑いのですか?」
「……お前はもう喋るな」
「なぜですか?」
「いいから」
やはりソラは少し怖い。
でも。
昨日までより、ほんの少しだけ分かった気がした。
「お前ら、朝から何してんだ?」
聞き慣れた声がした。
「あっ、カイ様」
振り返る。
訓練場の入口にカイが立っていた。
その後ろから、レイ、レン、ユウトも入ってくる。
いつもはいないはずの人物を見て、レンが目を丸くした。
「アルさん?」
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
レイはいつも通り穏やかだ。
「見学か?」
ユウトが尋ねる。
「はい!」
アルは頷いた。
「昨日、カイ様に見てもいいと言っていただいたので」
「言ったけど……」
カイが眉を寄せる。
「こんなに早く来るとは思わなかった」
「楽しみで目が覚めてしまいました」
「…………」
カイが黙った。
レンが、その横顔を見る。
「カイ」
「なんだ」
「耳、赤いよ」
「そこ、わざわざ言うな」
「まだ何も言ってないけど」
「今言っただろ」
「朝から騒ぐな」
ソラが呆れたように言った。
カイがすぐに振り返る。
「お前にだけは言われたくねぇな」
「俺は騒いでねぇ」
「さっきまでアルに喋るなって言ってただろ」
「それとこれとは別だ」
そんなやり取りを見て、アルは思わず笑った。
◇ ◇ ◇
やがて、五人の訓練が始まった。
アルは訓練場の端に用意された長椅子へ座り、その様子を眺めていた。
その後ろには、目を覚ました時には主の姿がなく、屋敷中を探してきたらしいセシルが、まだ少し息を整えながら控えている。
最初は、単純に楽しみだった。
昨日、街の男性から聞いた公開模擬戦。
大勢の人が押し寄せ、正確な日時を告知することすら禁止されたという五騎士の戦い。
それを間近で見られる。
そんな気持ちだった。
けれど――。
カンッ――!!
「……っ」
空気が変わった。
さっきまで笑っていた五人の顔から、柔らかさが消えている。
剣を握った瞬間。
彼らは、騎士になった。
最初に目を奪われたのは、カイだった。
真正面から相手を受け止める。
一歩も退かない。
力任せではない。
相手の剣を受け、流し、次の瞬間にはもう踏み込んでいる。
一撃が重い。
けれど動きは速い。
何より――迷いがない。
この人の後ろなら安心できる。
そんなことを、考えるより先に感じさせる戦い方だった。
「…………」
アルは無意識に胸元へ手を置いた。
次に目を奪われたのは、レイ。
カイとはまるで違う。
レイは必要以上に動かない。
相手を見る。
一度、二度。
そして。
「そこですね」
静かな声と同時に剣が動いた。
「うわっ」
ユウトの剣が弾かれる。
「相変わらず嫌なとこ突いてくるなぁ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
涼しい顔をしている。
長い銀色の髪が動きに合わせて揺れる。
優雅なのに、強い。
レンはさらに違った。
最初のうちは相手に合わせているように見える。
けれど、少し経つと動きが変わる。
相手が次に何をするのか分かっているかのように、半歩早く動くのだ。
「レン、お前また読んだだろ」
「何のこと?」
「その顔で誤魔化すな」
「偶然だよ」
「三回連続で偶然があるか!」
笑いながら答えているのに、剣は正確だった。
そしてユウト。
速い。
大きな身体を使った豪快な剣筋。
手足が長く、踏み込む距離も長い。
けれど、決して大雑把ではない。
「兄貴!」
「来い!」
カイと剣がぶつかる。
大きな金属音が訓練場に響いた。
「……すごい」
アルの口から、思わず声が漏れる。
最後に、ソラ。
早朝、一人で繰り返していた動き。
それが、相手を前にするとまるで別物になった。
速い。
そして――綺麗だった。
剣を振る。
身体を返す。
避ける。
踏み込む。
どの動きにも無駄がない。
口調だけを知っていれば、もっと荒々しい剣を想像したかもしれない。
けれど実際は正反対だった。
静かで。
正確で。
研ぎ澄まされている。
「…………」
アルは、瞬きすることさえ忘れていた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、五人は剣を置いた。
「休憩」
カイの一言で、張り詰めていた空気が一気に緩む。
ユウトが大きく息を吐いた。
「あっちぃ……」
「夏だからな」
「ここ本当に北か? 暑いぞ」
「それだけ動きゃ暑くもなるだろ」
五人は上着を脱いだり、袖を捲ったりしながら水を飲み始める。
「…………」
アルはそこで初めて気づいた。
訓練中の彼らは、普段よりずっと薄着だ。
王都で会った時も。
昨日、街を歩いた時も。
皆、きちんとした服を着ていた。
だから、今まであまり意識したことがなかった。
けれど。
「…………」
アルの視線が、まずカイへ向く。
筋骨隆々というほどではない。
けれど胸板にはしっかりと厚みがあり、袖を捲った腕には鍛えられた筋肉がついている。
大きすぎない。
それなのに、とても頼もしく見えた。
剣を握り。
誰かを守り。
長い年月を戦ってきた身体なのだ。
――この腕に、抱き上げられたことがある。
そこまで考えて。
「……っ」
アルは慌てて視線を逸らした。
次に目に入ったのはレイだった。
長身で、しなやか。
普段は細身に見える。
けれど、彼もやはり騎士なのだ。
袖を捲った腕には、剣を扱うための筋肉が無駄なくついている。
華奢なのではない。
必要なものだけを美しく残したような身体だった。
レンも同じだった。
普段の柔らかく親しみやすい雰囲気のせいか、これまで意識したことがなかった。
けれどレンも五騎士の一人だ。
肩も腕もしっかりと鍛えられている。
笑っている時との落差が大きい。
ユウトは、さらに分かりやすかった。
肩から腕、背中にかけて、五人の中でも特にがっしりとしている。
先ほどの豪快な踏み込みも、この身体から生まれるのだろう。
そして――。
ソラ。
「…………」
アルは思わず見てしまった。
五人の中では、一見すると細身に見える。
けれど、それは華奢という意味ではなかった。
訓練で少し乱れた襟元。
捲られた袖。
そこから見える身体には、無駄なく綺麗に筋肉がついている。
太さではない。
しなやかで、研ぎ澄まされている。
あの無駄のない剣の動きは、この身体から生まれているのだろう。
アルは改めて五人を見渡した。
カイ。
レイ。
レン。
ソラ。
ユウト。
その瞬間。
昨日見た、一枚の張り紙が頭に浮かんだ。
――『五騎士共同浴場使用禁止』
そして、昨日の女性の言葉。
『問題は出てきた時よ』
『湯上がりでしょ?』
『髪も濡れてるでしょ?』
『それで五人揃って出てきたの』
「…………」
今でさえ、これなのだ。
もし。
この五人が揃って湯上がりで。
髪まで濡らして。
この姿で共同浴場から出てきたら――。
「…………納得」
「何が?」
「きゃっ!」
アルは飛び上がった。
いつの間にか、カイが目の前に立っている。
「な、なんでもありません!」
「いや、今『納得』って言っただろ」
「言ってません!」
「聞こえたぞ」
「言ってません!」
「じゃあ、その顔はなんだよ」
「どんな顔ですか!?」
「なんか妙に納得してる顔」
「そんな顔してません!」
アルはぶんぶんと首を横に振る。
言えるわけがない。
昨日まで理解できなかった禁止令の理由が、今になって非常によく分かりました、などと。
「……まあいいけど」
カイが怪訝そうに首を傾げる。
「変な奴だな」
その向こうでレンが笑っていた。
「アルさん、顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
「本当に?」
「はい!」
「……レン」
「ん?」
カイがレンを見る。
「その辺にしとけ」
「俺、心配しただけだけど?」
「笑いながら言うな」
「気のせいじゃない?」
「絶対楽しんでるだろ」
カイとレンが言い合いを始める。
その横ではユウトが水を飲み、レイは何も言わず眼鏡を押し上げている。
ソラだけがアルをちらりと見た。
「な、なんでしょう?」
「別に」
そう言って視線を逸らした。
なぜだろう。
何かを見抜かれたような気がする。
――共同浴場使用禁止。
アルはもう一度、昨日の張り紙を思い出した。
あれは。
必要な決まりだったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
休憩を終えると、五人は再び剣を取った。
今度は二人ずつ組んで模擬戦を始める。
アルは先ほど以上に夢中になって見ていた。
剣がぶつかるたび、鋭い音が響く。
踏み込む足。
翻るシャツ。
飛び散る汗。
昨日、街の男性が言っていた。
『剣が当たるたびに騒ぐんだぞ』
「…………」
その気持ち。
少し分かるかもしれない。
もちろん、声には出さなかった。
やがて訓練が終わった。
アルが立ち上がる。
五人がこちらへ歩いてくる。
「どうだった?」
カイが尋ねた。
アルは興奮冷めやらぬ様子で答える。
「格好よかったです。皆様、本当にお強いのですね」
「まあな」
ユウトが嬉しそうに笑う。
「でしょう?」
レンも笑った。
「普段の私たちを見ていると、そうは見えませんか?」
レイが尋ねる。
どこか面白そうだ。
「そ、そんなことはありません!」
「昨日は禁止令の説明ばかり聞かされましたからね」
「それは……」
「レイ、蒸し返すなよ」
カイが眉間に皺を寄せた。
「事実でしょう」
「そういう話じゃねぇだろ」
アルは思わず笑った。
「でも、本当に皆様、格好よかったです」
「…………」
カイが少し黙った。
レンがすぐに気づく。
「カイ」
「今度はなんだよ」
「残念そうだね」
「そんなことねぇよ」
「そう?」
レンがにやにやしている。
カイは露骨に嫌そうな顔をした。
「その顔やめろって」
アルは二人を見比べた。
そして、ふと思う。
確かに。
五人とも格好よかった。
レイの剣は美しかった。
レンの動きには驚かされた。
ソラからは目が離せない瞬間が何度もあった。
ユウトの剣は迫力があった。
でも――。
アルはカイを見る。
広い背中。
迷いのない踏み込み。
真正面から相手を受け止める姿。
誰よりも強く。
誰よりも頼もしく見えた。
「でも」
アルは微笑んだ。
「私、カイ様から一番目が離せませんでした」
カイが止まった。
「カイ様?」
「…………」
「どうかなさいました?」
「……いや」
カイが顔を逸らす。
「そういうこと、急に言うな」
「え?」
「……なんでもねぇ」
耳が赤い。
「兄貴、顔赤くないか?」
ユウトが言った。
「……言わなくていい」
「やっぱ赤いんじゃねぇか」
「また赤いね」
レンも笑う。
カイが二人を見る。
「お前ら、もういいだろ」
「アル」
レイが静かに呼んだ。
「はい?」
「おそらく、もう少し言葉を選んで差し上げた方がよろしいかと」
「え?」
「レイ、お前まで余計なこと教えるな」
「事実を申し上げただけですが」
「何の話ですか?」
カイは一瞬黙ってから、アルを見る。
「……アルは気にしなくていい」
「?」
アルには、よく分からなかった。
ただ。
昨日より今日。
今日より明日。
この場所のことを。
この五人のことを。
そして――カイのことを。
もっと知りたい。
そう思った。
北方でのアルの新しい生活は。
まだ、始まったばかりだった。




