第18話 向島精密工房群 - 漆のトロイの木馬(下)
本日は4話一挙投稿。
「第15話 川崎 多摩川河口 - 光を運ぶ鋼鉄の大蛇」
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四月二十三日。午前。
向島を出発した一行は、隅田川沿いの土手を南下し、千住大橋へと向かっていた。
春の乾いた風が土埃を舞い上げ、容赦なく彼らの顔に吹き付ける。普段であれば、微小な塵一つすら憎悪し、工房の窓を油紙で目張りして暮らしている彼らにとって、この外界の空気は地獄そのものであった。
薄汚れた半纏を羽織り、うだつの上がらない町人の丁稚に変装した源四郎と太助は、手ぬぐいで鼻から下を固く覆い、前を行く六郎の荷車に必死に食らいついていた。
彼らの背後には、同じように変装した工房の職人たちが引く荷車が、さらに四台も連なっている。総勢二十名近い職人たちによる、合計五台の大所帯であった。
なぜ、これほどまでに荷車の数が増え、人目につくような行列になってしまったのか。それは出発の前日に工房の裏口で起きた大騒動に端を発していた。
そもそも、南山側が描いていた当初の脱出計画は、極めて身軽なものであった。運び出すのは、どうしても替えの効かない最低限の工具類と、技術者という人間そのものだけ。大型の機材や製作途中の品はすべて江戸に放棄し、速やかに海を渡るはずだったのである。
しかし、ここでも、”己の作り出す精度というものに魂を食い破られた職人たちにとって、その命令は承服しがたいもの”と、またどこかで聞いたような駄々を捏ねる連中が存在していた。
「俺の作った経緯儀を置いていけだと? 莫迦を言うな! これほどの精度で土地を測れる真鍮の目盛りは、日本中を探しても俺にしか刻めねえんだぞ!」
「この星見筒の微動歯車もだ! 一寸の狂いもなく星を追えるこの歯車を捨てるくらいなら、俺はこの工房と一緒に焼け死んだ方がマシだ!」
測量儀職人の田島友之進や、望遠鏡職人の伝次をはじめとする職人たちが、絶対に己の最高傑作を持っていかなければ一歩も動かないと、強硬に我が儘を言い出したのである。
こいつらが職人特有の偏執的な意地を張らなければ、工房の移転作業は昨日のうちに終わっていたはずだった。
そして昨日、六郎が運び込んできた特製の漆樽の数を見て、彼らの不満はついに爆発した。
「おい塗り師! 話が違わねえか! 直径一尺五寸、深さ二尺の樽がたった四つだと? このでかい真鍮の鏡筒や経緯儀はどうやって運ぶんだ!」
田島が顔を真っ赤にして、六郎の胸ぐらに掴みかからんばかりに詰め寄った。
源四郎の原器の透鏡と、太助の航海用時計を三つを厳重に収めた時点で、六郎の持参した漆の樽はすでに満杯となっていたのだ。
「そったらこと言われても、おらも困るべ」
六郎は手を振って後ずさりした。
「南山の旦那から頼まれたのは、透鏡と時計だけだべした。そんな図体のデケエ金物まで運ぶなんて、聞いてねえべ。樽はもう一個もねえべよ」
「ふざけんな! おい時計屋、てめえの時計だけ特別扱いで分厚い漆の樽とは、いいご身分だな!」
矛先を向けられた太助は、鼻で笑って冷たく言い放った。
「俺の時計が一日に一秒狂えば、船は赤道で座礁して何千人もの命が沈むんだ。おめえの経緯儀は地面の上で星を見るだけだろうが。文句があるなら、裸のまま木箱にでも突っ込んで運べばいい」
田島が頭を抱えて叫んだ。
「莫迦を言え! ただの木箱におが屑を詰めた程度じゃあ、馬車の揺れですぐに隙間ができる! 石畳の振動をもろに喰らえば、微動ネジの山が百分の一寸でも歪むんだ。そうなればもう、ただの真鍮のゴミだぞ!」
「じゃあどうするんだ! 官軍の足音はすぐそこまで来てるんだぞ!」
タイムリミットが迫る中、彼らは極限のパニックに陥っていた。
衝撃から精密機器を守るには、振動を吸収する緩衝材が不可欠である。しかし、おが屑や藁では、長時間の運搬によって必ず偏りが生じ、真鍮の重みで底付きしてしまう。かといって、新たに六郎の漆樽のような複雑な宙吊りの仕掛けを作っている時間など、一秒たりとも残されてはいなかった。
絶望的な沈黙が工房を包み込んだその時、源四郎がふと顔を上げた。
彼の視線の先には、レンズ研磨に用いるために鍋で煮溶かされていた松脂があった。熱を加えると液体になり、冷えると弾力のある半固体へと変わる、独特の粘りを持った物質である。
「待て。力を逃がすには、硬いものじゃ駄目だ」
源四郎は独り言のように呟き、目を細めた。
「おが屑や真綿のような、形のあるもので衝撃を防ごうとするから、偏りが生まれて壊れるんだ。水のように力を四方へ散らし、かつ、元の形を保とうとするもの……」
「弾力があって、波打たないものか……」
太助もハッとして源四郎を見た。
「そうだ! 半固体の流体だ! 外部からの衝撃を吸収し、元の形に戻るもの……寒天を使うんだ!」
源四郎の叫びに、職人たちは一瞬ぽかんとした。
「寒天だと? あの心太や羊羹に使う、食い物の寒天か?」
「そうだ! 向島には和菓子屋が多い。近所の乾物屋にも、天草を煮て干した棒寒天や粉葛が山のようにあるはずだ。あれを限界まで濃く煮溶かせば、強烈な弾力を持った煮こごりができる。その中に部品を沈めて固めちまえば、どんな振動もゼリーが波打って殺してくれるはずだ!」
「莫迦言え! 寒天は水だぞ! 真鍮を水漬けにすりゃあ、品川に着くまでに真っ赤に錆びちまう!」
田島が反論するが、源四郎の目はすでに狂気じみた技術者の光を帯びていた。
「だから、油紙で幾重にも包んで、上から蜜蝋や松脂を分厚く塗りたくって、完全防水の繭を作るんだ! その繭ごと、寒天の海に沈めるんだよ!」
その言葉に、太助がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……なるほど。流体の持つ応力分散と、固体の持つ固定力を兼ね備えた、究極の『揺れ殺し』って寸法か。悪くねえ」
「面白え! やってやろうじゃねえか!」
方針が決まった瞬間からの、彼らの行動速度は凄まじかった。
若手の職人たちが財布を握りしめ、向島中の和菓子屋や乾物屋へ走り、ありったけの棒寒天と葛粉を根こそぎ買い占めてきた。
工房の裏庭では、急遽いくつもの大鍋に火が焚かれ、大量の寒天がぐつぐつと煮溶かされていく。春の風に乗って、天草の微かな磯の香りと、和菓子屋から奪い取ってきた砂糖の甘い匂いが、異様に立ち込めていた。
砂糖は夜食用の寒天のカラメル掛け用だそうだ。
その傍らで、田島や伝次たちは、己の命よりも大切な経緯儀や赤道儀の鏡筒を、震える手で油紙に包んでいた。
「絶対に隙間を作るな! 針の穴ほどの水漏れが命取りになるぞ!」
彼らは、溶かした熱い蜜蝋と松脂の混合液に油紙の束を何度もくぐらせ、分厚く強靭な蝋の被膜を形成していく。完成したのは、中身が何であるか全く分からない、巨大で歪な黄色いカプセルであった。
「六郎! 近所の醤油屋から、空の四斗樽を四つ買い取ってこい! 大至急だ!」
「わ、分かったべ! おめだち、本当に頭のネジが飛んでんべ……」
六郎は呆れ果てながらも、言われた通りに巨大な杉の桶を転がして戻ってきた。
職人たちはその巨大な桶の底と側面に、何本もの太い凧糸を張り巡らせ、蜜蝋のカプセルを桶の「中空」に浮かせるようにして網の目でがっちりと縛り付けた。
「よし! 寒天液を流し込め!」
源四郎の号令で、大鍋から熱い琥珀色の液体が滝のように桶の中へ注ぎ込まれていく。蜜蝋のカプセルは、熱い寒天の海の中に完全に水没した。
「井戸水をかけろ! 早く冷まして固めるんだ! 官軍が来るぞ!」
彼らは桶の周囲に濡れ筵を巻き、冷たい井戸水を絶え間なく浴びせ続けた。
翌日。早朝。
桶の中を覗き込んだ職人たちは、感嘆の声を上げた。
そこには、琥珀色に透き通る、巨大で強靭な寒天の塊が出来上がっていたのである。
真鍮の鏡筒や測量儀を包んだ蜜蝋の繭は、プルプルとした寒天の中心に、まるで琥珀に閉じ込められた太古の昆虫のように、微動だにせず完全に固定されていた。
伝次が恐る恐る桶の横っ腹を足で蹴り飛ばした。
桶は大きく揺れたが、中の寒天が「ぷるん」と波打って衝撃を吸収し、中心の繭には微小な振動すら伝わっていないことが見て取れた。剛体による固定ではなく、弾力のある半固体による力の分散。それはまさに、精密ギークたちの執念が生み出した、究極の衝撃吸収システムであった。
「見ろ! これぞ究極の『揺れ殺し』だ!」
田島が涙ぐみながら叫んだ。
「お前たち、最高だぜ! これで俺たちの歯車も、無傷で南山へ渡れる!」
「喜んでる暇はねえべ! その上さ目隠しの味噌や酒粕さ詰めて、さっさと荷車に乗せっせ!」
六郎の怒声で我に返った彼らは、寒天の上に板を敷き、ダミーの味噌をたっぷりと詰め込んで蓋をした。
こうして、本来であれば四つの樽で身軽に逃げるはずだった一行は、巨大な寒天入りの四斗樽を載せた四台の荷車を追加し、計五台という人目につく大所帯となってしまったのである。
そして現在。
急造された「寒天揺れ殺し桶」を積んだ荷車が、千住大橋へ向かう土手を、ガラガラと音を立てて進んでいる。
荷車の木輪が土手の小石に乗り上げ、車体が小さく跳ねた。
その瞬間、荷車を押していた職人全員の肩がビクッと跳ね上がり、顔面から血の気が引いた。
「おい、六郎! もっとゆっくり引け! 今、石を噛んだぞ!」
太助が血走った目で六郎の背中を睨みつけ、押し殺した声で怒鳴った。
「トランシットの水準器が割れたらどうするんだ! 赤道儀のウォームギアに歪みが出たら、星一つ追えなくなるんだぞ!」
伝次も涙目で訴える。
彼らの頭の中では、樽の中で精密な真鍮の歯車がズレ、磨き抜かれたレンズが僅かに擦れ合う最悪の想像が、無限にリフレインしていた。斬られる恐怖など微塵もない。ただひたすらに物理的な衝撃と光軸の狂いに対する病的なまでの拘りであった。
「心配ねえべ。あんだけガチガチに真綿と豚の毛を詰めただ、こなぐれえの揺れは全部吸い取ってくれんべ」
六郎は前を向いたまま、余裕の笑みで答えた。
だが、光学と機械の狂信者たちにとって、その言葉は何の慰めにもならなかった。彼らにとって外の世界は、精度を破壊するための悪意に満ちた暴力そのものに感じられていた。
やがて、前方に千住大橋の南側が見えてきた。
街道を塞ぐように粗末な柵が設けられ、真新しい「錦の御旗」と、長州藩の毛利家の紋が入った旗が風に翻っている。新政府軍の検問所であった。
「野蛮人どもめ」
源四郎は手ぬぐい越しに小さく毒づいた。
検問所を固めているのは、小綺麗な身なりの江戸の役人ではなく、泥臭い軍装に身を包んだ長州や薩摩の兵士たちであった。彼らは新しい権力を笠に着て、行き交う江戸の商人や町人たちを顎で使い、荷車を片っ端からひっくり返しては、乱暴に中身を漁っていた。旧幕府の残党が武器や黄金を隠し持っていないか、血眼になっているのだ。
兵士の一人が、商人が運んでいた反物の入った葛籠を蹴り飛ばし、中身を土の上にぶちまけて大笑いしている。江戸の洗練された文化や商売の機微など欠片も理解できない、ただの暴力と権力欲に酔いしれる尊大な田舎の馬鹿者たち。それが、向島の住人たちから見た新政府軍の姿であった。
「おい、そこの大所帯! 止まれ!」
ひときわ横柄な態度で顎をしゃくった毛の薄い長州の兵士が、六郎の引く先頭の荷車を槍の柄で叩いて止めた。
ガンッ! という無骨な音が樽に響く。
その瞬間、太助は心臓が止まるかと思った。「ああ、テンプのヒゲゼンマイが!」と叫び出しそうになるのを、己の舌を噛んで必死に堪えた。
「なんじゃこの数は。大名行列のつもりか、ええ? 薄汚い車引きどもが、何をぞろぞろと運んどるんじゃ」
長州兵は、六郎を見下し、鼻で笑いながら言った。
「へえ、お役人様」
六郎は即座に腰を低くし、顔の筋肉を緩めて純朴な田舎商人の笑みを浮かべた。
「こいつは品川の宿から横浜の異人館へ下ろす、特上の酒と味噌なんだべ」
「異人館じゃと?」
長州兵は不機嫌そうに眉をひそめた。尊王攘夷を叫んで育ってきた彼らにとって、異人という言葉は未だに気に食わないものだった。
「夷狄にへつらう江戸の町人どもめ、腹立たしいわ。じゃが、それにしても数が多すぎるじゃろうが。こんなに大量の味噌と酒、異人が何に使うんじゃ」
「それがですね、お役人様」
六郎はもみ手をして、にじり寄った。
「異人衆は長え航海に出るもんで、どっさり買い込んでくれる上客なんだべ。向こうの海じゃあ手さ入らねえがらって、この数でも足んねえって、しゃべってくるくらいで。おれらも商売なもんで、これを届けねえと店が干上がっちまうんだべ」
六郎の言い訳は、品川沖に停泊する大型船(彼らが乗るはずの南山物産の船)の存在を逆手に取った、完璧な作り話であった。長期航海前の食料の大量買い付け。五台の荷車に積まれた大量の樽を、不自然なく横浜方面へ運ぶための見事な口実だった。
「ふん、小賢しい言い訳じゃ」
長州兵は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「江戸の商人なんぞ信用できんけえのう。底に鉄砲や黄金を隠しておらんじゃろうな。どれ、わしが直々に改めてやるわ。そこを開けい!」
長州兵が槍の石突きで、二台目の荷車に乗っていた味噌樽の蓋をガツンと叩いた。
源四郎の顔面が蒼白になる。その樽の下には、彼の命よりも大事なアクロマートのマスターレンズが眠っているのだ。
「へへえ、どうぞご覧くださんしょ」
六郎は慌てふためく素振りも見せず、手早く樽の箍を外し、蓋を開けてみせた。
途端に、強烈な発酵臭が検問所に漂った。樽の一番上の層には、カモフラージュとして本物の強烈に塩辛い田舎味噌が、たっぷりと敷き詰められていたのである。
「ほう……確かに味噌のようじゃな。じゃが、この底に何があるか分からんぞ」
長州兵は意地悪く笑うと、持っていた槍を逆さに持ち直し、泥のついた鋭い石突きを、味噌の表面へと勢いよく振り下ろそうとした。
その瞬間、源四郎と太助の思考が真っ白に染まった。
漆の二重底と真綿の層があるとはいえ、上から槍で強かに突かれれば、その衝撃は確実に内部の木箱へと伝播する。光軸が狂う。歯車が歪む。数年間の血を吐くような努力が、この田舎侍の気まぐれな暴力によって、ただの真鍮とガラスのゴミと化す。
「あっ、お役人様ァッ!!」
間一髪。
六郎が、大げさな悲鳴を上げて槍の柄にすがりついた。槍の石突きは、味噌の表面から数センチのところでピタリと止まった。
数ミリ下には、漆黒の極厚の被膜が控えているのだが、長州兵には知る由もない。
「何をするか、無礼者! 刺し殺されたいか!」
長州兵が怒鳴り、周囲の兵士たちが一斉に殺気立った。
「お、恐れ入りやす、だどもお役人様!」
六郎は土下座せんばかりの勢いで、必死の形相を作って長州兵を見上げた。
「そいつは三年寝かせた特上の赤味噌だべ! お役人様の立派な槍の先とはいえ、鉄なんか突っ込まれちゃ、鉄の臭いが移って売り物にならねえべした! 異人衆は臭いにうるせえんで、あっしらが大目玉を食らっちまうんだべ!」
「ええい、やかましい! 中身を改めるのがわしらの役目じゃ!」
「なら、疑うなら舐めてみてくなんしょ!」
六郎は、自らの指を樽に突っ込み、べっとりとついた赤味噌を長州兵の目の前に突き出した。
「毒も金塊も入ってねえから! 正真正銘、ただの味噌だべした! ほれ、舐めてみてくなんしょ!」
六郎のあまりの剣幕と、鼻先に突き出された強烈な匂いに、長州兵は顔をしかめて後ずさった。
「ええい、汚らわしい! やめい!」
長州兵は忌々しそうに槍を引くと、自らの指先で少しだけ味噌を掬い取り、恐る恐る舌に乗せた。
「……ぺっ!!」
次の瞬間、長州兵は激しく地面に唾を吐き捨てた。
「なんじゃこりゃ! ただただ塩辛いだけの、下賤な泥のような味じゃ! 江戸の町人どもは、こんな豚の餌みたいなものを食うとるんか!」
「へへ、あっしらみたいな下っ端には、これでもご馳走なんでごぜえやす」
六郎は平身低頭して作り笑いを浮かべた。
「もうええ、もうええ! 口の中が曲がりそうじゃ。さっさと行け、目障りじゃ!」
長州兵は何度も口を拭いながら、鬱陶しそうにシッシッと手を振って一行を追い払った。他の四台の荷車を改める気すら失せたようだった。
「へへえ、ありがてえごぜえやす! さあ野郎ども、急ぐべ!」
六郎の掛け声に合わせ、源四郎や太助たちは深く頭を下げながら、逃げるように荷車を引き出した。
検問所を通り過ぎ、兵士たちの姿が完全に見えなくなった土手の裏手で、源四郎と太助は同時に膝から崩れ落ちそうになった。冷や汗が全身をびっしょりと濡らし、手ぬぐいの下の口元は震えていた。
「寿命が、十年は縮んだぜ」
太助が荒い息を吐きながら、荷車の車輪に寄りかかった。
「あいつ、本気で槍を突き立てようとしやがった。あの田舎侍の石突きが当たるくらいなら、俺が身代わりになって刺された方がマシだった」
「全くだ。俺のレンズが割れる幻覚が見えたぞ……」
源四郎も、地面にへたり込んだまま天を仰いだ。
そんな青息吐息の精密ギークたちを見下ろし、六郎はニカッと白い歯を見せて笑った。
「だがら言ったべ? おらの漆樽なら、絶対になんともねえって。芋侍の槍なんぞ、三層の堅地に傷一つつけらんによ」
新政府軍の兵士たちは、銃や大砲や金銀といった分かりやすく野蛮な価値しか目に入らなかった。彼らが江戸の洗練された文化や商売の機微を軽蔑し、力だけで威圧しようとするその視野の狭さを嘲笑うかのように、會津の漆樽というローテクなトロイの木馬は、近代国家が自立して生きるための最も繊細で重要なハイテク「正確な目」と「正確な時間」をその腹に抱えたまま、野蛮な検問所を悠々とすり抜けていったのである。
翌日。夕刻。
品川の波止場は、海を渡る無数の小舟と、別れを惜しむ人々の喧噪でごった返していた。
夕陽が江戸の街を赤く染め上げ、長く伸びた影が波止場の石畳を覆い始めている。源四郎や太助たち向島の職人衆は、ようやく南山物産が手配した小舟に漆樽や寒天の桶を積み終え、沖合で待つ巨大な外洋輸送船へと向かう準備を整えていた。
「さあ、乗るぞ。急げ」
太助が小舟に足をかけ、振り返って六郎に声をかけた。
しかし、會津塗の職人である六郎は、乗船のための板切れを渡ろうとはせず、空になった荷車の棒をしっかりと握り直した。
「……六郎さん? 何をしてるんだ、早く乗らねえと船が出ちまうぞ」
源四郎が怪訝そうに尋ねると、六郎は照れくさそうに鼻の頭を擦り、ニカッと白い歯を見せた。
「おらぁ、ここでお別れだべ」
「なんだと?」
職人たちが一斉に目を丸くした。
「おら、會津さ戻んねえとなんねえんだ」
六郎は夕暮れの北の空、遠く離れた故郷の方角へと目を向けた。
「會津の日新館にもな、お前さんたちみてな、頭のおかしいからくり職人衆が山ほど残ってるんだ。あいつらの削った歯車や透鏡も、いずれ海を渡らせねえとなんねえ」
六郎の目には、単なる義理立てではない、技術者としての新たな野心と熱意が燃えていた。
「実を言うとな、今日お前さんたちが咄嗟に編み出した寒天の揺れ殺し……あれには、心底たまげた。漆の堅牢さと、あの弾力を掛け合わせりゃあ、どんな険しい會津の山道でも、精巧なからくりを無傷で海まで運べんべ。
おら、頭ん中さ新しい樽の図面が次々と湧いてきて、居ても立っても居らんにだ。會津さ戻って、もっとすげえ運搬用の漆箱をこしらえてみっから!」
その言葉に、源四郎と太助は顔を見合わせた。
重工業の歯車には決して組み込まれない、異端の「精密ギーク」と「素材ギーク」。その狂気とも呼べる情熱が交差したあの一瞬が、新しい技術の種となって、この職人の胸に確かに根付いていたのだ。
「そうか。あんたなら、きっととんでもねえ化け物みたいな樽を作るだろうな」
太助は口元を覆っていた手ぬぐいを外し、六郎に向かって深く、深く頭を下げた。
「あんたの漆がなけりゃ、俺たちの腕は間違いなくあの検問所で終わっていた。本当に、ありがとな」
「向島で削った俺たちの透鏡は、あんたの樽と一緒に赤道を越えるぜ。恩に着る!」
源四郎も、そして他の職人たちも次々と六郎に向かって頭を下げた。
「へへ、よしてくなんしょ。おらの方こそ、面白えものを見せてもらったべ」
六郎は大きく手を振り、夕日に照らされた顔をほころばせた。
「生きて海を渡れよ! おらも必ず後から行く。南山で、また会うべ!」
「ああ! 南十字星の下でな!」
遠ざかる小舟の上から、太助たちが手を振り返す。六郎の引く空の荷車がガラガラと波止場を去っていくその音は、彼らの耳にとても心地よく、どこか誇らしげに響いていた。
それから数時間後。
江戸湾を南下する輸送船の、波に揺れる薄暗い船室。
汽笛が鳴り響き、外洋特有のうねりが船体をゆっくりと持ち上げ始めた夕食前の時間。太助と源四郎、そして田島たちは、船室の床に運び込まれた漆樽と四斗桶を前に、車座になって座り込んでいた。
「よし、確認するぞ。南山に着くまで開けないつもりだったが、やっぱりあの田舎侍の槍の衝撃や、小舟への積み下ろしの揺れがどうにも気になっていけねえ」
「ああ、同感だ。俺もレンズの状態をこの目で見るまでは、夜もまともに眠れそうにない」
彼らは小刀を取り出し、樽の蓋を固めていた蜜蝋の封を慎重に切り開いた。
まずは偽装用の赤味噌の層である。
「おい、この味噌は捨てるなよ。強烈に塩辛いが、船の厨房に持っていってやれ。これから数週間の航海だ、船乗りたちの塩分補給にはちょうどいい贈り物になるだろうぜ」
田島が笑いながら、味噌をバケツへと丁寧に移し替えていく。
そして、味噌の層の下。分厚いおが屑と真綿の緩衝材をかき分け、彼らはついにベルベットに包まれた木箱を取り出した。
源四郎が震える手で木箱を開け、ランプの光にマスターレンズをかざす。
息を呑む音が、船室に響いた。
傷一つなく、くもりもない。完璧な透明度。
ニュートンリングの干渉縞は、向島の工房で最後に確認した時と全く同じ、寸分の狂いもない美しい同心円を描いていた。
「無事だ。あの狂ったような検問を抜けても、光軸は毛筋ひとつもズレちゃいねえ!」
源四郎の目から、安堵の涙がこぼれ落ちた。
その隣で、太助が祈るようにクロノメーターのケースを開ける。
部屋の中に、チク、タク、チク、タクという、極めて規則正しく、力強い脱進機の音が響き渡る。狂いは一秒たりともない。
田島の測量儀も、伝次の赤道儀の微動ネジも、弾力のある寒天の海から引き上げられ、蜜蝋の繭を割って確認されたが、そのすべてが向島にあった時と全く同じ、奇跡のような精度を保っていた。
「動いてる。俺たちの『時間』は、止まっちゃいない」
太助の顔に、底抜けに明るい、安堵の笑みが浮かんだ。
「よし、確認は済んだ! 赤道を越える本番はこれからだ。もう一度、この完璧な漆と寒天の揺り籠に仕舞い直すぞ!」
彼らは笑い合いながら、味噌だけを取り除いた状態の「完全無欠の移動用コンテナ」の中へ、再び自らの最高傑作たちを慎重に収め、幾重にも封をした。
もはや、どんな荒波も恐ろしくはなかった。彼らには、自分たちの知恵と、會津の職人が残してくれた最強の鎧がある。丸窓の外を覗き込めば、江戸の街が夕闇の中に沈み、新しい政府の下で一時的な文明の暗闇へと飲み込まれていくのが見えた。
しかし、太平洋の波間を滑るこの輸送船の中は、静かな希望と活気に満ち溢れていた。木箱の中から微かに漏れ聞こえる、チク、タクという規則正しい音。それは単なる機械の音ではない。南山という新国家の「正確な目」と「正確な時間」が、新しい世界と未来へ向かって、力強く脈打つ心臓の音であった。
夜の海原へ向けて、輸送船の太い汽笛が清々しく響き渡る。
向島の奇人たちの泥臭くも輝かしい脱出劇は、こうして完全なる勝利をもって、星空の待つ南の海へと漕ぎ出していったのである。
第四部 第18話 完
最後までお付き合いいただき感謝します。
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渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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シリーズの短編もアップしました。
「異聞 五稜郭」
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宜しければこちらもどうぞ
「南山共和国建国史シリーズ」
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