第23話 小石川・関口製造所 - 空っぽの占領
慶応四年(一八六八年)四月二十五日、早朝。
四月十一日の江戸城無血開城から半月。新政府軍の本隊が江戸市中へ本格的な展開を終え、大総督府が江戸の治安維持と旧幕府資産の接収へと本腰を入れ始めた頃である。
長州藩の若き軍監、山縣有朋は、一個大隊の兵を率いて、江戸の北西・小石川へと向かう泥道を歩いていた。
山縣の顔には、大軍を率いて帝都を制圧したという奢りや高ぶりは微塵もなかった。
彼は現実主義者であり、軍人としての冷徹な武断的側面を持つ一方で、その本質は生真面目で几帳面、そして愚直なほど慎重な男であった。
「おい、前方の林に斥候を出せ。伏兵がいるやもしれん。長屋の陰や、橋の下もだ。一歩たりとも警戒を怠るな」
山縣は、泥に足を取られながらも、部下たちに細かな指示を飛ばし続けた。
彼らが目指しているのは、幕府軍の近代化を支えた東洋最大の兵器工廠群である小石川の関口製造所と大砲製造所、王子と板橋の火薬弾薬廠である。
北越の長岡藩や、東北の要衝である會津藩など、新政府に恭順の意を示さない奥羽越の諸藩との武力衝突は、もはや避けられない情勢となっていた。
その中で、新政府にとって、関口製造所の無傷での接収は、今後の戦局を左右する重要な鍵であった。前時代的なゲベール銃や青銅の前装砲ばかりを抱える新政府軍を、最新鋭の兵器を装備した近代軍へと作り変えるためには、どうしてもこの「魔法の工場」が必要だったのである。
「……山縣軍監。妙ですな。人の気配が、全くありません」
先頭を進んでいた斥候の小隊長が、怪訝そうな顔で戻ってきた。
山縣は馬から降り、自らの足で関口製造所の周囲に広がる広大な長屋街へと足を踏み入れた。
かつて、小銃と大砲の二つの大工場の工員とその家族、合わせて約二万人が生活の息吹を交わしていたはずの職人街は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
路地には、急いで立ち去ったのか、割れた茶碗や子供が遊んでいた竹馬が転がっているが、家々の戸は固く閉ざされ、かまどから煙一つ上がっていない。
「……逃げたか」
山縣は、主を失った長屋の軒先を撫でながら、低く呟いた。
いなくなった住民を思って、彼の中にある優しさが、ふと胸の奥で痛んだ。
「万もの人間が、住み慣れた家を捨ててどこへ行ったというのだ。我々は民を虐げるために来たのではないというのに……。皆、新しい御代を恐れて散り散りになったのか」
山縣は、無用な略奪や乱暴を働くことのないよう、兵士たちに厳命を敷いていた。民の安寧を守ることこそが、新しい政府の軍隊のあるべき姿だと信じていたからだ。
しかし、目の前の現実は、彼らの善意をあざ笑うかのような、完全なる空虚であった。
「軍監! 工場の正門に到着しました! 門扉は閉ざされておりますが、抵抗する兵の姿はありません!」
伝令の声に、山縣は思考を切り替えた。
「よし。罠や爆薬が仕掛けられている可能性がある。慎重に門を開けよ。中へ入るぞ」
山縣の慎重な指揮のもと、新政府軍の兵士たちは、重厚な関口製造所の正門をゆっくりと押し開いた。
関口の製造棟の巨大なレンガ造りの建屋へと雪崩れ込んだ山縣たちの目に飛び込んできたのは、窓から差し込む朝日に照らされた、壮観たる工作機械の列であった。
天井を見上げるほど巨大な異形の木工旋盤群。鋼鉄の塊に穴を穿つための、重厚なボール盤。そして、銃身の命とも言える螺旋の溝を刻むためのライフルリング・マシン。
それらの機械は、どれもが一基あたり一トンから二トンはあろうかという分厚い鋳鉄製の台座を持ち、工場の土間に黒々と、そして堂々と鎮座していた。
「……素晴らしい」
山縣の口から、感嘆の吐息が漏れた。
長州藩の片田舎で刀と槍の稽古に明け暮れていた彼にとって、これほど巨大でシステマチックな近代工業の威容は、想像を絶する光景であった。
「さすがは二百六十年続いた徳川の遺産じゃ。これほどの道具が無傷で残っていれば、北越や會津の賊どもを掃討する最新の銃など、いくらでも造り出せるぞ! これでわが軍の近代化は成ったも同然だ!」
山縣の顔が、期待と興奮で紅潮する。彼に従う兵士たちも、巨大な鉄の塊に恐れおののきながらも、勝利を確信したような歓声を上げた。
だが、部隊に随行していた兵器係の技術将校、黒田大尉だけは、機械の列の間を歩き進めるにつれて、その顔色を次第に土色へと変えていった。
「……山縣軍監。……いけません。これは、いけません」
黒田大尉の震える声に、山縣は生真面目な眉をひそめて振り返った。
「何がいかんというのだ、黒田大尉。機械は目の前にあるではないか。火でも放たれておれば一大事であったが、外壁も土台も無傷であるぞ」
「いえ、軍監。機械の核がありません。魂が……完全に抜かれているのです」
黒田大尉は、近くにあった巨大なブランチャード・コピー旋盤の台座にすがりつくようにして、空っぽの刃物台を指差した。
「……ご覧ください。木や鉄を削るための、最高級の鋼でできた刃が、ただの一本も残っていません。それに、ここを……」
黒田は狂ったように工場の奥へと走り、次々と機械を調べて絶叫した。
「天井を見てください! 蒸気機関から機械へ動力を伝えるための、分厚い牛革の伝動ベルトが、一本残らず刃物で切断され、持ち去られています! 動力を受ける滑車すら持ち去られています!」
山縣は、黒田の指差す天井を見上げた。
なるほど、高い天井の梁には、動力を分配するための長い鉄のシャフトそのものが抜き取られ、切断された革ベルトの残骸だけが、春の隙間風に揺れてパタパタと虚しく音を立てている。
「さらに、機械の心臓部を見てください!」
黒田大尉は、ライフルリング・マシンの台座の奥に頭を突っ込み、半狂乱になって叫んだ。
「軸を回すための大切な軸受や、刃物を精密に動かすための送りネジ(リード・スクリュー)までもが、根こそぎ抜き取られている!
軍監、これでは、どれだけボイラーに石炭を焚べようが、機械は一寸たりとも動きません! ただの重たい鉄の塊です!」
「何だと!?」
山縣は、黒田の絶叫にようやく事の重大さを理解し始めた。だが、彼は激情に駆られて怒鳴り散らすようなことはせず、事態を正確に把握しようと努めた。
「落ち着け、黒田。ベルトが切られ、ネジが抜かれているのは分かった。だが、土台となるこの巨大な機械そのものは残っているのだ。我々が抱える鍛冶屋や大工を総動員して、抜かれたネジや刃物の代わりをすぐに造らせれば、再び動かすことができるのではないか?」
山縣の極めて現実的で全うに思える問いに対し、黒田は油と泥にまみれた工場の床に崩れ落ち、力なく首を振った。
「不可能です、軍監。……軍監はアメリカン・システムという言葉をご存知ですか?」
「メリケン・システム? 互換性部品というやつか」
「はい。この工場は、職人の勘や手作業を排除し、すべての部品を全く同じ寸法で機械に大量に削り出させます。そして、その部品を組み立てるだけで、大量の銃を迅速に作り出すのです。
そのために必要なのが、部品を削るための刃であり、刃物を決まった位置に固定するための治具であり、そして何より……寸法の絶対的な基準となる物差し(マスターゲージ)なのです」
黒田は、自らの髪をかきむしりながら説明を続けた。
「賊軍の連中は、機械の基幹部品のみならず、その数万個に及ぶマスターゲージと治具を、一つ残らず持ち去ったのです。
それらがなければ、我々は”どのくらいの大きさに削ればいいのか”という正解すら知ることができません。ただ目隠しをして鉄を削れと言うに等しい。
仮に薩摩や長州の野鍛冶が新しいネジを打ったとしても、毛筋ほどの精度が狂えば、この巨大な機械は使い物にならないのです」
山縣は、呆然として巨大な機械を見上げた。
目の前にある数十トンの分厚い鋳鉄の塊は、もはや兵器を生み出す「母胎」ではなかった。
精度を奪われ、動力を断たれ、刃を失い、そして正解の基準を失った、ただの重たくて場所を食うだけの鉄の死骸であった。
徳川の技術官僚たちは、物理的に運び出せない重い台座を捨て、この工場が近代工場としてならしめる重要部品と、大量生産の仕組み自体を、腕の良い外科医の手術のような手際で完璧に抽出していったのだ。
「軍監! 先遣隊の斥候から伝令です!」
背後から、泥まみれになった兵士と技術将校が血相を変えて駆け込んできた。
「近隣の大砲製造所、向島のアームストロング工廠、少し北にある、王子の火薬製造所、および板橋の弾薬製造所を調べてまいりました! ……すべて、ここ関口と同様です!」
「何だと……!」
「大砲製造所は一見、無傷に見えましたが、ここと同じです。肝心なものがすべて抜き取られています。板橋の真鍮をプレスする機械群は、ドンガラ(台座)だけが残され、肝心の金型やカッターヘッドがすべて抜き取られておりました! 王子の火薬所に至っては、機械が分解されているだけでなく、ご丁寧に水で徹底的に洗い清められており、火薬の粉一つ、匂いすら残っておりません! 職人の姿は一人もおらず、周辺の長屋も空っぽでした!」
報告を聞いた山縣は、もはや怒りを通り越し、身震いするほどの戦慄を覚えた。
「おのれ。彼奴らは、国の武器弾薬を創り出すこと自体を、丸ごと持ち去ったというのか」
山縣の絞り出すような呟きが、高い天井に虚しく反響した。
関口の小銃工場
小石川と向島の砲兵工廠
板橋の弾薬生産拠点
王子の火薬精製所。
これら数百トンに及ぶ巨大な製造施設群の根幹と、数万人規模の人間たちを、自分たちが江戸に到着するまでのわずかな期間に、完全に跡形もなく消し去ってのけたというのか。
(これほどの撤収作戦を、誰にも悟られず、一糸乱れぬ統率でやり遂げたというのか。徳川には、これほどまで恐ろしい作戦を立て、指揮できる化け物がいたというのか!)
その時、山縣の目に、工場の中心にある組長用と思しき立派な作業台の上に、文鎮に押さえられた一枚の和紙がぽつんと置かれているのが留まった。
山縣は、静かに歩み寄り、その紙を手に取った。
そこには、達筆な墨書きで、次のように記されていた。
『此の所の諸機械、敢えて棄て去るに非ず。新しき国を興す貴殿らの手助けとならんことを。願わくば、其の器を以て万民の安寧を築かれよ。我らも亦、異国の地にて誠を尽くさん。』
(この場所にある数々の機械は、あえて壊して捨てていくものではありません。新しい国を造ろうとするあなた方の助けになることを願っています。どうか、これらの道具を用いて、すべての民が安らかに暮らせる世を築いてください。私たちもまた、新天地にて精一杯の務めを果たします。)
山縣は、その文面をじっと凝視した。
彼の中にあった、武人としての怒りや焦燥感が、ふっと凪のように静まった。
そこにあるのは、敗者の僻みでも、逃亡者の揶揄でも、単なる破壊工作の言い訳でもなかった。あるのは、圧倒的な余裕と、技術者としての冷徹なまでの矜持である。
自分たちが作り上げたシステムと、自分たちが組み上げた精度のすべてを持ち出したからこそ言える、残酷なまでの励まし。
「ドンガラは置いていくから、せいぜい頑張って直して新しい国を創ってみせろ」という、果てしなく高く、そして険しい挑戦状であった。
(……見事だ)
山縣は、その性格ゆえに、敵のこの完璧な手際に心底からの敬意を抱かざるを得なかった。同時に、彼の中の人として正しい人間性が、この手紙の行間に込められた「万民の安寧を築かれよ」という言葉に、深く共鳴していた。
彼らは国を追われた。だが、国を恨んではいないのだ。ただ、自分たちの技術と信念を貫くために、海を渡るという道を選んだ。
「軍監……いかがなさいますか」
絶望に打ちひしがれる黒田大尉が、震える声で尋ねた。
「接収の報告書を書け。江戸城に置かれた大総督府へ、至急知らせるのだ」
山縣は、極めて冷静な声で、現実的な指示を下した。
「『小石川、板橋、王子の諸工場、建屋は無傷なれど、機械の臓腑および基準器、一切持ち去られ稼働不能。新政府軍の兵器自給化は、当面不可能なり』……とな」
「軍監! それでは、これから始まるであろう奥羽越の戦はどうするのです! 我々は旧式のゲベール銃で、最新鋭の武器を持つ敵と戦わねばならないのですよ!」
「分かっておる。故に、異人の商人どもから莫大な借金をしてでも、完成品の銃と弾薬を法外な値で買い漁るしかあるまい。悔しいが、今の我々には、この鉄の骸に再び命を吹き込むための術がないのだ」
山縣は、黒く沈黙した巨大なコピー旋盤の冷たい肌を撫でながら、苦渋に満ちた息を吐いた。
「二年前だ。あの類まれなる軍略と技術の天才、大村益次郎先生が、我々長州を見限って南山へと亡命されたのは……。もしあの御方が我々の陣営に残っておられれば、この絶望的なドンガラからでも、再起の道筋を描けたやもしれん。だが、先生はもうおらんのだ」
黒田大尉も、ハッと息を呑んだ。
新政府軍における最大の頭脳の不在。それが今、この空っぽの工場において、取り返しのつかない致命的な痛手となって彼らにのしかかっている。
「大村先生をはじめとする最高の頭脳たちと、この帝都から剥ぎ取られた列強と伍せる資産……。それらが、南の海で一つに結びつく。
彼奴らは我々の手の届かぬあの南の果てで、とてつもない怪物を創り上げようとしているのか」
自分たちは、今日から数年かけても、彼らが軽々と持ち去った技術と文明の基礎を、莫大な血と金を流しながら一から取り戻さねばならないのだ。
彼は空っぽになった製造棟の広大な土間を、幾分かの寂寥を込めて見渡した。
切断された分厚い牛革の伝動ベルトが、相変わらず風に揺れてパタパタと虚しい音を立てている。彼らが手に入れた江戸は、豪華なレンガの装飾が施された、巨大で壮麗な抜け殻であった。
山縣は、その手紙をまるで大切な軍機密を扱うように、幾重にも丁寧に折り畳み、自らの軍服の懐へと深く仕舞い込んで、青空を見上げた。
その眼差しは、これから始まる泥沼の内戦への悲壮な覚悟と、海の向こうへ消えた未知の技術者たち、そして、かつての師であり同志であった大村への、深い畏敬の念に満ちていた。
その頃。横浜の埠頭では、二万五千人の武器弾薬職人とその家族たちが、自分たちの暮らしと流儀を背負って輸送船へと乗り込んでいた。
南十字星の輝く海へ。
鋼鉄の引越しは、ここに一つの節目を迎えた。だが、それは終わりではない。
二つの日本が、それぞれ異なる運命を刻み始める、歪な始まりであった。
第四部 第23話 完
最後までお付き合いいただき感謝します。
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渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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シリーズの短編もアップしました。
「異聞 五稜郭」
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「南山共和国建国史シリーズ」
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